第一話 勇者をクビになったので、奴隷少女を魔王にする
全九話、三日間連続投稿で第一部完結予定です。
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魔王を倒せば、俺様の奴隷が殺される。
その事実を知ったのは、俺が勇者をクビになった日だった。
ならば魔王を倒さなければいい――などと、俺様が考えるはずもない。
魔王は倒す。
役割は奪う。
魔王城も魔王軍も、ついでに魔王本人も俺様がいただく。
そしてフィーネを、次の魔王にする。
我ながら完璧な作戦だった。
もっとも、この時点ではまだ、当のフィーネだけがそのことを知らなかったのだが。
◇◇◇
「――以上が、魔王城攻略作戦の全容です」
王城五階に設けられた軍議室。
巨大な円卓の上には魔族領の地図が広げられ、数十個の駒が整然と並べられていた。
説明を終えたクラウディア・ローデンが、銀縁眼鏡の位置を直す。
勇者パーティーの賢者にして、王国随一の宮廷魔術師。
長い藍色の髪を背中へ流した、いかにも頭の固そうな女だ。
「魔王軍の北方砦を迂回し、渓谷から魔族領へ侵入します。行軍に七日。そこから三日をかけて魔王城を包囲。補給路を断ったのち、私たち勇者一行が城内へ突入します」
「異議はありません」
真っ先に賛同したのは、聖女エレノア・アルセイン。
純白の法衣をまとい、黄金色の髪を肩口で切りそろえた美人だ。
性格は真面目で堅苦しく、食事の前には必ず祈りを捧げる。俺様が先に食べ始めると、食事中ずっと睨んでくる面倒な女でもある。
「兵士の犠牲を最小限に抑えられる、堅実な作戦だと思います。ヴィオラはどうですか?」
「アタシも構わない。北方砦を正面突破するよりは、よっぽどまともだ」
椅子を後ろへ傾けながら答えたのは、剣姫ヴィオラ・レイヴァン。
燃えるような赤い髪を高い位置で束ね、会議中だというのに腰から長剣を外そうともしない。
気が短く、すぐに剣を抜く。
以前、結婚したら毎朝裸エプロンで起こしに来いと言っただけで、三日ほど本気で命を狙われた。
「では、全員一致ということで――」
その瞬間、軍議室の窓を巨大な影が覆った。
「伏せてください!」
エレノアが叫ぶ。
直後、窓硝子を突き破って、一頭の飛竜が室内へ転がり込んだ。
巨体が円卓を直撃し、精密に並べられていた駒を吹き飛ばす。王国軍の兵士を示す白い駒も、魔王軍を示す黒い駒も、仲良く床へ散乱した。
「なっ……!?」
「敵襲よ!」
ヴィオラが椅子を蹴って立ち上がり、長剣を抜く。
クラウディアも即座に杖を構えた。
飛竜は翼を広げれば十メートルを超える大型種だ。普通なら、討伐には騎士一個小隊を必要とする。
ただし、今は白目を剥いて気絶していた。
その背中から、俺様は軽やかに飛び降りる。
「待たせたな」
「ご主人様、お待たせした側が言う台詞ではないと思います」
続いて、小柄な少女が飛竜の背から降りてきた。
淡い銀色の髪に、紫水晶のような瞳。
首には、所有者が俺様であることを示す黒い隷属環がはめられている。
俺様の奴隷にして、身の回りの世話を担当するフィーネだ。
床へ降り立ったフィーネは、割れた窓と壊れた円卓を見回し、深々と頭を下げた。
「皆様、申し訳ございません。ご主人様には扉から入るよう、何度もお願いしたのですが……」
「窓の方が近かった」
「ここは王城の五階です!」
エレノアの悲鳴が響く。
「だから飛竜で来たんだろうが。階段を上る手間が省けた」
「それ以前の問題です!」
「相変わらず細かい女だな。美人なのに、そんなことでは婚期を逃すぞ。仕方ないから俺様がもらってやる」
「その心配だけは不要です!」
今日も元気そうで何よりだ。
ヴィオラが長剣を握ったまま、飛れた飛竜へ近づく。
「こいつ、魔王軍の偵察用飛竜じゃない。あんた、どこで捕まえたのよ?」
「王都の西だ。空を飛んでいたから殴り落とした」
「どうやって空を飛んでいる相手を殴るのよ」
「跳べば届く」
