第五十五話 : 信じたものは
「どうして……」
深月がこの国の、この世界の人間ではないということは、ほんの一握りにしか知らされていないのに。
アークにリゼ、その聖獣であるディディウスと、身の回りの世話をしてくれる侍女。ユハとセレーンだけ。身辺警護を司る近衛たちには深月の素性はおろか、王女のフリをしているということさえ隠しているのだ。
人の口に戸は立てられない。深月を知る者が増えればそれだけ、誰かの口からその情報が漏れてしまう可能性が増えてしまう。
だからアークは深月を神殿に置き、極力他人とは関わらせないようにしていたのだ。不用意に近づかせないために。正体を知られて利用されることのないように。
アークは細心の注意を払っていたのだと、今なら分かる。なのに。
どうして他国の皇太子であるライズが、その事実に辿りついているのか。
「なんで……」
誤魔化さなくちゃ。
例え気づかれていたとしても、自ら認めてはいけない。そう思うのに言葉が続かない。出てこない。
「……気づかぬと思うのか。そんな妙な気配をさせておきながら」
「違う、私は……」
息がかかるほど詰められた距離で、ライズが深月を見下ろしている。深い紫紺の眸には、他の誰でもない自分が捕らわれている。動揺し震える、王女には似ても似つかない情けない少女が。
「私、は、この世界の……」
「やめておけ。これ以上謀るつもりならば容赦はしない」
「……っ」
一気に冷めた声音に深月は息を詰まらせた。先程の恐怖が蘇り、躰が強張る。震えだした唇を咄嗟に噛み締め、けれど呑まれてしまわぬよう、深月はきつく瞳を閉じるとふるりと頭を振った。
小さく息を吸い、再びライズの眸を見つめる。
「わ、私がどこの誰であろうと、皇太子さまには関係ありません」
「ほう」
紫紺の眸がすっと細められる。
「それで?」
「だから、私は……居るべき場所へ帰るんです」
やっとの思いで言い切ると、ライズはクッと低く笑った。
否、嗤った。
「皇太……」
「お前は随分と身勝手なんだな」
楽しそうに顔を歪めてライズは掴んだままの深月の髪を引いた。
「った……っ」
「この国には居場所がない。だから自分の世界に帰る。誰にも告げずにこそこそと、な」
「――――っ」
「どうやってこの世界に来たのかは知らないが、どうせ迷い込んできたのだろう? その色彩が、容貌がこの世界でどんな意味を持つのかさえも分からずに。違うか?」
「そ、れは」
「拾った時には気付かなかった、その面倒さ。外見が似通っているだけではない、お前の本質はそんなところではなかった。俺にとってはどうだって構わないが……」
あの神官は違うだろう。
その言葉に、深月の心臓は大きく跳ねた。
眩い金色と澄んだ天色の、凛としたその姿。厳しくて優しい人。
「お前は存外、薄情者だな」
ライズの言葉は紛れもない真実で、深月の胸を突き刺した。
「必死に隠したところで本人がこれではな。それとも有難迷惑というやつだったか」
「――違うっ」
「ではなんだ? 何故今になって逃げ出した?」
「だって、それは……っ」
自分が傍に居ることで、傷つけてしまうと分かったから。言おうとして、深月は言葉に詰まった。それはつまり、全てを話すということだ。リゼの気持ちも、アークの想いも。
そんなこと、出来るわけがない。
黙り込んだ深月の感情をどう感じたのか、ライズはふっと息を溢した。嗤うような、憐れむような響き。そして皇太子は、信じられない言葉を放った。
「これではあの侍女も、躰を差し出した意味がなかったというわけだ」
「…………………………え?」
からだを、さしだした?
確かに聞こえたのに、理解が追いつかない。それが何を意味する言葉なのか、自分にどう関わりがあるのか。
「さしだした、って? それに侍女って、誰の……」
「お前の侍女に決まっているだろう。ああ、元は王女の、か」
まるで興味がないといった様子の皇太子は、けれど楽しそうに続ける。
「前にお前と城に居た、銀鼠色の髪をした娘だ」
————セレーンだ。
初めて皇太子と朝食を取った時、城内を案内してくれたのが彼女だった。
特徴からしても間違いない。でも。
「なんで、どうして……」
「さぁな。大方、身代りにでもなるつもりだったのではないか? お前のな」
言って、ライズはすっと深月の胸元を指差した。
「自分が慰みものになる、だから主人に手を出すなと。そういうことだろう」
「な……っ?!」
言葉の凄さに深月は打ちのめされそうになった。過るのは、自分よりも幼い侍女。感情を表に出さない、けれど気遣いに溢れた優しい少女。
「従順と言いたいところだが愚か者だな。己にどれほどの価値があると思っているのだろうな。花嫁殿の代わりなど」
「じゃ、じゃあセレーンは……」
セレーンには、何もしていないということなのか。見出した一縷の希望を、しかし皇太子はあっさりと消し去った。
「望み通りにしてやった。自惚れた姿は滑稽だったが、主の為というその姿勢だけは勇ましかったからな」
「望み、通り?」
「そういえば、あの娘も神官なのだったか? どおりで」
納得したようにライズが呟く。セレーンは。
「相当苦痛だったらしいが、声ひとつ上げなかったな。見上げた忠誠心だ」
「――――――――」
蘇る、早朝の記憶。
『どうしたの、セレーン? どこか具合でも悪いの?』
『なんでもありません」』
『セレーン、お腹痛いの?』
お腹が痛いのも、歩くのが辛いのも。セレーンは認めなかったし、理由も言わなかった。
深月が勝手に勘違いしただけで、それは――――。
