パンデモニウム1
「帰って来られてホントよかったわ。」マリアは白々しく言った。
メルトが腹を立てながらも立ち上がり、足の雪をはらっていると、フルドラが姿を現した。気づいて顔を上げるや否や、涙目で詰め寄ってきた。「酷いじゃないか!僕たちは友達だと思ってたのに!」
「何が?むしろこっちのセリフなんだけど?」こっちは突然知らない森に飛ばされて死にかけたんだが。ムッとしてみせると、フルドラは、これだよこれ、と言いながら自分の上着の胸もとをぐっと下に引っぱった。紐で編み閉じされた襟元が開き、鎖骨の下の引掻き傷の痕のようなものが露になる。よく見ると鏡文字になっていてメルトと読めた。
「もしかして・・・好き?」
「違うわ!」
そういえば、森で、フルドラの木にそっくりな木に目印をつけたような気がする。
そこへ齧りかけの林檎を持ったガイアスが現れた。「まったくお前たちは、思いやりの欠片もないんだな。」呆れている。僕は知らなかっただけだからね。
「は!?悪魔の手先!」フルドラがのけ反った。
「酷い言われようだな。偉大な魔法使いの偉大な書記とでも言ってくれ。」ガイアスは苦笑した。
メルトがフルドラに当分ガイアスが一緒にいることを伝えると、フルドラは叫んだ。「信じられない。今すぐここから消えてしまいたい。なのに僕は君に縛られてここから動けない。酷い。この裏切者!」
あぁ、なんか色々とごめん。
騒がしくしていると、屋敷から使用人や公爵夫妻が姿を現した。公爵夫人はマリアを抱きしめて無事を喜んだ。マリアは、両親にガイアスを大変お世話になったと紹介し、ガイアスも紳士的な態度で挨拶をした。
「そうだメルティ。あなたが帰ってきたら渡そうと思っていたものがあるの。」マリアが侍女のメアリーに耳打ちをした。
メアリーがバイオリンケースを持ってきた。
マリアは木製ケースの蓋を開けてメルトに差し出す。「好きでしょ?」
艶々とした飴色のボディが美しい。でも、メルトは心を鬼にして首を横に振った。だって、これは前世の象徴で、奏でる曲はすべて前世の記憶と結びついている。
「好きなものは好きでいいじゃない?そうじゃないと楽しくないわ。過去も未来もすべてがあなたを作り、強くするのだわ。」過去を捨てるのではなく積み重ねるのだとマリアは言う。
これは修行だ。僕は、これを手にしてなお過去に流されないようにならなければらない。覚悟を決めてバイオリンに手を伸ばした。
ぅぐ!?
喉の奥からせりあがってくるものを感じて咄嗟に口を押えていた。真っ白い雪に赤紅色の染みができては消えた。絵具?きれいだな。間抜けなことを思って、そのまま突っ伏した。全身が張り裂けそうに痛い。痛くて痛くて、それ以外には何もなかった。
トネリコ前は騒然とした。何の病気かわからないので不死身のガイアスがメルトを抱きかかえた。公爵が屋敷の北翼に病床を置くことに決めると、使用人が寝具、水、タオル、暖炉などを整えに走った。公爵家の主治医が呼ばれた。医者は、高熱、関節の腫れ、全身の痛みからすると免疫疾患ではないかと診断し、痛み止めの薬を飲ませて様子をみましょうと言って帰った。屋敷は少し落ち着きを取り戻した。
マリアがメルトの病室にやって来た。メルトの顔色は血の気が引いて白く、震えで歯がカタカタと鳴っている。
ガイアスは自分の考えを言った。「人体には心身のバランスを一定に保とうとする機能がある。坊は絶えず魔法の素を使い続けていたのに急にそれを止めて、体がびっくりしているのではないだろうか。もしそうなら、魔法の素の供給源になる聖獣を遠ざけたほうがいい。」
医者に言わなかったのは、医者では治せないと思ったからだ。
「聖獣は体が大きくなると作る魔法の素も増えるのよね?メルティは妖精の食べ物を食べたらルルが大きくなったと言っていたわ。以前は本当に猫みたいな大きさだったの。メルティも食べたと言っていたけど、それって関係あるかしら?」
「まさか猫が化け猫になる量を食ったのか!?人体は体内の魔力量が飽和しても急には大きくならない。さすがに食い過ぎだ。」だからどうなるとは言わないくても容易に想像がつく。
「あなたは、あの魔法使いみたいに吸い出すことはできないの?」
「残念だが、私はあまり魔法が上手くなくてね。あんなこと、誰にでもできることではないんだよ。」
ワイズマンは既知の事象に興味を持たない。だからきっと助けることはない。
「本当に残念だわ。私、メルティに死なれたら困っちゃうの。」
マリアは大きなベッドにちまっと寝ているメルトの傍らに寄って、汗で額にくっついた銀色の髪をかき分ける。「あらあら、かわいそうに。お姉さまが助けてあげましょうね。」
