開幕
湿ったアスファルトと、能面のようにのっぺりとしたコンクリートの壁。
暗く、街灯の一つもない夜道。
ぽつり、ぽつりと肌を濡らす雨粒。
雨の日特有の独特の黴臭さが苦手だと、お母さんに話したことがある。
雨に匂いなんてない、と言い張るお母さんと激しい論争を繰り広げたのが遠い昔のようだ。
「陽莉は繊細だねぇ」
なんて貴女は笑いましたが、やっぱり、雨には匂いがあると思います。
わたしが繊細なんじゃなくて、貴女が人一倍鈍感だっただけですよ。
────荒い息遣い。
出所は懸命に疾走する少女。
長い茶髪が揺れ、乱れ、解けていく。
買ってくれた服はサイズがバラバラだし、高校の制服もぶかぶかで困ってるんです、
料理だってそう。包丁の扱いは危なっかしくて、上手なのはみじん切りだけ。
味付けも大雑把でしょっぱいし、辛いし、酸っぱかった。
わたしが料理担当を代わると宣言した時、貴女は「陽莉も大人になったねぇ」と喜んでいましたが、わたしは自分のことしか気遣っていませんでした。
────足が痛い。
筋肉が引き攣り、脚を上げ下げする動作すら苦痛を伴う。一歩一歩が泥の海を掻いているように重い。
呼吸を阻害するマスクを剥ぎ取り、大きく息を吸う。しかし、期待した清涼な感覚は訪れず、髪の毛が口元に張り付き、不快感がいや増しただけだった。
肺も痛い。息は吸えないのに、何かがパンパンに詰まって張り裂けそうだ。
耳も、腕も、頭も。
アスファルトを踏みしめるたび、水溜まりを踏み抜くたびに、痛みが全身に広がっていく。わたしの感覚神経には痛覚しか存在しないのか、なんて錯覚してしまう。
「──あっ………」
焦燥故か、疲労故か、躓いて転んでしまう。その様は、ある種古典的で滑稽だ。
先ほどまで散々踏み抜いた地面が、ここぞとばかりに仕返しをしてくる。
分かっているんです。
わたしが一変した環境に戸惑い、適応しようと藻掻いていたように。
慣れない仕事も家事も、料理も洗濯も、貴女なりに必死に頑張っていたこと。
それが全部、わたしのためであったことも。
────地面に手を突く。
皮手袋越しに感じる、濡れたアスファルトの冷ややかな手触り。尖った小石が皮膚に突き立つ感触。
立ち上がらなければならない。
もう走るのは嫌だ、などと駄々をこねる身体を無視し、細腕になけなしの力を籠めた。
立ち上がって、逃げなければ。この命を長らえさせなくてはならない。
なんのために?
母親を殺しておいて、自分は死にたくないというのか。
脳裏によぎった思いを、頭を振って放り捨てる。そうしなくては、もう二度と立ち上がれない気がする。
膝に重心をかけ、身体を持ち上げる。
その瞬間、
何かが足に巻き付いた。
えっ、と子供みたいに呆けた声が漏れる。
獣の腕にも、触手にも見えるそれには、針金のような毛が生え茂り、不気味に蠢いていた。
蜈蚣のように素肌の表面を這い回るその感触に、凄まじい生理的嫌悪感を抱く。
だが、強制的に不快感を味合わされる地獄も、長くは続かなかった。
わたしの身体は強烈な勢いで引き倒され、地面に叩き付けられる。
「ぅああっっっッッ!!」
苦痛に喘ぐわたしの意思など一切気にせず、触手は更に力を強め、背後の暗闇へと引き摺り込もうとする。
全力で地面に爪を突き立てるが、雨下のアスファルトと皮手袋、そして相手の圧倒的な膂力といった不利要素が重なり、無為な抵抗と化した。引き摺られる最中、鉄製のゴミ箱にしがみつく。足が引きちぎられるのでは、と思うほどの激痛に悶えながら、必死に鉄屑に体温を預ける。
咄嗟の判断だったが、どうやら正解に限りなく近い誤答だったようだ。
業を煮やしたそれが暗闇から這い出てくる。
一言でいえば、毛の化け物。
全身に纏った毛は、意思を持っているかのように蛆邪蛆邪と蠢いている。雨に浸されたせいか湿っており、移動する毎にずちゃ…という音がわたしの鼓膜を犯す。
幼い頃、飼育係としてウサギ小屋を掃除したことを思い出す。前の係の怠慢で長年清掃されていなかった小屋には大量の糞が積まれており、排泄物の山の中から蟲が湧いていた。
痛烈で、できれば思い出したくない類の追憶。その体現ともいうべき存在と向き合っている。
どこが身体でどこが首か、下半身も足の存在も不確か。毛に覆われているせいで、眼球も口腔も確認できず、必然的に表情も読み取れない。
だが、〝見られている〟ということだけは分かる。流動的で、蠕動的で、不定形な毛の塊にあって、確固たる顔貌、その果てにある願望を想像させる。
全身から漂う陰湿で、粘着質で、不健康的で、不快感を掻き立てる気配が、圧倒的な重圧として顕在化し、わたしから抵抗する気力を削いだ。
わたしの短い人生の中で、死をここまで鮮明に感じさせられたのは初めてだった。
呼吸ができない。喉から漏れ出すのは、声にすらならない空気の塊。全身が総毛立ち、底冷えするほどの恐怖と焼焦げそうな焦燥に襲われる。
全身の汗腺が急激に仕事し始め、面白いぐらいに肢体が震える。
いつのまにか両腕からは力が抜け、両の瞳はゆっくりと捕食者の許に身を捧げる己を眺めていた。
────死にたくない。
先程までと比べると驚くほど鈍い動きで、わたしの身体は引き摺られる。
もう抵抗の意思が残っていないことを、それは察知しているのだろうか。
────死にたくない。
針金のような毛が足首から膝、太ももを上って胴体に絡みついてくる。
差し出された皿を舐るように。捕らえた獲物を吟味するように。
────わたしはまだ、
「死にたくないよ………お母さん………!」
絞り出された、小さな、本当に小さな叫び。
それが雨の雫に溶けた刹那。
わたしの身体が捻り折られるよりも先に。
静かに、化け物の頭部が爆ぜた。
一瞬遅れて噴き出す、墨のような液体。周囲に飛び散った液体はわたしの身体も黒く染める。
僅かな沈黙の後、化け物は欠けた部位を意に介さず、ゆっくりと背後を振り返────る、途中で壊れた人形のように体勢が揺らいだ。
今度は聞き取れた。独特なくぐもったオト。硬質的な殺意。
それが発砲音であるとは、このときの混乱した頭では考えつかなかったが。
再度、音が鳴る。伸びつつあった化け物の触手が弾ける。
また、音が鳴り、化け物の動きが止まる。わたしを掴んでいた触手から力が抜けた。
そして五発、六発と続き、やがて肉塊は地面に倒れ伏した。
数瞬前まで化け物だった物の背後から響く足音。
その人は、白黒に染まったわたしの世界に、鮮烈な存在感を纏って現れた。
「────クソ、どういうことだ? 聞いてた話と違うじゃねぇか」
そんな、言葉を吐き捨てて。




