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64、現在 ルーザー

昼下がりの穏やかな風が、ベルティーナの金色の髪をそっと揺らした。彼女は海岸を望む別邸のバルコニーで、ゆっくりとカプチーノを嗜んでいた。カップの縁から立ち上る湯気が、午後の日差しに溶けて消える。


午前中だけで、数十人もの帰還者と面会を済ませた。組織を離れた彼らは、戻ってきた今、以前よりも忠誠心が強くなり、存在力も向上していた。予測通りの結果だったが、それでも彼らと再び袂を分かつことがないという確信は持てない。


ベルティーナは手元のリストを開き、午後に面談を予定している者たちの名前を確認する。その中で——。


冬樹薫(ふゆきかおる)……? 日本人か。この名は聞いたことがないな」


ベルティーナの眉がわずかに動いた。その瞬間、柱の陰から静かな声が響く。


「女王、よろしいですか?」


恵蘭(けいら)が姿を現した。彼女は優雅な仕草で一礼し、ベルティーナの前に立つ。ベルティーナはカップをテーブルに戻し、面会者リストを閉じた。


「何か問題が?」


「はい、『地球を守る教団』壊滅の書を史音から拝見しました。しかし、少し不確定な要素が見受けられます」


恵蘭の声には微かな不安が滲んでいた。


「史音は己の不完全さを理解している。その上で、誤差が許容範囲に収まるよう行動している。私たちはそれを支える役目を果たさねばならない」


ベルティーナの言葉に、恵蘭は深々と頭を下げる。己の役割を改めて認識し、決意を固めるように目を閉じた。


しばしの沈黙の後、ベルティーナはリストを指でなぞりながら口を開く。


「ところで恵蘭よ、午後の面会リストにある冬樹という日本人——私の記憶にはない者だが?」


恵蘭は一瞬、驚いたように目を瞬かせた。この女の存在を強引に押し通してまで謁見を許した自分の判断を、今さらながらに振り返る。


「はい。その者は在城龍斗に直接繋がる者ではありません。末端の組織に属していた、言うなれば愚か者の一人。しかし、彼女は葛原零と直接会った者です。どうやら酷い目に遭ったようですが——その経験以来、何かが目覚めたと語り、どうしても女王と謁見したいと、幾つもの障壁を越えてここへ辿り着きました」


ベルティーナはわずかに目を細める。


「まさか、あの女に受けた恨みを、私のもとに仕えることで晴らそうと考えているのではあるまいな。私は彼女を憎む者を増やそうなどとは少しも思っていない」


海を見つめながら、ベルティーナは静かに続ける。


「私と葛原零、レイ・バストーレの間にあるのは、ただの私怨だ」


私怨——。そう、彼女はかつて零に消されかけた。そして今もなお、消えた者のため戦いを続けている。橘侑斗を身代わりとして。


恵蘭は真っ直ぐにベルティーナを見つめた。


「おっしゃることは理解します。しかし、この冬樹という女は、まるで地の底から這い上がってきたかのような覚悟を持っています。己の全てを否定し尽くし、それでも貴女の前に立つためにここまで来た。彼女を導いたのは、かつて貴女を裏切り在城龍斗の元へ走った男——一矢です」


「……一矢が?」


ベルティーナは驚きを表には出さず、ただその名を繰り返す。修一の友人であり、聡明な男。彼が導いた者ならば——。


「なるほど。お前がそこまで言うのならば、会う価値はあるのだろう。午後の初めに会おう」


冬樹薫がベルティーナの前に姿を現したとき、彼女の第一印象は「地味な女」だった。


冬樹の着ているのは、無彩色のグレーのスーツ。しかし、その裁断は見事で、イタリアの熟練した仕立て職人の手によるものだとわかる。日本人の多くが既製服を着用する中で、彼女は違った。

ベルティーナは広いバルコニーの下で冬樹と対面した。


「立ったままでは話もできぬ。腰を下ろせ」


ベルティーナが手を軽く振ると、冬樹は深く頭を下げ、ゆっくりと椅子に腰を落とした。


「女王陛下」


冬樹は、口を固く結び、一度は飲み込んだ言葉を無理やりこじ開けるようにして発した。


「陛下はいらぬ。私はこのステッラの地球の王ではない。便宜上そう呼ばれているだけだ」


冬樹はベルティーナと十以上の歳の差がある。しかし、彼女の表情には威圧感すら漂い、冬樹はその圧倒的な存在感に押されるように肩を強張らせた。


そして、彼女は静かに告白を始めた。


「私は——女という生き物が嫌いです。いえ、嫌いでした」


ベルティーナは一瞬、眉をひそめる。


「そなたも女性ではないのか? それとも、心は男性なのか?」


冬樹の口元がわずかに緩んだ。


「ジェンダーの話ではありません。私は——自分を含む全ての女が嫌いなのです」


ベルティーナの眼差しが鋭くなる。


「理由を聞こう」


冬樹は唇を引き結び、声を低くした。


「女たちはいつも感情に憑りつかれ、弱き者をさらに弱くする。悍ましさに悍ましさを重ね、無意味な言葉を方便にして他者を傷つける。彼女たちにあるのは、原始的で野蛮で残虐な本能だけ……ほんの僅かな先に有る無意味なカタルシスの為に」