両手をメルトのおなかの上に置いた。メルトの体が、ザザ、ザザとまるで映像障害のようにとぶれ始める。しばらくすると震えが止まり、さらにもうしばらくすると顔色がよくなった。
マリアは時魔法を使った。ガイアスは目を見張った。不死でありながら時魔法を直に見たのはこれが2度目だ。
マリアが一仕事終えたように大きく息を吐くとメルトの目がうっすら開いた。まだ痛みの余韻が残っており、二人の会話が遠く聞こえる。
「どれくらい時間を操作した?3日分かそれ以上か?どのような魔法でも、魔法の素を消費し尽くして無理に魔法を使えば命を削ることになる。」ガイアスは厳しい調子で言った。ワイズマンが魔法の素を吸い上げたときのマリアの様子からすれば、その魔力量は特別多いとは言えなかった。
「知ってるわ。でも、ご忠告どうもありがとう。」疲れたのか、諦めなのか、声がらしくなかった。
まったく酷い話を聞かされてメルトの意識は戻った。なんとか首だけを動かしてマリアと視線を合わせた。「姉さま、こんなことは二度としないで。」
本当はありがとうと言わなければいけないのに、どうしてもそんな気にはなれず、マリアのことも自分のことも嫌になる。少し疲れたと言って寝たふりをした。マリアは出いき、扉が閉まる音を聞いた。
目を開けて宙を見つめた。
「ねぇガイアスさん、僕に魔法を教えてくれませんか。」声に出してみれば、思いのほか自分の気持ちにしっくりきた。それがわかったので、ガイアスの方にごそごそと体を向けた。「僕にはご先祖様が残してくれたお金が少しばかりあります。それ、全部差し上げます。だから僕に魔法を教えてください。」
さっきまで死にそうだった子供が何を言うかとガイアスは笑いかけたが、当の本人はいたって真面目だ。笑ってはいけない。
「坊は、もともと魔法を使うと言っていたではないか。ならば教える必要などないのではないか?」
「僕は強くならないといけないんだ。竜を倒せるほど強く。」
「竜って、カサブランカの眠れる竜のことか?国家機密だろう。」
「僕は竜の守り人なんだ。このままだと僕は大切な人を守れない。」
「なるほど、だから現実逃避をしたわけだ。」思わず笑ってしまった。しかし同時に同情もする。だからだろうか、「そうだな、金はいらない。その代わりに私にかけられた呪いを解いてくれ。何年かかっても構わない。」と答えた。
「呪い?」
「そう、ワイズマンが私にかけた不死の呪いだ。」
ガイアスがまだ若く普通の人間であった頃、彼の世界は混沌とした無秩序だった。ガイアスは、その世界に秩序と安定をもたらそうと無頼の武装集団を束ね、戦いを繰り返し、やがて領主になった。しかし領地外の世界は相変わらず無秩序で不安定に見えた。秩序ある世界を広げるためには、他の封建領主を従えて王にならなくてはいけない。さらに戦いを重ねて、初老を迎える頃には一地方を支配する一大領主になった。しかしまだ王とは呼べない。体力の衰えは人生の残り時間を意識させる。このままでは成すべきことを成せず終わるかもしれない。あともう一歩なのに時間が足りない。だからワイズマンに不死を願った。
ワイズマンは言った。「人の欲には限りがないというが、不死であれば全てを手にすることができる。だが、全てを掴んだと思って手を広げてみると、宝石は石へと変わり二度と輝くことはないだろう。それでも不死を望むのか?」――― 無論。
「途中でやっぱり嫌だと言っても聞いてやらんぞ。」――― 無論。
「ハハハ愚か者め。だが吾は慈悲深い。一つ解術条件を付けてやろう。果たしてお前に解けるかな?」
ワイズマンはガイアスに不死の魔法をかけた。
ガイアスは王になった。しかし家族や仲間は皆死んだ。新しく作っても皆死んでいく。永遠の孤独だけがついてきた。
「どうやったら呪いは解けるの?」メルトが聞いた。
ガイアスは解術条件を知っている。しかし、知ってできるものではないし、狙ってうまくいくものでもない。だから「そこから坊やが考えてくれ。」と答えた。
解術と竜の守り人は等価なのだ。メルトは決して軽くはない気持ちで頷いた。
「うん、わかった。僕頑張るよ。」
この日から、ガイアスはメルトの師となった。
マリアは自分の部屋に戻ると、アームチェアに崩れるように座り込んだ。さすがに疲れた。メアリーがカップケーキと紅茶をテーブルに並べる。カップケーキには苺ジャムで色をつけたクリームが乗っていた。マリアはあることを思い出して、ドレッサーの引き出しを開けた。奥の方にピンクの液体の入った薬瓶がある。腐らないようにしないとね。薬瓶の蓋を人差し指で軽くたたいた。ザザ
メルティ、忙しいね。