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66、現在 不確定性原理

ヘリポートの上に立つ紫苑(しおん)の姿を、ただ一人、フィーネだけが見送っていた。

「貴女一人で行くのですか?」


彼女の問いに、紫苑は少しの間、沈黙した後に答えた。

「海上で史音たちを消すことができなかった。その責任は私が取る」


吹き付ける風に髪が揺れる。紫苑は頭上を見上げた。その先にはフライ・バーニアがある。しかし、通常の目視ではその存在を確認することはできない。


「人形はたくさんいるが、人形遣いは少ない。人形遣いの候補は一矢に持ち帰られた。だからといって、再び人形どもを使えば、また海の無の波頭のように反撃される」

知成力の低い者達を操る知成力の高い、つまり枝の神子達。

フィーネも紫苑同様、あの作戦が完全な失敗だとは考えていなかった。史音たちはぎりぎりのところで難を逃れただけにすぎない。


紫苑は黙ったままのフィーネにもどかしさを感じた。伝えたい思いはあるのに、彼女の無機質な表情の前では、それを言葉にすることが難しい。

「多分、女王の元から妹――恵蘭(けいら)が派遣されるだろう。妹は私との一騎打ちを考えている。その間に史音たちを先に行かせるつもりだろう。ここでつまらない因縁を断ち切る」


言葉にしながら、紫苑は自分自身が言い訳をしているような気がした。目の前にいるのがフィーネではなく在城龍斗であったのなら、もっと毅然とした態度を取れただろう。だが、感情の見えないフィーネの前では、独り言のように中途半端な言葉が零れてしまう。


「それでは、私は行くよ」


紫苑の最後の言葉とともに、ヘリコプターのローターが轟音を上げ、彼女を乗せた機体が空へと舞い上がった。



「彼女は行ったようだね?」


静かに、音もなくフィーネの後ろから在城龍斗が現れた。


「見ていたのなら、貴方も見送りに出ればよかったのでは?」


龍斗は久しぶりに外の空気を吸い込んだ。そして、陽の光が溢れる空を見上げる。そこには、太陽の鞘の破壊の跡が白く残っていた。


「フィーネ、君は女性の姿をしているだけだから言っても構わないだろう。女性の行動原理はいつもシンプルだ。難しいことは考えない。全ての価値基準を他の何かに求め、自分の価値を他人に映してしか認められない。それは女王でさえそうだし、葛原澪でさえそうだ。そのために、小さな目的のためにいつも大それたことを考える。紫苑はその代表だな。存在の小さなものは、そんなものに耐えられない。まるでフライ・バーニアのようにね」唯一の例外は椿優香だ。


龍斗が視覚の調整を終えると、大空に巨大な氷島――フライ・バーニアがその姿を現した。空の歪な白線はフライ・バーニアに遮られその部分が隠される。


「状態の波が崩壊するたびに、存在力の薄いものは消え、より存在力の厚いものが顕在化する。そうなれば、私たちはいずれ女王に負ける」フィーネが静かに呟く。


「そうなる前に、世界を僕のやり方で安定させるさ。だから今回は僕が紫苑を手伝いに行く。フライ・バーニアにある極子連鎖機構は僕の計画の要だ。女王が恵蘭しか使わないというのなら、その哀れな思い込みを利用する」


そう言い残し、龍斗はフィーネの元を離れた。


「紫苑、人形遣いの数が足りていないと言ったな。だが、自分が誰かに使われていないと、何故確信できるのだ?この世界は人形が人形を操っている。それで成り立っているのだ」


フィーネは、龍斗の後ろ姿を見つめながら、静かに唇を動かした。


---


日中の熱気が肌にまとわりつく。史音たちは、炎暑の地へと足を踏み入れていた。アルファの城を出てから四日目、ついに目的地であるフライ・バーニア直下のロベルタ村に辿り着いた。


「ちくしょう。アルファの世界でアタシたちが過ごした一日が、外の世界では一週間だったなんて。やっぱりあの女、アタシは嫌いだ」


史音が何度目かの愚痴を吐き出した。まるで浦島効果にでも巻き込まれたような状況だった。この遅れは、史音の計画を大きく狂わせかねない。


「今さらそんなことを言っても始まらない。とにかく少しでも早く、奴らの本拠地プルームの岩戸へ向かうんだ」


修一が史音を窘める。


「まあ、そうは言っても、この村の上にあるフライ・バーニアを何とかしなきゃな」


修一は空を仰ぎ、陽光を遮るように腕を翳した。


「空に何かあるのか?」


上を見上げる史音と修一に、侑斗が問いかける。


史音は侑斗の方を向き、右手を彼の顔にそっとかざした。


「しばらく目を閉じてろ。今、アンタにも見えるように五感を調整する」


短い沈黙の後、史音が手を離す。


侑斗が瞳を開くと、目の前の光景が一変していた。村の建物の色も、植物の緑も、先ほどとはまるで異なって見える。異様な色彩の世界に、侑斗は思わず口元を押さえた。吐き気が込み上げる。


