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47、現在 仮面を脱いだ女神

亜希は冬樹の車に乗り、二つ隣の街へとやって来た。

慣れ親しんだファースト・オフやBLACK・BACKとは全く異なる、どこか不気味な雰囲気の喫茶店の前に立たされる。外観は古びたレンガ造りで、窓には重そうなカーテンがかかっており、内部の様子はうかがえない。扉の上には店名すら書かれていなかった。


「ここですか?」


亜希は不安げに冬樹を見上げる。冬樹は無言のまま扉を押し開いた。


店内に足を踏み入れると、妙な静けさが支配していた。ほの暗い照明が壁の影を揺らし、空間にはコーヒーと甘いリキュールの香りが入り混じって漂っている。BGMはかかっていない。それなのに、店内の席はほぼ埋まっていた。客は皆、無言でテーブルに座り、沈黙の中でコーヒーを啜っている。異様な雰囲気に、背筋がひやりと冷たくなった。


冬樹は奥の空いた席へと進み、私も緊張しながら後を追う。


そのとき、入り口のドアが再び開いた。

そこに立っていたのは、真っ黒な帽子を目深にかぶり、赤い眼鏡をかけた零さんだった。


「お客様、恐れ入ります。本日は貸し切りでございまして……」


カウンターの奥からマスターらしき男が申し訳なさそうに声をかける。


零さんは無言のまま、札束のようなものをスッと差し出した。それを受け取ったマスターは何も言わず、ただ一礼する。零さんはそのままカウンター席に腰を下ろした。


――貸し切り?今、そう言ったよね?


違和感が拭えないまま、亜希は冬樹に向き直る。


「その……重篤な女の子って、これから来るんですか?」


私の問いに、冬樹は吐き出すような笑みを浮かべた。


「いいえ、先生。もう来ていますよ。――皆」


「皆……?」


その瞬間、私は店内の異変に気づいた。


零さんを除く客全員の視線が、私へと突き刺さる。敵意に満ちた、鋭い眼差しだった。


彼女たちは皆、女性だった。どの顔にも生気がなく、まるで何かに取り憑かれたかのような淀んだ目をしている。その場にいるだけで、息が詰まりそうだった。


「冬樹さん……あなたの目的は何? 私に何をさせたいの?」


震える声を絞り出す。


「木乃実先生、あの娘たちはね――攻撃する対象を求めているの。貴女にね」


冬樹は楽しげに言葉を紡ぐ。その声には狂気めいたものが滲んでいた。


「あの娘たちは邦錠先生の話に、言葉に救われた人たちなの。その先生を貴女は否定した。彼女たちを救ったものを、貴女は否定したのよ」


ゾッとするほど静かな口調だった。


「私はね、他人の痛みをこの身に感じてしまう体質なの。だから……解るでしょう?」


冬樹はゆっくりと立ち上がる。そして、私の右手を強く掴んだ。


「跪いて謝りなさい。私もあの娘たちも、結構寛大よ。許される可能性もあるかも」


「離して! そんなに強く掴まないで!」


腕に食い込むほどの力で、冬樹は私の手を離さない。力任せに引かれ、私は床へと投げ出されそうになった。


店内にいた女たちが、一斉に立ち上がる。


無数の瞳が、私を睨みつけていた。


初めて味わう、純粋な恐怖だった。


その中の一人、かすかに震えている少女がいた。他の者とは違い、目を伏せ、唇を噛みしめている。彼女だけが、何かを訴えるように、微かに首を振っていた。


冬樹は勝ち誇ったように笑う。


「私の分身から――その薄汚い手を離せ」


低く、静かな声が響いた。


気づけば、亜希と冬樹の間に零が立っていた。


彼女は氷のような眼差しで冬樹を見据え、無造作に手を伸ばす。


零の指先が冬樹の手首を掴んだ瞬間――空気が、変わった。


「熱いっ!」


冬樹は悲鳴を上げ、亜希の手を離した途端、まるで糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。


その背後に立つ零の左手が、金色の光を帯びている。


倒れた冬樹の背中にそっと掌をかざすと、まるで重さなど感じていないかのように、彼女の体を軽々と持ち上げた。まるで見えない盾を翳すような動作だった。


「う……ああああああああ!」


冬樹の絶叫が店内に響き渡る。


亜希を含め、店内にいた全員がその光景に息を呑んだ。空気は凍りつき、誰一人として声を発することができない。


亜希は無意識のうちに、じり、と後ずさる。


ふと、隣で震えていた少女の存在に気づいた。彼女の肩は小刻みに揺れ、顔は青ざめている。だが、次の瞬間、彼女はゆっくりと上着のポケットに手を突っ込み、そこから短く鋭いナイフを取り出した。