「届くわけないでしょ!」
「届いたからここにいるんだろ」
見れば分かることを、いちいち聞く女だ。
飛竜の頭には、俺様の拳の形にへこんだ大きな瘤ができている。
フィーネがその頭を膝に載せ、治癒魔法を施し始めた。淡い光に包まれた飛竜が、小さく喉を鳴らす。
「それで?」
俺様は半分だけ残った円卓へ歩み寄った。
「何の話をしていた?」
「魔王城攻略作戦です!」
クラウディアが珍しく声を荒らげた。
床に散らばった駒を見下ろし、こめかみを押さえている。
「七日かけて北方砦を迂回し、さらに三日をかけて魔王城を包囲する作戦でした。私が十日かけて作成したものを、あなたが今、十秒で破壊したのです」
「却下だ」
「聞いていましたか?」
「聞いたから却下した。遅すぎる」
俺様は床に落ちていた魔王の駒を拾い上げる。
「三日後、王都で美人コンテストがある」
「……はい?」
「俺様は審査員を頼まれている。十日もかけていられるか」
「世界の命運よりも、美人コンテストを優先するのですか?」
クラウディアが理解不能な生物を見るような目を向けてくる。
「当然だ。魔王は逃げないが、今年の美人は今年しかいない」
「出場者は来年も存在します!」
「来年には結婚しているかもしれないだろうが!」
「知らないわよ!」
ヴィオラが怒鳴った。
「そもそも、勇者が美人コンテストの審査員を引き受けないで!」
「王国中の美女が集まるのに、俺様以外の誰が審査するんだ?」
「世の中の男は、あんただけじゃないのよ!」
「俺様以外の男に女を見る目があると思うか?」
「その根拠のない自信はどこから湧いてくるの……?」
ヴィオラが剣を下ろし、額を押さえた。
まったく、仕方のない連中だ。
「安心しろ。もっと早い作戦を俺様が考えてきた」
「嫌な予感しかしませんが、一応伺いましょう」
クラウディアが警戒を隠さずに尋ねる。
俺様は気絶している飛竜を指差した。
「こいつに乗って北方砦を飛び越える」
「飛竜は四人までしか乗れません」
「お前たちは歩いてこい」
「勇者パーティーの意味をご存じですか?」
「魔王は俺様が倒す。お前たちは城の後片づけでもしていろ」
我ながら無駄のない作戦だ。
「魔王を倒したら、この飛竜は逃がす。帰りは魔王が使っている乗り物を奪えばいい。二日で戻れる」
「穴だらけです!」
エレノアが円卓を叩いた。
「あなたはいつもそうです! 作戦を無視し、後先も考えず、すべてを力で解決しようとして!」
「実際、解決してきただろ」
「そういう問題ではありません!」
「では、どういう問題だ?」
「あなたの人格の問題です!」
随分とはっきり言う女だ。
だが、美人が怒って頬を赤くしている姿は悪くない。
「やはり俺様の妻になるか?」
「なぜ今の会話から求婚に至るのですか!」
「エレノアは美人だからな。多少面倒でも許してやる」
「私は許しません!」
「そうか。ならヴィオラ、お前が一番目だ」
「巻き込むな!」
ヴィオラの剣先が俺様の喉元へ突きつけられる。
殺気はあるが、本気で斬る気はない。
俺様には分かる。
何度も口説いているからな。
「お前はもう少し料理を覚えろ。毎日干し肉では飽きる」
「誰が結婚するって言った!」
「照れるな。顔が怖いぞ」
「殺す!」
「ご主人様、本題から離れております」
飛竜の治療を終えたフィーネが、俺様の外套についた硝子片を払いながら教えてくれた。
「そうだったな。クラウディア」
「お断りします」
「まだ何も言っていないぞ」
「私への求婚でしょう」
「さすが賢者だ。察しがいい。俺様との子供も頭が良くなりそうだ」
「私を子供の教育係にするという、先ほどの発言から悪化していませんか?」
「妻と教育係を兼任すればいい。給料は一人分で済む」
「誰があなたと結婚しますか!」
三人とも、今日も素直ではない。
フィーネが小さく息を吐いた。
「ご主人様。本日だけで四人目ですよ」
「お前を数に入れるな。お前は最初から俺様のものだ」