一気にまくし立てた冬樹は、深く息を吐く。そして再び、静かに口を閉じた。


ベルティーナは、彼女の言葉の裏にある「何か」を探るように、ただ黙って冬樹を見つめていた。


静寂に包まれたバルコニーに、海風がそよぐ。

「それは女の一側面にすぎぬよ。間違ってはおらぬがな。男どもにさほどの差があるのか、私には解らぬ」


ベルティーナは静かに言いながら、この地球の男たちの顔を思い浮かべる。かつての部下でありながら彼女を裏切った在城龍斗、葛原零と血の繋がった弟である葛原修一、そして一矢。彼らの一部には、彼女の故郷にはほとんど存在しなかった“特異な者”がいた。ユウに近い存在——。


そして、この地球の女たちは——。


冬樹薫は、椅子の上で背筋を正し、抑揚のない声で語り続ける。


「女王、私はあの女達の行動心理が、天気図から明日の天気を予測するように、ラプラスの悪魔がそうするように、読み取ることが出来ました。そして、あの者達に相応しい地の底へ貶めるのを私の目的として、私のカタルシスとしてずっと生きてきました」


ベルティーナは微かに眉を寄せる。この地球の女たちは、自分の故郷の女性たちとは異なっている。知成力は男女ともに圧倒的に低い。枝の神子たちを別とすれば——だが。


「どうした、続けよ」


促され、冬樹は一度深く息を吐き、震える指先を組み合わせながら話を続けた。


「私は……私は、あの圧倒的な力で私の行動力学を粉砕した葛原澪に、自分を愚かだと自嘲する彼女に、私の全てを否定された。粉微塵にされたのです。今までの自分が塵となって、どこかへ行ってしまった——。ほんの僅かな行動と言葉で、彼女は私には絶対にできないことを成した。愚かで誰かの悪戯心の生贄となるしかないはずの女達を救った。そして、彼女の熱い意志をこの身体に流し込まれた。女が女として生きることは正しいと。女たちが愚かに見えるのは、自分を女だと正しく認識していないからだと……」


まるで胸の奥から搾り出すような告白だった。


ベルティーナは冬樹の姿を静かに見つめる。彼女は今、この世界の女たちとは異なる輝きを放っている。


「葛原澪、レイ・バストーレは自分で言う通りの愚かな女だ。それを自覚していることは私も承知している。それで貴様は何故私の元へ来た?貴様は彼女を崇拝しているような戯言を述べるが、ならば何故あの女の仇敵である私の元へ来たのだ?」


冬樹はまっすぐベルティーナの瞳を見つめ、まるで己の生を賭けるように、はっきりと言い放った。


「私が女を正しくやるために。葛原澪に劣らない、正しい女である貴女の元で、自分を創り直したいからです」


その瞬間、冬樹の内側から溢れ出した何かが、ベルティーナの中の鋭敏な感覚を震わせた。確かな存在力、知成力——それは、ここに生まれるべきではなかった者の証。


なるほど、彼女は生まれる地球を間違えたのだ。


ベルティーナはようやく得心した。


「判った。お前にいずれ何かを頼らせてもらおう。私が頼むまで待ってもらうが、それで良いか?」


冬樹は静かに立ち上がり、深々と頭を下げると、迷いのない足取りで部屋を去っていった。


バルコニーに残されたベルティーナは、海の向こうに眩しい太陽を眺めながら、独りごちた。


「葛原零が人を救う?……誰がそんな話を信じるものか」


風が強くなり、波音が遠く響く。空の色が紫がかり、夜の帳がゆっくりと降り始める。


やがて扉が開き、恵蘭が入ってきた。


「女王、史音達は予定を大幅に遅れて、明後日フライ・バーニアの真下の地に辿り着きます。フライ・バーニアでは紫苑が……姉が待ち構えていると存じます。私も修一の元へ参ります」


ベルティーナは静かに頷く。


「恵蘭、私にも姉がいた。仲の良い姉妹だった。だが、悪い親のせいで姉は魔物になった……」


一瞬、彼女の瞳に影が差す。


「お前が撃つ者は、誰のために敵となったか?それを良く見定めよ」


その言葉は、波の間へと消えていった。

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