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第十話

更新が遅くなりました、スミマセン!

第十話


 三度目の攻撃は小隊長の小橋少尉の指示により私が先頭と成って行われた、既に敵機を二機撃墜した小橋少尉が、まだ戦果のない私に経験を積ませる事を含めて行った指示だった。

 しかし、残念ながら私はそのせっかくの機会を活かすことが出来なかった。撃ち気に逸った私の攻撃は既に爆弾を捨て逃走に入っていた敵機の動きに合わせることが出来ず空回りに終わり、敵機に手傷を与えたものの撃墜するまでに至らず、更に急な角度で降下したため引き起こしに手間取ってしまい、必死の思いで機体を引き起こした時には既に敵機は我々の攻撃範囲の彼方を飛んでいたという失態のオマケ付きであった。

 真に不甲斐なく悔しい結果であった、此れならばあの時、機銃を撃ちながら肉薄した時にそのまま体当たりをすれば良かったとすら思えた。しかし実際には、きつく噛んだ唇から血が流れ落ちるのもそのままに敵機が飛び去った南の空を睨みつける、それしか今の私には出来る事は無かった。


 やがて小橋少尉より無線にて『戦闘止め!』の指示がなされ、次の敵襲に備えて給油と補給を行う為に着陸せよとの指示が追って伝えられた。

 何しろ〈蒼電〉は最新鋭であることに加えて足の短い局地戦である下手に深追いして返り討ちにあっては後に障るとの判断があっての命令であった。

 我々はそれまで個別に行動していた倉本二飛曹達の第二飛行分隊の二機と合流し、比較的被害の少ない陸攻用の西飛行場、通称❝上の飛行場❞へ向かう事になった。この時、戦闘機用の東飛行場は数発の至近弾を受けていたが比較的被害は軽微であり離着陸は可能であった、しかし、慣れない新鋭機に不測の事態が起こることを危惧した基地司令部上層の判断により安全に降りられる西飛行場の使用が指示されたらしかった。

 着陸の手順に従って編隊をバラした我々は各機の間隔を開け一機づつ一番機より降下、着陸していく。脚が接地した瞬間に沈み込む火山灰の積もった地面から受けるラバウル独特の感触は〈蒼電〉の方が零式艦戦よりも着陸速度が早く重いことも有って大きいような感じがした。

 滑走路の端から誘導路へ入り機体を地上の整備兵の誘導に従って指揮所の前へ乗機を進めると先に停められた小橋機の横へ私の乗機を止めた。

 風防越しに見ると待望の局地戦の到着、それも華々しい戦果を手土産にしての到着だけ有って基地司令を筆頭に参謀やらの御偉いさんや基地の諸兵が総出で出迎えていた。私は一つ深くため息を吐いて発動機の主スイッチを切って停止させ、操縦席の風防の天蓋を空けた。

 天蓋をあけると、そこへ南方特有のムッとした湿気の多い空気と、聞き慣れた野太い声が流れ込んできた。

「一機撃墜、初戦果おめでとうございます、檜山飛行兵長!」

 その声は、私の〈蒼電〉の整備を担当する川口二等整備兵だった。彼らもまたカビエンにて空技廠や立川飛行機の技師らに〈蒼電〉整備の教育と訓練を受けており、我々のラバウル進出に合わせて彼らも九六式輸送機と、駆逐艦に分乗してカビエンからラバウルへ移動してきていた。川口二整達は昨夜のうちに駆逐艦でラバウルへ補充資材等とともに一足早く移動を済ませ我々の到着を待っていたのだ。

 しかし、今の台詞、不可思議な点が有る。

『一機撃墜、初戦果おめでとうございます、檜山飛行兵長!』

と、川口二整は言っていたが、階級名称がこれまでの一等飛行兵から飛行兵長に変わっていたことは十一月一日より海軍全体で名称の整理変更が行われることは聞き及んでいたので特に不思議とは思わなかった、但し慣れないので少々違和感は有ったが。

 そう言えば、川口二等整備兵も一等整備兵に名称変更されていたはずだ。

 それよりも不可思議なのが❝一機撃墜❞と言うところだ、確か私はこの時点で〈蒼電〉による撃墜は無かったはずであった、それがである・・・。だから私は思わず聞き返したのだ。

「一機撃墜?自分は一機も落としていませんよ。」

 戦果を上げることが出来なかったことも有り、私の言葉は少し刺々しいものであったかもしれない、しかし、私よりも五つは歳嵩の川口一整は何事も無かった様に笑顔でその意味を教えてくれた。

「檜山飛長が攻撃したB17、海に出たところで乗員が機体を捨てて落下傘で脱出したのを追撃していた零式艦戦の搭乗員が確認しています。」

 そう言いながら川口一整は私が拘束ベルトを外すのを手伝ってくれた。やっと自由の身になり操縦席から這い出た。

「ですから、もっと胸を張って良いんですよ。」

 地上に降りて改めて感じる疲労感もあり、ゆっくりと操縦席から這い出て何時間ぶりかの地面の感触を味わっていた私にそう川口一整は言うと残された機体の状態を確認するために戻って行った。

「こいつは、酷い!