「そういう意味ではございません」
「今日は調子が悪いな」
「多い方です」
俺様たちのやり取りを眺めていたエレノアの表情が、不意に曇った。
やがて意を決したように、胸元で両手を握る。
「ゼクト。もう、終わりにしましょう」
「何がだ?」
「あなたと私たちの、勇者パーティーをです」
軍議室の空気が変わった。
ヴィオラが目を逸らす。
クラウディアは驚かない。最初から知っていたらしい。
エレノアは懐から、一通の書状を取り出した。
王家と神殿、二つの封蝋が押されている。
「勇者ゼクト・グランツ。王国および中央神殿は、度重なる命令違反と不適切な行動を理由に、あなたを魔王討伐隊から除名します」
「不適切な行動?」
心当たりが多すぎて、どれのことか分からんな。
エレノアは書状を読み上げる。
「王命を三度無視。軍資金を無断で賭博へ使用。敵砦への単独侵入。救出した三人の王女へ同時に求婚。捕虜とした魔王軍幹部を許可なく解放――」
「待て。軍資金は増やして返しただろう」
「そういう問題ではありません!」
「王女たちも全員美人だった」
「それも問題です!」
「魔王軍幹部は、俺様の女になると言ったから見逃した」
「なっていないでしょう!」
「将来の話だ」
エレノアの額に青筋が浮かんだ。
「さらに、作戦無視、貴族への暴行、王城内での破壊行為――」
「窓のことなら今壊したばかりだぞ」
「一項目増えました!」
なるほど。
どうやら本気らしい。
俺様はクラウディアへ目を向けた。
「お前が考えたのか?」
「ええ」
クラウディアは静かに認めた。
「あなたの力が必要だったことは否定しません。しかし、その力に頼り続けた結果、勇者一行としての規律は完全に崩壊しました」
「最初から規律などなかっただろ」
「あなたが壊したのです」
「壊れる程度のものなら必要ない」
「……そういうところです」
眼鏡の奥に、わずかな苛立ちが浮かぶ。
「《勇者》の役割があるからこそ、私たちはあなたの横暴を受け入れてきました。しかし、その役割を返上すれば、あなたはもう勇者ではありません」
「俺様が辞めたら、魔王討伐はどうするつもりだ?」
「ご心配なく」
クラウディアは、待っていたとばかりに答えた。
「すでに神殿が、次代の勇者候補を選定しています。明日にはあなたから回収した《勇者》が、新たな適格者へ継承されます」
「俺様のお下がりで魔王を倒すつもりか。随分と安い勇者だな」
「役割の価値は所有者によって変わりません」
「変わるぞ。俺様が持っていたものだから、一番価値がある」
「……そういうところです」
「今日二回目だな、それ」
クラウディアは答えず、眼鏡を押し上げた。
「新たな勇者は、私たち三人と合流します。魔王討伐に支障はありません。あなたには勇者の役割を返上していただきます」
「なるほど」
俺様は頷いた。
「なら、魔王を倒したあとの報酬は全部俺様のものだな」
三人が黙った。
「……怒らないのですか?」
エレノアがおそるおそる尋ねる。
「なぜだ?」
「私たちは、あなたを追放するのですよ」
「そうらしいな」
「勇者の名誉も、王国からの支援も、すべて失うことになります」
「名誉で飯は食えん。金なら魔王から奪えばいい」
何を気にしているのか、さっぱり分からん。
「むしろ都合がいい。これからは、お前たちに戦利品を分ける必要もない」
「……本当に、あなたという人は」
エレノアは悲しそうに目を伏せた。
ヴィオラはそんな彼女を見てから、俺様を睨む。
「一つだけ言っておくわ。アタシは最後まで反対したからね」
「俺様と別れるのが寂しかったか?」
「違う! あんたの性格は大嫌いよ!」
「安心しろ。魔王を倒したら迎えに来てやる」
「来るな!」
「エレノアとクラウディアも一緒でいいぞ」
「追放された直後まで私たちを口説かないでください!」
元気な女たちだ。
「では、神殿へ向かいましょう」
クラウディアが杖を手に取った。
「あなたから《勇者》の役割を剥奪します」
