崩れ去る世界、終わりの始まり
リビングの壁に映し出された記憶の投影が、再び目まぐるしく回り始めた。
数年の時を飛び越え、映し出されたのは、以前よりもさらに荒れ果てた古びた官舎のリビングだった。トタン屋根の雨漏りはひどくなり、脆くなった木の天井には、いくつもの茶色いシミが残されている。
幻影が放つ銀色の光がぎらりと輝き、そこには、すっかり痩せこけ、美しい顔に深い疲労をにじませたアマラの姿が浮かび上がった。かつて美しくなびいていた髪は、今はただ無造作に束ねられているだけだ。
彼女の腕には、4歳ほどになったレイチェルと、まだよちよち歩きのアキアスが抱きしめられていた。その日の夜、レンディは着替えを済ませ、また夜の街へと出かける準備をしていた。
昼間はずっと家で寝ていたというのに、薄暗い賭博場へと、また足を向けるつもりなのだ。
ドアへ向かう前に、その男は身勝手にもアマラの手首を掴み、乱暴に我が身へと引き寄せた。ぐずるアキアスをようやく寝かしつけたばかりの妻の都合など、微塵も気に留めず、己の権利だけを要求しようとしたのだ。
アマラは反射的に身をかわし、震える痩せこけた体で、残された最後の力を振り絞ってレンディの胸を押し返した。
「あなた……お願い、一度だけでも私の話を聞いて」涙をこらえ、かすれた声でアマラは懇願した。
拒絶されたことで怒り始めたレンディを引き留めようと、彼女は必死に彼の腕にしがみついた。
「私たち、もう子供二人を育てるだけで精一杯なのよ、あなた。あなたの作業員の給料は、ギャンブルに負けてヤミ金の利息を払うだけで消えていく。お願いだから……もしまた子供を作るなら、少し時期を遅らせて。私はまだ子供を増やしたくないの。レイチェルとアキアスのミルクを買うのだって、向かいの店に借金してる状態なのよ!」
「うるせえ、ガタガタぬかすな! 避妊だ何だと、俺に指図するんじゃねえ! お前は俺の妻だろ、黙って従っていりゃいいんだよ!」レンディは身勝手に怒鳴り散らし、顔を真っ赤にして腰に手を当てた。
「せめて、時期を遅らせてくれないなら……先に避妊具をつけてよ、あなた!」アマラは自らの身を守るため、最後の抵抗として必死に叫んだ。
「向かいの店で買えば、たったの数百円でしょ! また予期せぬ妊娠をするよりはマシよ!」『避妊具』という言葉を聞いた瞬間、レンディの顔はさらに歪み、嫌悪感に満ちた。彼は 鼻で荒々しく笑い、まるで妻が世界で一番愚かなことを言ったかのような目で見下ろした。
「避妊具だと? ふざけるな! そんな数百円の金があるなら、タバコの一本でも買うか、スロットの元手にする方がマシだ! あんなプラスチックの塊にドブ金を捨てる奴があるか! 気持ちよくねえし、面倒くせえんだよ!」レンディは恥じる様子もなく吐き捨てた。男はさらに一歩踏み出し、汚れた人差し指でアマラの顔を指さした。
「子供が多いほど、福も舞い込んでくるんだよ! 知った風な口を利くな! そのうち何とかなるもんだ! お前はその子供たちをしっかり面倒見てりゃいいんだ。毎晩毎晩、ミルクくれって泣かせやがって、俺の頭が痛くなるだろ!」
レンディは、まだ自分の腕を掴んでいたアマラの手を、乱暴に振り払った。
その強い衝撃で、アマラは埃っぽいコンクリートの床に倒れ込みそうになった。それを横目に、レンディは夜の闇の中へと足早に消えていった。
あのクズが悠々と去っていく姿を見て、ルカは激しい嫌悪の眼差しを向け、記憶の投影に向かって唾を吐き捨てた。
「聞いたろ、ハスナさん? これが本当の理由だ」ルカはラファに体を支えられながら、背中の痛みをこらえて鋭く舌打ちした。
「避妊具の役割を知らないからじゃない。あのダンボール隊長がケチで、自己中心的なクズで、妻の体がどれだけボロボロになろうが知ったこっちゃなく、自分の欲を満たすことしか考えてねえからだ」
「被験者レンディの心理計算は、人間性の最低値にあると確認されました」クザヴィエは胸の前で腕を組み、目の前の不気味な映像を冷ややかな目で見つめながら言葉を添えた。
