65、現在 手札
初夏の海風が心地よく吹く海辺。ベルティーナの別邸の門が開き、一人の女性がゆっくりと外へ出てきた。冬樹薫。 彼女を待っていたのは、若い男と、彼女より少し年下の女性だった。
「薫」
椿優香が、冬樹に声をかける。
「優香」
冬樹は平然とした態度で彼女を見た。
「ベルとは話せたようだね」
「貴女のおかげです」
素直にそう言う冬樹に、優香は乾いた笑みを浮かべる。
「そう、私のおかげ。だから私の条件はすべて飲んでもらうよ。そうでなきゃ、アンタを助ける義理なんて私にはないんだから」
そこまでのやり取りを聞いていた一矢が口を挟む。
「で、椿さん。わざわざ俺を経由して、この冬樹さんを女王に謁見させたのは、何のためだ?」
優香は一矢に視線を向け、軽くため息をつく。
「それはね、私が直接薫とベルを繋ぐと、まだベルにも話していない私の目的が悟られる可能性があったから。……まあ、一矢、貴方には感謝してるよ。私の指示どおり、離脱組に紛れ込んで三分の一を連れ戻してくれたんだからね」
一矢は不満げに眉をひそめる。優香は一也の人を惹きつける体質を利用した。
「単純な方が性に合ってるんでね。あんたの策略は、どうにも回りくどくて好きになれない」
「まあね。でも、あなたは単純であるがゆえに、龍斗の組織に潜り込ませるには最適だったの。貴方の行動は分かりやすい。だからこそ、解りやすさを求める者には模倣されやすいんだよ。ベルにも秘密で進めたのは、そのため」
一矢は不服そうに目を細める。
「……つまり、修一たちに橘とかいう奴を同行させたのも、その計算のうちか?」
「そうだよ。彼でなければ史音のサポートは無理だからね。私の目的のために、選択肢をベルに委ねる必要がある。そのために、曖昧模糊な言葉で誤魔化して、本当に苦労してるんだよ」
一矢はわずかに表情を曇らせたが、すぐにその拘りを心の奥へと押し込んだ。
「俺たちをあんたの駒みたいに言うんだな」
「駒じゃないよ。あなたも彼もベルも修一くんも、みんな私の『手札』。最後に向かうべき道のためのね」
優香はそう言った後、改めて冬樹を見た。
「薫、あんたも私の手札になってもらう。……何しろ、あんたは私の最大の切り札を知ってしまった。葛原零と一緒にいた、彼女の存在を」
冬樹は静かに目を伏せる。そして、しばらくの沈黙の後、低く呟いた。
「……葛原零が守った、木乃美亜希のことですね?」
「そうだよ。彼女が、この世界の切り札。そのことは、今は誰にも知られてはいけない。一矢、たった今聞いたことは忘れなさい」
「そんな聞いたことのない名前は、今忘れた」
一矢は肩をすくめて答える。しかし、冬樹の胸は妙な圧迫感で締めつけられ、息苦しさを覚えた。
「しかし……女王ベルティーナに、本当に隠し事などできるのですか? 優香、何故貴女は女王を欺くのですか?」
冬樹の疑問はもっともだった。ベルティーナの力に対し、いったい何をもって抗おうというのか。
「ベルはね、物事の真実に近いものを広く見て、全てを統合し、整合性から答えを導き出す。でも、だからこそ、不整合や不確定を散在させれば、彼女の計算を狂わせることができるんだよ」
優香は鋭い視線を向けながら続ける。
「……ただ、今のベルティーナはとても不安定になってる。もともと彼女には、この地球を救う義理なんてない。ただ、別の地球の監視者としてここに来ただけ。今までこの地球を守ってきたのは、彼女の慈愛と、私たちとの繋がり。でも……太陽の鞘がいくつも龍斗たちによって破壊され、数多くの地球が滅びた。何億もの人が消え去った。ベルが、この状況をただ見ているはずがない」