◇◇◇
この世界に生きるすべての人間は、十五歳になると女神から《役割》を与えられる。
《剣士》《商人》《農民》《治癒術師》。
役割は才能を決め、立場を決め、時には人生そのものを決める。
強力な役割を得た者は称賛され、そうでない者は分相応に生きることを求められる。
そして《勇者》とは、数ある役割の頂点。
人類を救い、魔王を倒すため、女神に選ばれた英雄だ。
「勇者ゼクト・グランツ。祭壇の前へ」
中央神殿の最奥。
壁も床も純白の石で造られた聖堂に、老いた大神官の声が響く。
祭壇の奥には、人の背丈ほどもある巨大な鑑定晶が安置されていた。
エレノアたち三人に加え、数十名の神官と神殿騎士が俺様を囲んでいる。
勇者の追放を見届けようと、王国の貴族まで集まっていた。
随分と暇な連中だ。
「ご主人様」
後ろに控えていたフィーネが、俺様の外套を摘まむ。
「本当に、よろしいのですか?」
「何がだ?」
「勇者ではなくなってしまいます」
「だから何だ?」
「弱くなってしまうかもしれません」
「俺様が?」
馬鹿なことを言う。
「役割がなくなった程度で俺様より強くなる奴がいるなら、連れてこい。返り討ちにしてやる」
「ご主人様なら、そうおっしゃると思いました」
フィーネは安心したように笑った。
俺様は祭壇へ上がり、鑑定晶に右手を触れる。
透明だった水晶の内部に、金色の文字が浮かび上がった。
《個体名――ゼクト・グランツ》
《役割――勇者》
《神聖加護――剥奪承認》
《魔王討伐権――返上》
《女神との接続を解除します》
水晶から伸びた光が、俺様の胸へ突き刺さる。
熱はない。
痛みもない。
ただ、身体の中から何かが抜け落ちていく感覚があった。
右手の甲に刻まれていた勇者の紋章が、光の粒となって消滅する。
《役割――未設定》
《神聖加護――なし》
《魔王討伐適性――測定不能》
《総合能力――算出不能》
聖堂のあちこちから、ざわめきが上がった。
「終わりました」
大神官が冷たく告げる。
「今のあなたは、何の役割も加護も持たない、ただの人間です」
「そうか」
俺様は肩を回した。
確かに、妙な重さが消えている。
身体が軽い。
「いかがです?」
クラウディアが祭壇の下から俺様を見上げていた。
「力を失った感想は」
「肩こりが治った」
「強がりはおやめください。《勇者》の加護を失えば、能力は十分の一以下になっているはずです」
「なら、試してみるか?」
一歩踏み出す。
石造りの祭壇が、俺様の足元からひび割れた。
聖堂が揺れ、天井から白い粉が降ってくる。
神官たちが悲鳴を上げた。
クラウディアの頬が引きつる。
「ただの人間にしては、元気そうだろ?」
「……鑑定晶の故障です」
「便利な言葉だな」
「ゼクト」
ヴィオラが俺様を呼んだ。
その手は無意識に剣の柄へ伸びている。
怯えているのではない。
俺様の力量を測ろうとする、剣士の目だ。
「本当に、何ともないの?」
「さっきからそう言っている」
「……そう」
ヴィオラだけは気づいたらしい。
俺様が何一つ失っていないことに。
「これで手続きは完了です」
大神官が宣言する。
「ゼクト・グランツ。あなたに魔王討伐を名乗る資格はありません。二度と勇者を称さぬように」
「勝手にしろ。俺様は最初から、勇者などと名乗った覚えはない」
「待ってください」
立ち去ろうとした俺様を、エレノアが呼び止めた。
彼女が見ているのは、俺様ではない。
フィーネの首にある隷属環だった。
「最後に、その少女を解放してください」
「断る」
考える必要もなかった。
「フィーネは俺様のものだ」
「あなたはもう、王国公認の勇者ではありません。これ以上、彼女を危険な旅へ巻き込むことは認められません」
「お前の許可など必要ない」
「彼女は人間ではなく魔族です。奴隷として不当に売買され、あなたに逆らえない契約を結ばされています」
「だからどうした?」
「自由にするべきです!」
エレノアがフィーネの前へ膝をつく。