「……だ」
「何だ? ミヅキ」
「そんな……」
また、深月の知らないところで。
深月の為に、大事な人がぼろぼろになっていく。
何も知らない愚かな自分。何も出来ない自分の為に。
身の振り方さえ決められない愚かさに、犠牲ばかりが増えていく。
「おい」
「――やっ」
頬に伸ばされた手を弾いた、その瞬間。
「もう、嫌だーーーーーー!」
深月の感情は爆発した。
◇◇
「――――――」
闇で塗りつぶしたかのような空に、眩い光の柱が上がる。城内の一室からその光景を目の当たりにしたアークは大きく目を瞠った。星も月も望めなかった暗さが錯覚であったかのように、庭園は煌々と照らし出される。
「あれは……あの光は」
最初に言葉を発したのは、アークではなかった。
「あの光の柱は、まさかあの時の……」
次いで上がったのもまた、別人の声。「そうだ」「まさしく」とそれからは次々と声が上がる。一気に騒がしくなった室内には、そうなるだけの人数が集まっていた。長いテーブルを囲むように頭を突き合わせているのは、リラムの主だった重臣たち。議会室に集った者は大臣やら政務官、大貴族に高位神官、そして筆頭たるアーク。先程まではやれ王侯貴族の権威だの正当な血筋だのと騒いでいた重臣たちは、今はだれもが興奮した顔で外を見やり、「奇跡が」と口に上らせた。
「最高神官長」
呼ばれ、アークははっと我に返る。振り向くと背の高い男が、なんの戸惑いも見せぬ顔で立っていた。純白の長衣に施された白金の刺繍は、高位神官の証。刺繍と同じ彩の髪を短く刈った、神殿ではアークの次点に立つ者だ。
「今の光をご存知ですか?」
「……ああ」
問いというよりも確認に近いその口調に、アークは渋面で頷き、踵を返す。
「行ってくる。あとを頼む」
「はい」
無駄な問答を必要としないその姿勢に頷き、アークは早足で扉を目指す。余計な質問を浴びせる臣たちはすべて無視して回廊へ出ると、アークは光とは真逆の方向へと駆け出した。
「――――ミヅキ!」
ばん、と音を立てて扉を開いても、優しい色で統一された王女の私室にその姿はなかった。やはり、と思いつつも焦りは隠せず、握りしめた拳を苛立ちのままに壁にぶつける。すると奥の部屋からがたりと物音がした。
「ミヅ」
「アーク様!」
続きの間から出て来たのは探し人ではなく、その世話役の少女だった。
「ユハ、ミヅキは」
どこに、と問うよりも早く、ユハがアークに何かを差し出した。幾本もの線が入った白く小さな紙切れ。何か、文字のようなものが書きつけてある。急いで書かれたもののようで字体はひどく乱暴であり、それ以前に目にしたことのない形をしていた。
おそらく彼女の——彼女たちの国の文字なのだろう。そしてそれは、あらゆる古字を読み解くアークでも解読することは出来ないものだ。
けれど想像は出来る。ここに彼女が居ないという事態が、何より物語っている。
先ほどの光は、やはり。
「ミヅキ様が……っ、ミヅキ様のお荷物がどこにも見当たらなくて、お衣装も……!」
がくがくと震えるユハの後ろに、毎朝深月と向かい合ったテーブルがある。小さな呼び鈴がぽつんと置かれたそこに、今朝は深月の私物が乗っていた。彼女の大切なものがたくさん詰まった、彼女が宝物のように抱き締めていた鞄。
彼女と彼女の世界を繋ぐ、彼女の手元に残った唯一のもの。
それが、彼女とともに姿を消したということは。
「一人で、帰るつもりなのか……」
自分だけの力で、誰の手も借りず。
アークを、頼ることもなく。
「アーク様……」
「……ここで、待つように」
やっとのことでそれだけ告げて、アークは王女の私室を後にする。行く先は決まっている。足は自然とそちらを向いている。
どこを探すのか本来ならば一番頭を悩ませるところは、本人が自分で指し示した。それが彼女の本意ではないことくらい考えなくてもわかるが、だからこそアークは行かなくてはならない。
それもまた、彼女の意思に逆らう行動だとしても。
「私はまた、間違えたのか」
否、疑問ではない。間違えたのだ。
苦しい思いをしないように、寂しい思いをさせないように。身も心も、どこも痛めることがないように守っているつもりだった。屈託のない笑顔が、今度こそ失われることがないように。
守れているつもりだった。今も————あの頃も。
それがただの自己満足だと気づくのは、いつだって失った後なのだ。誰よりも清らかで優しい少女は誰をも信じられなくなり、誰よりも明るく純粋な少女は誰一人頼れなくなった。最善だと思った己の行動が彼女たちを追い詰め、孤独に追いやったのだ。
では一体どうすればよかったというのか。答えは出ない。出ないままに、足だけが動く。少女を追いかけ、捕まえるために。再び傍に置く為に。
「ああ、そうか……」
歩みが止まる。今更理解する。
ただ、傍に。隣に居て欲しかっただけなのだ。唯一の肉親に、彼女に似た陽だまりのような少女に。守るなどとお為ごかしてみても所詮はただの我儘だった。
だとしたら。
「追いかけることは赦されない」
「いいえ」
きっぱりとした否定に、知らず俯いていた顔を上げた。問いかけた訳ではないというのに返された答え。
「追いかけてください、最高神官長。そして留めてください」
彼女を、この世界の為に。
そう告げたのは馴染みの深い、けれど全く知らない眸だった。
◇
深月は守りたかった。守ってもらった分、守ってあげたかった。それだけなのに、どうして。
「……ほう」
どうして、私は。
目の前の人に、銃口を向けているというのだろう――――――。