「侑斗!上を見ろ!」


史音の声に従い、侑斗は恐る恐る頭上を見上げた。


空の彼方、巨大な塊が浮かんでいる。それは岩ではない。白く太陽光を反射し、輝いていた。


「……氷?あんな巨大な氷が、空に……?」


 蒼穹の下、巨大な氷塊が浮かぶ。それは現実のものとは思えないほど透き通っており、まるで異世界の幻影のようだった。


「あれがフライ・バーニアだ」

 史音が視線を向けた先、氷塊の表面にはわずかに光が波打っていた。どこか別の世界へと通じる扉のようでもある。

「その昔、クァンタム・セルの窓から量子の海を渡ってきた他の地球の戦士たちが移動手段に使ったセル・バーニアのエア・ポートだ」


 侑斗は思わず目を細めた。

「あんなでかいものが、なんで今までこの地球で見ることができなかったんだ?」

 当然の疑問が口をつく。あれほどの規模の物体が、なぜ突如として現れたのか。


「不確定性原理だよ」

 史音は空を仰ぎながら答える。

「通常の量子状態は数多くの人間に認識されると、無限の実在の可能性を与えられ、実体化してしまう。フライ・バーニアはその逆を突いて作られたんだ。通常の人間の五感による観測では見ることができない。それゆえ、存在し続けることができる。今、あんたは本来の視覚とは違う角度であれを認識している、観測せずに見ている」


 その言葉とともに、侑斗の視界が揺らいだ。そして次の瞬間、目の前にあったはずの氷塊が消え去る。まるで最初から何もなかったかのように、空にはただ青い空と白い白線が広がっていた。


 しばらくの沈黙の後、修一が唐突に口を開く。

「悪い、ちょっと用事を済ませてくる。どこかで待っててくれないか?」


 そう言い残し、彼は村の中へと紛れていった。人々のざわめきの中へと消えていく背中を見送りながら、侑斗は史音に尋ねる。

「さっき見た氷塊が次の目的地なのか?」


「ああ。まあ、黙って通り過ぎても敵は何もしないがな。あそこには奴らの要所がある。ストレージ・リングを太陽の鞘に当てる確率を高くするための装置がな。あれを破壊していく。ベルの話では、もう二十八個の太陽の鞘が破壊されたらしい。放っておけば、ベルのストレスはさらに高まる。早めに手を打たなきゃな」



 一方、村の人通りの少ない一角で、修一は恵蘭と向かい合っていた。

「……今言ったように、フライ・バーニアには私一人で向かいます」


 冷えた風が吹き抜ける中、恵蘭の声は淡々としていた。しかし、その眼差しには決意が宿っている。

「あそこには極子連鎖機構を備えた姉、紫苑があなたたちを待っています。だから私一人で姉を倒し、装置を破壊します。その間に、貴方たちは先に進んでください」


 修一は首を横に振る。

「恵蘭、時間がないのは俺も承知している。だが、お前ひとりで紫苑と戦わせる気はない。俺も行くし、史音も橘も行く」


 揺るがない修一の意志。その表情を見て、恵蘭は静かに目を伏せた。

「本当は……この旅に私も貴方と一緒に行きたかった。貴方の近くで、貴方といたかった。他の者も言っていた。なぜ貴方と行くのが橘侑斗なのかと。彼は女王の都合で同行させられただけでしょう?アルファに狙われた時のように、敵の手中に落ちたら、女王も貴方の姉も不都合なことになる。紫苑を、姉を倒したら、私がここで保護して、敵の手が届かないところへ連れて行ったほうが後の憂いを避けられる」


「女王ベルティーナは橘を通じて、俺たちを擁護している。実際、アルファの世界では、俺も史音もただの役立たずだった。橘がいなければ、今でもアルファの世界で享楽に耽っていただろう」


 侑斗は自らの苦しみと引き換えにアルファの呪縛を打ち破った。その事実を知る修一の言葉に、恵蘭は沈黙した。

「……わかりました。そのことはもういいです。でも、姉と貴方を戦わせることだけはできません」


 風が吹き抜ける。遠くで村の鐘が鳴った。

「紫苑は貴方を自分のものにできなかったという雪辱を抱えて、在城龍斗について行った。彼女はその感情で生きる愚かな女です。貴方が目の前に現れれば、どんな行動に出るかわからない。最悪、フライ・バーニアを破壊するかもしれない。それは女王にとって致命的なことです」


 修一は恵蘭の肩を抱く。その仕草はどこか迷いを含んでいた。

「俺は紫苑より、お前に惹かれた。でも、いずれにせよ、お前たちのどちらも選ぶことはできなかった。紫苑にとって何も変わらないのにな……」


 修一の胸に顔を沈めた恵蘭は、声を震わせながら呟く。

「女にとっては、それは違うことなのよ、修一……。彼方の地球と同じくらい、遠く離れたことなの……」




「隠れてコソコソいちゃつくなよ、修一、恵蘭」

 突如として響いた史音の声。その後ろには、居づらそうに立つ侑斗の姿があった。


 修一は踵を返し、二人を見つめる。

「史音、いつからいたんだ?しかも橘まで」


 フンと鼻を鳴らし、史音が答える。

「侑斗は面倒くさそうだからと嫌がったんだが、アタシが強引に連れてきた。でも修一、アンタの言う通りだ。フライ・バーニアには恵蘭と一緒に、アタシたちも行く」


 侑斗は横を向き、思った。

(やっぱり面倒くさそうじゃないか……。恥ずかしいことは俺の見えないところでやってくれ)





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