 アッチコッチ食らってら。」

 自分でも自覚は有ったが、私の〈蒼電〉は攻撃の度に敵機の反撃を受け、相当数の被弾箇所があった。川口一整の悲鳴にも似た叫び声に、私も愛機に歩み寄り被弾箇所を数えてみた、が結局十箇所を超えたところで諦めた、それほど被弾箇所が多かったのだ。

 それでも、幸いと言って良いであろう、機体の重要箇所、発動機や操縦索、そして操縦席の自分に至る銃弾は無かった、全て際どいところで逸れるか構造物に阻まれていたのだ。もしその着弾が数ミリずれていればと考えれば自分の運のよさに感謝する以外することが無かった。

「檜山!」

 不意に自分の名を呼ばれて私は声のする方を振り返った、そこには小橋少尉を中心に第二分隊の二人の飛曹と基地司令部の要員らしい人たちが集まっていた。

「よお、檜山、相変わらず無茶をやっとるようだな。」

 多数の被弾箇所に頭を抱える整備兵たちを残念そうな視線で見ながら、今は二〇四空の飛行隊長となった小福田大尉がそう声をかけてきた。

 そこで私は初めて基地司令以下が出迎えていることに気付き、急いで小橋少尉の元へ駆け寄り列の端へ並んだ、改めて見ると航空隊司令の森田大佐はじめとした基地司令部の面々が打ち揃っており思わず緊張した面持ちで私は背筋を伸ばして気をつけをした。

「敬礼!頭、なか!」

 小橋少尉のよく通った声に合わせて敬礼し、直れの声で手を下ろした。

「小橋少尉以下、三名。本日付きで原隊へ復帰しました。」

「ご苦労、新鋭機は期待通りの力に成るようだね。」

 森田司令はそう労いの言葉を掛け、我々の後ろに並べられた〈蒼電〉に視線を走らせた。

「下の飛行場も間もなく離着陸可能と成る。ここで補給が済次第そちらへ移ってくれ。

 宿舎も手配してある。」

 飛行隊長の小福田大尉からそう指示を貰うと我々は給油の終了した機体に再び搭乗して、戦闘機が主に使う下の飛行場へ向かった。

  下の飛行場でも歓迎ぶりは変わらなかった、着陸後〈蒼電〉は滑走路脇に新たに作られた掩体壕引き込まれ、給油と銃弾の補充が行われそれとともに点検と修理も行われた、私ほどでは無いが各機とも多少なりとも被弾箇所が見つかっており次の出撃まで万全を期す意味も有って急ぎ行われたのである。

 我々搭乗員は手荷物を持って迎えのトラックの荷台に乗り宿舎まで送り届けられる事になっていた。火山灰特有の細かい土煙に紛れながら、私は滑走路脇のジャングルの中に隠す様に置かれた機体に気がついた。

「少尉、あの機体は何でしょう?」

 私の声に気がついた小橋少尉は私の指差す彼方に視線を走らせた。

「双発か、陸攻では無いな。

 偵察機か?」

 流石に小橋少尉である、走るトラックの荷台で揺られながら、そして土煙の彼方でありながら素早くその姿を見取っていた。

 パッと見でもそのサイズは零式艦戦に比べると二回りほど大きいが見慣れた一式陸上攻撃機と比べると三分の二もない、それでいて発動機を主翼に左右それぞれ一基、計二基が取り付けられていた、しかも風防が長いところから複座以上と見られた、となると偵察機ではないかというのが小橋少尉の見解であった。

 果たして、その見立ては半分当たりと言えた。

 そこに置かれた機体の形式番号はJ1N1-R、今年(昭和十七年)に制式採用された二式陸上偵察機であった。。


 ここで少し二式陸上偵察機についてふれておこう。

 この二式陸上偵察機(以後二式陸偵と略す)は元々偵察機として開発された機体では無い、開発当初の名称は十三試双発陸上戦闘機と言い、陸攻援護専用の遠距離護衛戦闘機であった。

 第二次大戦前夜と言える1930年代、世界各国、特に航空機先進国である欧州において熱狂とも言える熱意でもって開発が行われたものに双発護衛戦闘機と言う機種があった。

 当時、爆撃機の性能向上がは著しく、それにともない航続距離が増大して従来の単発戦闘機では護衛として随伴することが不可能と成りつつあった。故に単発機に代わって随伴可能な大型で航続距離の長い双発戦闘機の開発が急がれる事となったのである。

