82、現在 失われた短剣と偽りなき真名
荒涼とした岩場に乾いた風が吹き抜ける。空は薄灰色に曇り、どこまでも広がる雲が鈍い光を放っていた。岩壁のひび割れに入り込んだ砂が、風に舞い上がるたびにチリチリとした音を立てる。
「どうだ? 侑斗」
史音の問いかけに、侑斗はわずかに顔をしかめながら首を横に振る。
「駄目だ……零さんに貸してもらったこの短剣。フライ・バーニアの時のような威力が出ない」
彼は短剣を構え、何度も眼前の岩壁へと振るう。しかし、鋭い一閃が走っても、岩肌につくのは浅い傷だけだった。かつては容易く敵を切り裂いたはずの刃が、今はまるで牙を抜かれたように威力を失っている。
「ちょっと貸してみろ」
史音が侑斗の手から短剣を受け取ろうとする。柄を握った瞬間、彼女の指先がピクリと震えた。
「ツっ……!」
痛みに顔をしかめ、すぐに手を離す。史音は軽く息を吐きながら、しびれた指先をさする。
「柄を持っただけでも手がひりひりする。まあ、持っても何ともないおまえは、それでも幾らかはこの短剣を使いこなしてるんだろうな」
彼女は目を細めながら、短剣の刃先を吟味する。刃はまるで水晶のように透き通り、光を受けるたびに淡い輝きを放っていた。
「これは……切り裂く対象の位相を擾乱させる力を持った武器だな。まあ、そうでなきゃフィーネみたいな怪物を退かせることは出来なかったろう」
史音は慎重に柄の端をつまみ、侑斗に返す。彼は短剣を受け取り、静かに鞘へと収めた。
ふと、視線の先に佇む修一の姿が映る。
彼は一人、遠くでぼんやりと空を見上げていた。肩を落とし、まるで全身から生気を抜かれたかのように沈んでいる。風が彼の髪をなぶるが、反応すらない。
侑斗は唇をかみ、呟くように言った。
「俺がもっと、この剣を早く上手く使えていたら……あの二人を助けられたかもしれない」
彼は拳を握りしめる。
「あんなに躊躇する俺の性格が、あんな結果を招いた。修一を……こんなふうに、見たこともないくらい落ち込ませた。修一が――零さんの弟の修一がこの短剣を使っていたら、あんな悲劇はきっと起こらなかったんだ」
悔恨の滲む声が、岩場の静寂に溶けていく。
史音がゆっくりと侑斗の背後へ回る。
そして、彼の背中に軽くもたれかかるように寄り添った。
「侑斗」
いつもの快活な口調とは違う、優しい声色だった。
「あんな力を、躊躇せず使える奴なんて、それこそ超危険な狂人だよ。アタシはアンタがこの剣の所有者で良かったと思うよ」
背中越しに伝わる温もりが、彼の内側に沁み込む。
「もしアローンみたいな奴がこの剣を手にしたら……世界は今日にでも終わる」
その言葉に、侑斗はわずかに眉を寄せる。
「アローンってのは誰だ?」
とりあえず会話をつなぐため、彼は問いかける。
「ああ、アローンって奴はアタシよりちょっとだけ前に地球の枝に触れたクソガキだよ」
史音は苦笑する。
「歳はアタシと変わらないんだけど、自分をすごい優秀で特別な人間だと思い込んでる。ベルの下に居るアタシが気に入らなくて、やたらちょっかい出してくるガキでさ」
彼女は鼻を鳴らす。
「確かにそれなりに頭が良くて、とんでもない発明とかするんだけど……自分の向いた方向しか見ないんだよな。だから、いつもアタシが一方的にからかって終わるんだよ」
史音は天才少女と呼ばれながらも、自分の弱さや足りなさを自覚している。
初めて出会ったとき、侑斗は彼女に一方的に否定された。しかし、それは見下されていたわけではなかった。彼女はすぐに素直に謝ったし、普通の人間以上に怒り、悲しみ、そして誰かに助けを乞うことにためらいがなかった。
――でも、史音並みの知性を持つ者が、自分を特別な人間だと信じ込み、跳梁跋扈しはじめたら……手が付けられないだろう。
侑斗は、アローンという者には一生関わりたくないと強く思った。
「侑斗、アタシ思うんだけど……アンタの短剣、アンタの前世が使ったと言うクリスタル・ソオドの劣化版だ」
史音はぽつりと呟く。