「もう大丈夫です。あなたを縛っている契約は、私が解除します」
「あの……」
フィーネは困ったように俺様とエレノアを見比べた。
「お気持ちはありがたいのですが、私はご主人様についていきます」
「脅されているのですか?」
「いいえ」
「では、何か弱みを握られて?」
「ご主人様を一人にすると、三日以内に全財産を使い切りますので」
「昨日、倍にしたぞ」
「軍資金を賭博に使わないでください」
フィーネが静かに返す。
「それに、ご主人様は料理も洗濯もできません。宿の手配を忘れ、放っておけば野宿します。欲しいものを見つけると値段を見ずに買い、気に入らない相手がいると建物ごと殴ります」
「そこまで悪く言う必要はないだろ」
「すべて事実です」
「分かりました」
エレノアが立ち上がる。
「ゼクトから離れられないほど、心を支配されているのですね」
「なぜそうなるのですか?」
「今、私が解放します!」
「話を聞け、エレノア」
俺様が止めるより早く、エレノアがフィーネの隷属環へ触れた。
「聖なる女神よ。不当に奪われし魂へ、再び自由を――《契約解放》!」
白い光が、隷属環を包む。
フィーネが小さく息を呑んだ。
隷属環に刻まれた俺様の紋章が消えかける。
その瞬間だった。
祭壇の鑑定晶が、耳障りな音を立てた。
《未登録個体への干渉を検出》
《隠匿役割を検索》
《真名照合――不一致》
《血統情報を優先します》
水晶の内部が、血のような赤に染まっていく。
《対象個体――フィーネ・ルクレティア・セレス・アステリア・ヴァル=ノクティス》
「え……?」
フィーネが目を見開いた。
「フィーネ?」
「知らない名前です。聞いたこともないはずなのに……」
フィーネが自分の胸元を押さえる。
「どうして、自分の名前だと分かるのでしょう」
声が震えていた。
水晶に、さらに文字が刻まれていく。
《魔王王統――適合》
《真なる役割――終焉の■■》
《執行条件――異界魔王の討伐》
《対象の所有権を確認》
《隷属契約による保護――有効》
《契約解除後、執行可能》
《執行準備を開始します》
「嫌……」
フィーネが、俺様の外套を強く掴んだ。
これまでどんな魔物を前にしても、彼女がそんな声を出したことはなかった。
「ご主人様、私――」
その先を聞く必要はなかった。
俺様は祭壇を踏み砕き、赤く染まった鑑定晶へ拳を叩き込む。
轟音とともに、水晶が砕け散った。
赤い文字が消滅し、フィーネを包んでいた光も霧散する。
隷属環には、再び俺様の紋章が戻っていた。
「何をするのです!」
エレノアが叫ぶ。
「余計なことをするなと言ったはずだ」
「あれは神殿の至宝ですよ!」
「知るか」
俺様はフィーネの腕を引き、自分の後ろへ下がらせた。
「俺様のものを怯えさせた方が悪い」
フィーネが背後で息を呑む。
だが、何かを言わせてやる暇はなかった。
聖堂の扉が閉じられる。
完全武装した神殿騎士たちが、俺様たちを包囲した。
先頭に立つ大柄な騎士が、槍を突きつける。
「ゼクト・グランツ。神殿の至宝を破壊した罪により、貴様を拘束する」
「断る」
「貴様はもう勇者ではない。神殿騎士長たる俺に逆らえば、どうなるか分かっているのか?」
「知らん。どうなる?」
「身の程を教えてやる!」
騎士長が床を蹴った。
神聖な光をまとった槍が、俺様の胸を狙う。
遅い。
俺様は槍の穂先を片手でつかみ、そのまま騎士長ごと持ち上げた。
「なっ――」
「役割がなければ、俺様に勝てると思ったか?」
振り下ろす。
騎士長の身体が床へ叩きつけられ、聖堂全体が大きく揺れた。
石床に、人型の穴ができる。
神殿騎士たちの顔から血の気が引いていた。
「まだやるか?」
「ま、参った……」
穴の底から、騎士長のかすれた声が聞こえる。
「俺の……負けだ……」
その瞬間。
俺様の前に、黒い文字が浮かび上がった。
《対象が敗北を承認しました》
《勝利条件達成》
《対象の役割――神殿騎士長》