 長躯して爆撃機と供に敵地に赴き、迎撃に上がって来る敵の単発戦闘機を速度と重武装で持って凌駕し駆逐できる力を持った戦闘機、それが双発護衛戦闘機であったが、意外なことに世界各国で盛んに開発されて居ながら完成し制式採用にまで至った例は決して多くはない。

 何故か?それはその代表格とも言えるドイツのメッサーシュミットBf110を例に取って見れば明確にわかる。

 メッサーシュミットBf110もまた当時流行の双発護衛戦闘機として設計開発された機体であった、長い航続距離に高い速度と強武装もち、爆撃機に随伴して護衛、強武装と高速で敵の迎撃機を駆逐若しくは突破して強行偵察や地上攻撃が出来る一種の万能機、ドイツ空軍ではそれを戦略戦闘機後に駆逐機と称して開発に力をいれた。 

 このBf110を開発したメッサーシュミット社(当時はバイエルン社)はそれを同社の基本的な設計理念である「最小の機体に最強のエンジン」でもって設計開発を行い、双発Bf109とも言える他国の双発護衛戦闘機とは違う小型で高速な双発戦闘機として完成させた。

 当時の競合他社の機体が双発爆撃機並であった事を考えると異例であるが、同時に空軍の仕様との違いも大きく最終的には政治判断(正しくはメッサーシュミット社からの政治圧力)により同機が採用されている。

 採用に関して色々言われるところの多い同機だが、設計の着眼点は決して間違ってはいない、もし空軍の仕様書通りに開発していたら鈍重で鈍足、爆撃機について行くのがやっとの機体が出来るだけであっただろうから。

 その一方でBf110が切り捨てたのは航続距離と搭乗員、初期型では1400km程度、後期型で増槽を付けて約2000km強というのがその数字だが当時2200kmを飛行可能な零式艦戦に乗っていた我々からすれば双発化に疑問を持つ数字だが陸続きのヨーロッパでは大きな問題に成らなかったようでありそれに伴って搭乗員も二名で足りる事ともメリットと言えた。

 そして同機の真価が問われることと成ったのが1940年より行われた対英航空戦、バトル・オブ・ブリテンであった。

 この戦いにおいて同機は終始、スピットファイアやハリケーン等の単発の単座機に圧倒され爆撃機の護衛どころか逆にBf109の援護が必要となるなど本末転倒の結果により護衛任務には不適応との判断が成さることとなった。


 冷静に考えれば無理もない話である。

 そもそも何故双発なのか?

 それは当時の発動機の出力が低くそれを複数装備することで補うと言った発想から来ている。複数(この場合は二基だが)の発動機による大出力が無ければ遠距離を飛ぶために必要な大量の燃料は積み、曲がりなりとも戦闘をすることは出来無いのだから。

 しかしそれでは、俊敏な単発戦闘機に機動性で大きく劣る事に成る、だからそれを補うために大きくなった機体の各所に機銃座を設けて敵機に対応することになる、だがそれは重量の嵩む装備を多数乗せることに成り自重を更に増やすことに成る、まさにイタチごっこである。

 どうあっても単発戦闘機には勝てるものではない。

 要は結局アイデア倒れの代物である。

 それでも完成したドイツのメッサーシュミットBf110は比較的マシな方であろう、メッサーシュミット博士が詭弁と言える手法で一般的な双発護衛戦闘機よりは遥かに小型で高速に作られていたのだから、当初の目論見通りに高空からの一撃離脱戦法を用いればまだ戦い用は有ったが、爆撃機の護衛と言う任務が有る以上護衛対象から離れることも出来ずそれが得意の戦法で戦える機会を奪っていた。

 やはり、発想からして無理が有ったと言うしかあるまい。

 当時、世界各国で開発された双発護衛戦闘機も大戦初期に戦場へ投入されたがその多くは本来の任務ではなく爆撃機迎撃や偵察、軽爆撃機や地上攻撃機として使用され事と成り、大戦中を通じて戦力成った機体も多い。

 日本陸軍の二式複座戦闘機、米陸軍のP-38〈ライトニング〉、フランスのポテ630、英国のデハビランド・モスキート、ソ連のMig5がその代表例として上げることが出来る。

 話を十三試双発戦闘機に戻すと、この機体も中国の戦場に於いて九六式陸上攻撃機の爆撃任務に航続距離の不足から九六式艦上戦闘機を護衛に付ける事が出来ず、敵戦闘機の邀撃により多くの損害を出したことから護衛戦闘機の必要性を痛感した海軍当局が強力に開発を推し進めた結果の産物であった。