「彼はあえて避妊を拒絶した。妊娠による身体的・生物学的リスクの100%を、被験者アマラが背負うことになると分かっていたからです。極めて不快極まりない、肉体的な搾取行為です」ハスナはただ絶句し、コンクリートの床に力なく座り込み、お腹をさすっているアマラの幻影を見つめながら涙を流した。
「レンディ……あんた、本当に人間じゃないわ……」壁に映る記憶の投影が、再び猛烈な速さで回り始めた。
古びた官舎の映像が歪み、数ヶ月後の未来へと時間を飛び越える。幻影のリビングの空気が激しくうねり、それまで静かに降っていた雨が、突如として恐ろしい嵐の轟音へと変わった。
曇った官舎のガラス窓の外で稲妻が次々と走り、冷え切ったリビングを白い閃光が照らし出す。湿ったコンクリートの床に、アマラは力なく座り込んでいた。そのお腹は少しふくらみ始めている。
――あの夜以降もレンディの暴力的な要求に屈し続けた結果、彼女は三人目の子供であるナジュワを身ごもっていた。胃をキリキリと引き裂くような悪阻の吐き気と、一日中ギャンブルの借金取りに追われたことによる極限のストレスの中、彼女の視線は古ぼけた木製テーブルの上に置かれたレンディの安物のスマホに釘付けになった。
ブー、ブー……。
スマホの画面が点滅し、『サリ』という名前の連絡先から、激しい勢いで短いメッセージが次々と届き始める。
激しく震える手で、不規則に高鳴る鼓動を抑えながら、アマラはそのスマホを手に取った。
そして、その画面に並ぶ文字列が両目に飛び込んできた瞬間、アマラの周囲の世界は、跡形もなく崩れ去った。
サリ:
「おはよー、ダーリン♥ 昨日はたくさんチップ(投げ銭)くれてありがと! お酒が入った時のあなた、ホントに太っ腹なんだから。昨日一気にボトル3本も入れてくれた時、お店の子たちみんな羨ましがってたよぉ〜」
「今夜も私のルームに来てくれるよね? キャッシュ(現ナマ)多めに持ってくるの忘れないでね。昨日、ママが私たちのルームの指名料のこと気にしてたからさ。また夜ね、チュッ♥」
アマラの心は、形が残らないほど粉々に打ち砕かれたようだった。涙さえも、流れるのを止めていた。レンディがその賭博場に併設された風俗店で、そこのホステスに湯水のように注ぎ込んだチップ、ボトル代、そして指名料の数々……。
それらは、2日前から底を突いているアキアスの粉ミルクや、レイチェルのお米のツケを払うために、何ヶ月も建設作業員として働いて稼ぐはずだったお金なのだ。彼女の正気は、その肉体から無理やり奪い去られてしまった。
「狂ってる……。子供がミルクがなくて喉を渇かして泣いてる時に、あいつは貯金箱の金で賭博場の穴モテ(泥水女)を囲ってやがったんだぞ」
ラファは、今にも爆発しそうな怒りの嵐を必死にこらえ、声を激しく震わせた。ルカの体を支える彼の手に力が入り、拳を強く握り締めすぎて肌が真っ赤に変色していた。
「兄貴……俺、マジでこれ以上見てらんねえよ。こんな男、死んじまえばいいんだ!」
「黙れ、ラファ。感情に呑まれるな」ルカは冷酷に言葉を遮った。しかし、彼自身の顎も強く噛み締められ、首筋の血管が青く浮き上がっている。
彼の両眼は、髪を乾かしながら出てくるレンディの姿を捉え、開いた浴室のドアを鋭く見つめていた。
「あんなゴミ屑のために、お前の心に潜む悪魔を呼び覚ます価値はねえ。最後まで見届けるんだ……臆病者のプライドが、どれほど安っぽいものか、その目に焼き付けろ」
「依存症患者の行動に関する社会学的分析に基づくと、」クザヴィエが口を挟んだ。
幻影の嵐の轟音の中で、彼の声は極めて低く、突き刺すように響いた。
「被験者レンディは、完全に道徳的崩壊の段階に達しています。このメッセージは、彼にとって夜の歓楽街で偽りの自己承認欲求を満たすことが、実の子供たちの生存よりも遥かに優先されていることを証明しています。実に見下げ果てた男です」
姿の見えない四人の観客の目の前で、レンディはヨレヨレのタオルで髪を乾かしながら浴室から出てきた。その両眼が、震える体で自分のスマホを握りしめているアマラの姿を捉えた瞬間、男の表情は劇的に一変した。