「しかも修一の姉さん、葛原零によって遠隔で力を与えられてたんだろう。その力が今完全に開放できないってことは……修一の姉さんに何かあったんだ。周りにいた奴らも巻き込まれてるかもな」
「零さんに……?」
侑斗の胸に、不安が広がる。
零のそばにいた亜希や松原さん、彰、琳――彼らにも何か起こったのだろうか。
侑斗は唇を噛み、遠い空を見つめた。
「まあ、心配したってどうしようもない。ベルと同等の力を持つ修一の姉さんが、簡単にやられるわけないだろうし」
史音は大きく伸びをしながら言う。
「さっさとアタシ達が敵の本拠を潰せば、その心配もなくなる」
その足元で、彼女の電話機が低く振動した。
侑斗がそれに気づき、史音に声をかける。
「……ああ、ベルからかな。恵蘭と紫苑のことで、アタシや修一の心配をしてくれてたのかもな」
曇天の空の下、物語の趨勢が静かに動き出そうとしていた。
史音は軽く息を吐きながら腰を落とし、電話機を手に取った。乾いた大地の上に影が伸びる。風が荒涼とした大地を撫で、遠くの空では雲が重く垂れ込めていた。
「悪いな、ベル」
電話の向こうに向かって、低く、しかしはっきりとした声で語りかける。
「全部、全部アタシの責任だ。言い訳するつもりは無い。帰ったら千回殴ってくれ」
自嘲気味に笑いながら言ったその直後、史音の表情が一変した。
「……あ? なんだ、アオイか」
一瞬驚いたようだったが、すぐに声色を戻す。
「ああ、今は椿優香だってんだろう。名前を十個以上持ってるお前の呼び名なんか、どうでも良い……」
史音は軽く舌打ちし、立ち上がって歩き出す。鋭い眼光を岩場の地平線へと向けた。
「てか、だいたいてめえ、今までどこに居やがった?」
電話の向こうで何かを言う声がする。それを聞きながら、史音の眉がぴくりと動いた。
「……へえ、そうか。他我の種の話は在城の奴から聞いたよ」
乾いた風が彼女の頬を撫で、長い髪を揺らす。
「空の帯、白亜の滅びの狼煙が……傀儡の糸を強化している? ……そうか、なるほどな」
史音の目が細まり、険しい表情になる。
「紫苑ほどの女が操られたのは、それが原因か……」
歯を食いしばる。
「何でアタシが気付かなかったかって?」
指先で地面を軽く蹴る。
「アタシはアンタやベルと違って、一度にいろんな事を考えられないんだよ」
拳を握りしめ、再び電話機を耳に当てた。
「ああ、分かってるよ。今アタシの全力で奴らを潰し、空の帯も消し去る算段をしてたところだよ……」
言葉に力がこもる。史音の目の奥には強い決意が宿っていた。
「……そうか。修一の姉さんたちは無事なんだな?」
風が吹き抜け、沈黙が流れる。
「美沙も……フィーネ相手に、よくやるもんじゃないか」
史音の唇がわずかに歪む。感嘆とも、皮肉ともつかない微妙な表情だった。しかし、次の瞬間、その表情が険しくなる。
「あ? 何?」
電話の向こうでの言葉に、史音の口調が冷えた。
「侑斗にお前の事は伏せ続けろってか?」
数秒の沈黙。
「……嫌だね」
史音はそれだけ言うと、通話を終えた。
電話を閉じた彼女は、わずかに肩をすくめ、ふうっと息を吐く。そして、ゆっくりと振り返り、侑斗へと視線を向けた。
「侑斗、安心しろ。修一の姉さんや、その周りにいた奴らは、とりあえず無事らしいぞ」
静かな声で告げる。その言葉に、侑斗の胸が少しだけ軽くなった。
だが――
「……史音」
彼は震える声で言った。
「椿優香……アオイっていうのはやっぱり……」
史音は静かに侑斗の顔を見つめる。彼の疑念を見透かすような瞳。
そして、軽く笑った。
「誰かを偽るって、そんなに楽しいのかね」
彼女の言葉に、侑斗の背筋が凍る。
「そうだよ、侑斗。今話してたのが、アンタを否定して地の底まで突き落とした椿優香だ。アルファがもうバラしちまってるのにバカな女だ」
侑斗の呼吸が浅くなる。
「最初に地球の枝に触れた葵瑠衣――それが、椿優香の正体だよ」
その言葉が、侑斗の耳に重く響いた。