「……どうして……分からないの?どうして私の拠り所を……私の最後の大切なものを壊すの?」


彼女の声は震えていたが、その瞳は真剣だった。そこには、絶望の淵を覗いた者にしか持ち得ない深い影が宿っている。


亜希は彼女の言葉を噛みしめながら、静かに答えた。


「ええ、私には何も分からない。他人の痛みを分かったふりをするつもりもないよ」


そう言いながら、一歩前に踏み出す。


すると、彼女は驚いたように息を呑み、一歩後ずさった。そして、ナイフを放り投げると、拳を握りしめ――


「……ああああ!」


鋭い雄たけびとともに、亜希に向かって拳を振り下ろした。


だが、その拳が亜希に届くことはなかった。


突如、亜希と少女の間に割って入った零の左手が、背後にいた冬樹の顔面を捉えたのだ。少女の拳は冬樹の鼻っらに命中した。


「ぐっ……!」


冬樹の顔が苦悶に歪む。


「そうか、痛むのだな」


零さんは冷たい声で言った。


「その痛みこそが、おまえが彼女に向けた悪意の証だ。他人の痛みを感じるというおまえにとって――これは本望だろう?」


そう言うと、零さんは冬樹を無造作に床へと投げ出した。


そのまま拳を握りしめ、震える少女をじっと見つめる。


「娘よ」


低く響く声に、少女がびくりと震えた。


「甘えるな、とは言わない。確かに、誰かの言葉に救われることは、誰にでもある。だが――他人の言葉にすがるだけでは、おまえ自身の存在は薄れていくだけだ」


そう言いながら、零さんはゆっくりと帽子を取り、眼鏡を外した。そして、縛っていた髪をほどく。


その瞬間、店内の空気が変わった。


彼女の存在は、まるで神がかっていた。静かに光を放つような美しさに、誰もが息を呑み、圧倒される。


零さんは、沈黙の中で自分を見つめる女たちに言葉を投げかけた。


「そして――言葉だけがすべてではない。己自身を観察し直せ。悩み、迷い、苦しんだのだろう?」


跪いたままの少女が、涙を流しながらこくりと頷く。


「ならば、おまえたちの中に求めるものは、必ずあるはずだ。信じる者に裏切られたか? それとも、信じる者を裏切ったか? ひどく後悔しているのか? すべてを忘れてしまいたいか?」


零さんの言葉が、彼女たちの心の奥深くに突き刺さる。


「ならば、他人の言葉に囚われるな。自分にできることを考え、実行しろ。時間の矢の向きは変えられない。だが――ただそこに立ち止まっているよりは、遥かに価値があるはずだ」


静寂が広がる。


そして、零さんは私の手を取り、ゆっくりと店の出口へ向かう。


「待ってください……」


背後から、少女の震えた声が聞こえた。


「貴女は……女神ですか?」


零さんの美しさと、彼女が持つ不思議な力に圧倒され、祈るように絞り出した言葉だった。


零さんは歩みを止め、ちらりと振り返る。


そして、自嘲するように笑い、こう言った。


「ふ……私はそんなものとは、微塵も交わらない存在だ」


その表情は、どこか寂しげだった。


「私は、おまえたちより遥かに愚かな女だ。だから――私のようにはなるな。まずは、その場から自分の意志で歩き出せ。そうだな……例えば、木乃実亜希の書いたものを読むところから始めるといい」


***


外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。


しばらくの間、私と零さんは無言で立ち尽くしていた。


「……零さん」


沈黙を破ったのは私だった。


「いつも迷惑ばかりかけて……ごめんなさい」


そう詫びると、零さんは静かに目を細め、再び眼鏡をかけ、帽子を深く被った。


「零さん、あの娘たちは……放っておいて大丈夫なんでしょうか?」


「私は暗示を解いただけ。店にいた半分の娘たちは、もう大丈夫。残りの半分も、もう亜希さんに敵意を持つことはない」


零さんに促され、私は彼女の車に乗り込む。だが、胸の奥にはまだモヤモヤしたものが残っていた。


「あの……冬樹という女は何だったんでしょう? 彼女の目的は……?」


私が尋ねると、零さんは少しの間、言葉を選ぶように沈黙した。そして――


「あの在城龍斗という男に繋がる者」


重々しい声で、そう答えた。


「修一から聞いた。あの男は己の存在を失わせ、シニスに近い者を創り出し、自分の目的のために道具として利用しようとしている……」


赤信号で停車した車のフロントガラス越しに、長く伸びた灰色の光が、嘲笑うかのように夜空を裂いて輝いていた。


――そして、これもまだ、私にとっての始まりに過ぎなかった。

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