《勝者は、敗者が所有する役割を接収できます》
《接収しますか?》
どうやら、クラウディアの言っていたことは半分だけ正しかったらしい。
勇者という役割が消えたことで、それまで覆い隠されていた別の何かが目を覚ました。
《固有権限――勝者権限》
《敗北を認めた対象から、役割の接収、所有、譲渡、封印が可能です》
俺様は黒い文字を読み終える。
「ご主人様……?」
フィーネが不安そうに俺様を見ていた。
俺様にしか見えていないらしい。
「要らん」
《接収を放棄しますか?》
「そんなつまらん役割、俺様には必要ない。もっと上等なものを寄越せ」
黒い文字が消滅する。
俺様はエレノアたちへ背を向けた。
「帰るぞ、フィーネ」
「ですが、どちらへ……?」
「魔王城だ」
割れた窓から、夕暮れの空が見える。
王都の遥か北。
黒い山々の向こうに、魔王の支配する土地がある。
「待ちなさい!」
エレノアが俺様の背中へ声をぶつける。
「あなたはもう、勇者ではありません!」
「何度も言うな。聞こえている」
「魔王を討伐する資格はないのですよ!」
「勇者でなければ魔王を倒せないと、誰が決めた?」
「それは……女神様です」
「なら、その女神が間違っている」
振り返ると、クラウディアが俺様を凝視していた。
さっきの一撃が信じられないらしい。
ヴィオラは剣の柄を握ったまま、楽しそうに口元を歪めている。
「やっぱり、あんたは何も失ってないのね」
「当たり前だ」
「次に会ったら、今度こそアタシが勝つ」
「勝ったら結婚してやる」
「絶対に負けられなくなったじゃない!」
「エレノアとクラウディアも、魔王を倒したら迎えに来てやる。荷物をまとめて待っていろ」
「誰が待ちますか!」
三人の声を背中で聞きながら、俺様はフィーネを連れて聖堂を出た。
◇◇◇
神殿の外では、捕まえた飛竜が大人しく待っていた。
フィーネの治癒魔法が気に入ったらしい。俺様を見ると怯えたように首を引っ込めたが、逃げようとはしない。
「ご主人様」
フィーネが立ち止まった。
「先ほど表示された名前は、何だったのでしょう」
「長すぎて覚えていない」
「私の名前かもしれないのですが……」
「フィーネでいいだろ」
「ですが、魔王王統とも表示されていました。もしかすると私は――」
「難しい顔をするな。似合わんぞ」
フィーネが俯く。
「私は、何者なのでしょうか」
「フィーネだ」
「それだけですか?」
「俺様の奴隷だ。それ以上に何がいる?」
フィーネが顔を上げる。
紫色の瞳に浮かんでいた不安が、ほんの少しだけ薄れた。
「……そうですね」
「分かったら乗れ」
「ご主人様は、時折とても乱暴に人を安心させますね」
「褒めても何も出んぞ」
「褒めているかどうかは、ご想像にお任せします」
生意気な奴隷だ。
俺様は飛竜の背へ飛び乗り、フィーネに手を伸ばす。
彼女が俺様の手を取った。
「それで、魔王城へ向かってどうなさるのですか?」
「魔王を倒す」
「勇者ではなくなったのに、ですか?」
「俺様が魔王を倒すのに、勇者の役割など必要ない」
「ですが、魔王を倒すと私の《何か》が執行されると……」
「魔王を殺さずに負けを認めさせる。あとは《魔王》だけを奪えばいい」
「簡単なことのようにおっしゃいますね」
「俺様にとっては簡単だ」
魔王を倒す。
役割を奪う。
魔王城も魔王軍も、宝物庫も全部いただく。
「では、ご主人様が次の魔王になるのですか?」
「馬鹿を言え」
俺様が、誰かの後釜で満足するはずがない。
「次の魔王は、お前だ」
「…………私ですか?」
「喜べ。奴隷から魔王へ昇進だ」
「昇進の幅が大きすぎます……!」
「細かいことを気にするな。まずは手頃な砦を一つ奪うぞ」
「手頃な宿のようにおっしゃらないでください!」
飛竜が翼を広げる。
目指すは、魔王軍北方砦。
俺様たちが最初に奪う城は、もう決まった。
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