一矢が腕を組み、ぼそりと呟く。
「修一や史音たちが奴らを壊滅させれば、その心配はなくなるだろう?」
「まあ、そうなんだけどね……。アルファは他の地球のことなんてどうでもいいから、史音たちを長期間自分の世界に閉じ込めた。そのせいで史音の計画は大幅に遅れた。今も龍斗たちはストレージ・リングを使い、太陽の鞘を狙ってる」
冬樹は息を呑む。事態は、想像以上に深刻だった。
「だから私はベルの元へ帰ってきた。ベルがこの地球を見捨て、他の地球を守る決断をするのを防ぐために。……何しろ、ベルには太陽の鞘を残して、この地球を滅ぼす力があるんだから」
優香の言葉が、温かな潮風に溶けていく。
冬樹は黙っていた。ただ、その瞳には、逃れられぬ覚悟が宿りつつあった。
「それで優香、とりあえず私は何をすれば良いのですか?」
初夏の海風がやわらかく吹き抜ける中、冬樹は真剣な眼差しで優香を見つめた。波の音が遠くから響き、砂浜の湿った香りが漂う。優香はわずかに目を細め、慎重な口調で答える。
「薫。あんたが今までしてきたことは、何をしても償えないし、償ってほしいとも思わない。でも、これから葛原零たちの元へ行って、彼女たちを守ってほしい」
冬樹は眉をひそめ、ためらいがちに問い返す。
「あの恐ろしい力を持った葛原零を、私ごときが守る必要があるのですか?」
優香は腕を組み、少し視線を遠くへ向けた。潮騒が一瞬、二人の間に沈黙をもたらす。
「葛原零は、人の守り方を知らない。時に、自分の計り知れない力を無制限に解放して、守りたいものまで消し去ってしまうかもしれない。そうなったら彼女もベルと同じ……絶望して、この世界を滅ぼしてしまう。だから『地球を守る教団』が彼女を過剰に刺激しないよう、監視してほしい」
冬樹はしばし思案し、やがてゆっくりと頷く。
「分かりました。私にどれだけのことができるか甚だ疑問ですが、できることをやりましょう」
そのとき、砂浜の小道から足音が近づいた。
恵蘭が旅支度を整え、姿を現す。
「優香、やはり帰っていたのですね」
優香は振り返り、微笑を浮かべる。
「恵蘭は、これからフライ・バーニアへ行くんだね?」
恵蘭は無言で頷き、次に一矢の方を向いた。
「一矢、よく戻ってくれました。おそらく貴方の行動の意味を、女王はすべて理解しています」
一矢は肩をすくめながらも、わずかに目を伏せる。
「それはありがたいが、恵蘭……俺は紫苑を連れ帰ることができなかった。すまないと思っている」
恵蘭の表情が曇る。海風が彼女の髪をわずかに揺らした。
「姉は在城龍斗を選んだのです。貴方ではなく。それも修一に選んでもらえなかったから。くだらない理由です」
修一は紫苑も恵蘭も選ばなかった。彼はもっとずっと先を見ている。だが恵蘭は、それでも修一を敵に回すことは考えていない。姉は人との絆を、愛憎でしか見ることができない。
優香は静かに口を開く。
「恵蘭、分かっていると思うけど、フライ・バーニアにある敵の極子連鎖機構を破壊できれば、奴らの幻無碍捜索はかなり困難になる。あてずっぽうでストレージ・リングを放つしかなくなる。確実に破壊して、ベルの心労を少しでも減らさなきゃいけない」
恵蘭は鋭く頷く。
「貴女に言われなくても分かっています。修一と協力して、必ず破壊します」
――たとえ、姉をこの手で撃つことになっても。
優香は恵蘭の決意を受け止め、穏やかに微笑む。
「それじゃあ恵蘭、十分気を付けて。でも行動は急いで。薫も」
二人は力強く頷き、それぞれが向かうべき道へと歩き出した。