不倫が発覚したことへの罪悪感やパニックに陥るどころか、レンディは逆に目を剥き出しにして狂気的な光を宿した。彼は足早に歩み寄ると、極めて乱暴な力でアマラの手からスマホをひったくった。
「人のスマホを勝手に弄ってんじゃねえよ、あぁ!? 懲りずにまた揉め事を起こす気か!」
レンディは恥じる様子もなく怒鳴り散らし、その声は外の嵐の咆哮をかき消すほどに響き渡った。アマラはゆっくりと顔を上げた。
かつては虚ろだったその瞳からは、今や底知れぬ絶望が滲み出ていた。
「あなた……サリって、誰なの? 昨日の夜、あなたが大金を注ぎ込んだっていうのは、どこのホステス(泥水女)のこと? 子供たちの米やミルクを買うためのお金は、一体どこへ行ったの、あなた……?」
アマラは喉の奥で涙をこらえ、今にも消え入りそうな、かすれた声で問いかけた。
レンディは 鼻で荒々しく笑い、痩せこけた妻の目を見るのを拒むように顔を背けた。この人間のクズは、そのままガタが来ている木製のクローゼットへと歩み寄り、そこから大きな布製のバッグを引き出すと、大急ぎで自分の服をその中へ放り込み始めた。
「お前には関係ねえだろ! 俺を取り調べるような口を利くんじゃねえ! お前みたいな奴と貧乏暮らしを続けるのは、もうウンザリなんだよ! 毎日毎日、借金の督促に、ボロ家、それにいつまでも泣き止まねえお前のガキどもの泣き声ばかりだ!」
レンディは身勝手に叫んだ。彼は、まるでこの家がこれまでの自分を苦しめてきた監獄であるかのように、荷物をまとめていく。罪悪感など微塵も感じさせずに慌ただしく荷造りをするレンディの姿を見て、幻影の部屋の隅に立っていたハスナは、拳を強く握り締めた。
「神様……。不倫をしたのも、子供たちのお金を使い果たしたのもあの男なのに、まるで自分が被害者であるかのように振る舞うなんて……」ハスナは悲痛な声をあげて咽び泣き、床を這いつくばり始めたアマラの姿を見ていられずに顔を背けた。
「レンディは、本当に人の心を持っていないわ……」
「自己防衛メカニズムによる、絶対的な責任転嫁ですね」クザヴィエは極めて冷ややかな声で言葉を添えた。
元システムのその鋭い眼差しは、過去のレンディの背中に突き刺さるように固定されていた。
「被験者レンディは、自らが作り出した生物学的・経済的責任から逃避することを正当化するために、自分自身のナラティブ(都合の良い言い訳)を捏造しているのです」
「どこへ行くの、あなた? 私たちの子供たちはどうなるの? 私のお腹の中にいるこの子は、一体どうなるのよ、あなた!?」アマラは床に膝をつき、必死にすがりついた。
妊娠初期の衰弱した体に残された最後の力を振り絞り、彼女はレンディの両足にしがみついた。
涙が激しく溢れ出し、氷のように冷たいコンクリートの床を濡らしていく。
「お願いだから、あなた……私たちを置いていかないで……今夜は嵐なのよ。明日食べるためのお金だって、私たちには一銭もないのよ……」
「俺はもう疲れたんだ! 自由になりたいんだよ! 全部お前一人でどうにかしろ!」レンディは叫び、強引に足を振り払って逃れようとした。
レンディの激しい拒絶によって、アマラの手の拘束は力なく引き剥がされた。身重の彼女の体はそのまま床へと倒れ込み、頭を木製テーブルの脚にぶつけ、赤黒い打ち身の痕を残した。
大きなバッグを肩に担いだまま、レンディは部屋の隅にある小さなテーブルへと急いだ。彼はそこに置かれていた幼いレイチェルの土製の貯金箱を掴み取ると、床に叩きつけて粉々に砕いた。
男は、長女が懸命に貯めていた小銭や、シワだらけの紙幣をすべてかき集め、一銭も残さず自分のポケットへとねじ込んだ。バタンッ!
レンディは激しい夜の雨の中へと飛び出し、ドアを乱暴に閉めきった。彼は家族に残された最後の手持ち金を持ち去り、終わりのない苦しみの中で、冷たい床の上にアマラを一人置き去りにした。
湿ったコンクリートの床の上で、アマラはお腹を抱えながら、深い闇の中で声を上げて泣き崩れた。
彼女の慟哭は、外で鳴り響く激しい雷鳴にかき消され、その夜、彼女の心の中の何かが決定的に壊れてしまった。