 この一三試双発戦の大きな特徴は日本機には珍しい遠隔操作の動力機銃座を設けていた点と、日本機らしく速度より運動性を重視していた(一説に拠れば一二試艦戦並)点である。しかし、動力銃座は重量が嵩張る上に作動に問題が多く、運動性も双発機にしては機敏ではあるが単発機には到底太刀打ち出来るものではなく最終的に護衛任務には適さないとの判断が成された。当時、驚異的な航続距離と運動性を発揮した一二試艦上戦闘機が完成し採用されており当然の結果であり不採用機として歴史に埋もれる運命の機体と成るはずであった。

 しかし、当時の戦況がこの消え行く機体を新たな舞台に引きずり出すことと成ったのである。

 開戦より南方へ進出した海軍では、陸上の基地から発進して敵地の偵察を行う陸上偵察機である九八式陸上偵察機の旧式化が問題となっていた。

 そこで白羽の矢が立てられたのが、戦闘機としては不採用と成った十三試双発陸上戦闘機であった。

 十三試双発陸戦は、これまでに使ってきた九八式陸偵と比べ、速力、航続距離、運動性のいずれも上回るものであり、此れに加えて前方への武装も有ることから自衛もある程度可能であると判断し同機に偵察用のカメラ等を搭載して陸上偵察機として採用、二式陸上偵察機と命名した。

 実際に、同機は大戦初期に於いては偵察機として充分な実力を有しており、ラバウルに配備された二式陸偵は奪還されたガダルカナル島の最初に偵察飛行を行うなど期待に充分応える活躍をしている。

 更に、話は此れで終わりではない。昭和一七年(1942年)に入って連合国軍の反攻が開始されると、ラバウル等の南方の基地に対する夜間の五月雨的攻撃が継続して行われ対する有効な手段を持たない日本軍は対応に苦慮することになった。

 この時、当時の台南空の副長兼飛行長の小園安名中佐から一つの対策案が出された、それは画期的と言うよりも珍奇とも言える妙案であった。

 飛来するB17は後ろ下方からの攻撃に弱い事が知られており、これを攻めるため機軸に対して約三〇度の仰角を付けて上向きに機銃を装着、敵機に対して後ろ下方から上向きに追いすがりながら攻撃すると言ったものであった。

 確かに理屈上は可能であろう、しかし、そうのような攻撃方法は前代未聞であり上手く行くとは到底考えられないものであった。

 小園中佐は自身の考案した斜めに装備した機銃を斜銃と呼び、この搭載母機として適してると選ばれたのが一三試双発陸上戦闘機改め二式陸上偵察機であった。

 双発なだけに機内に余裕が有り銃身の長い九九式二号二〇ミリ機銃も複数搭載可能な上、元々が戦闘機なだけに機体に強度も有り補強をすれば機銃が搭載でき機動性も大型爆撃機を相手にすのであれば問題ない点もその決定の重要な要点であった。(大戦末期、陸軍が夜間戦闘機の不足の対策として、速度と高空性能の高い百式新司偵に斜銃を搭載しようとしたところ、機体が純粋な偵察機ということで強度不足で大幅な補強が必要な上、空中で細かい機動が出来ないなどの問題が続出したと言う話である。)

 執拗で粘り強い小園中佐の働きかけもあって斜銃の実戦での試験運用が行われることと成ったわけだが、当の本人は司令として国内に帰還して台南空改め二五一空(第二五一海軍航空隊)の再編成中であった為、ラバウル基地を引き継いだ二〇四空がその試験も引き継ぎ斜銃搭載の二式陸偵の試験運用を行っていた。

 我々が滑走路脇のジャングルの中で見つけた見慣れない双発機はそういった機体だったのだ。

 半年後、小園中佐は二五一空を引き連て再びラバウルに赴任、その彼が持ち込んだ機体の中に制式に夜間戦闘機として斜銃を搭載した二式陸偵の姿も有った。

 〈月光〉の名で丙戦として制式採用されたその機体は護衛戦闘機として不採用の烙印を押された汚名を返上するかのように夜の戦闘において大きな戦果を上げ、昼の〈蒼電〉・夜の〈月光〉として連合軍の重爆撃機乗りにとって恐怖の的と成り、ガダルカナル島失陥の劣勢の中でラバウルでその流れを断つ活躍を見することと成る。

 当時、私はそんなことを想像することもなく、トラックの荷台に揺られながら眩しい南溟の日差しの中、宿舎へと運ばれていったのだった。


GW明けに更新する予定でしたが、メインPCの不調と我が家の風呂の改装が重なって集中できずにここまでずれ込んでしまいました。面目ない。


当初二千文字と話が進まず苦しみましたが、思いつきで〈月光〉とBf110を出したら六千文字オーバーに成ってしまいました。いや難しいですね~。


ここまで読んでいただきありがとうございました。誤字脱字が有りましたら教えてください。感想もお待ちしています。

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