46、現在 零の変装、冬樹の来訪
凪にはああ言われたものの、亜希にも外出する事情がある。自分は閉じこもった室内では創作ができない性質なのだ。
その日、亜希はいつものように路線バスで県立図書館へ向かった。スクーターでは少し遠い距離だったからだ。車窓から見える街並みは静かで、雲ひとつない青空が広がっている。初夏の湿った風が木々を揺らし、時折、青緑色の葉がキラリと光る落のが見えた。
平日の昼間、図書館の周囲には人影が少ない。バスを降り、入口へ向かう途中、ふと駐車スペースに目をやる。そこには見覚えのあるスバルの青い軽自動車が止まっていた。
スバルは今はもう軽自動車を自社生産していないと聞いたから、これは古い型か、OEMモデルなのだろう。……とにかく、零の車だ。
館内に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。書棚が整然と並び、遠くで誰かがページをめくる音だけが静寂の中に響いていた。
亜希は歩を進め、零の姿を探す。誰もいない奥の席、視界の隅に目立たないように座る一人の人物がいる。見慣れない服装だが、仕草や雰囲気で零さんだとすぐに分かった。……この変装、亜希でなければ気づかなかっただろう。
零の前には、高く積み上げられた分厚い書籍の山がそびえ立っている。まるでレンガの壁のように整然と重ねられ、その中に彼女はすっぽりと埋もれていた。
「零さん、こんなところで会うなんて珍しいですね。どうしたんですか? その格好は?」
小声で問いかけると、零さんはゆっくり顔を上げた。そして、いつもの透き通るような声で答える。
「亜希さん、こんにちは。最近、図書館というものの存在を知って、よく来ているの」
「……最近、図書館の存在を知ったんですか?」
思わず聞き返したくなる。学生時代はどうしていたのだろうか。でも、零さんだから何でもありだ。
「私がいつもの格好で来ると、なぜか人目を引いてしまって。琳に相談したら、この格好になった」
零は、当然のように言う。しかし、彼女は自分の外見が人目を引く理由を本当に分かっていないのだろうか。
それにしても、琳のセンスは相変わらず独特だ。最先端を通り越して、どこか別の次元へ行ってしまっている。
零は後ろにリボンのついた黒い帽子をかぶり、赤いフレームの伊達メガネをかけていた。リボンの下で、ポニーテールが軽く揺れている。黒の厚手のブラウスに、紺のデニムスカート。……スカートだけは譲れなかったらしい。
「すごい量の本ですね。調べものならネットのほうが早いですよ?」
積み上げられた本の山を見上げながらそう言うと、零はわずかに瞳を細め、少し不満そうな表情を浮かべた。
「あれらの情報には形がない。正しさの基準もない」
「それはそうですけど、本だって書いた人の価値基準しかないですよ?」
零は微かに微笑み、静かに言った。
「誰かの価値基準で十分。その人の存在を感じられるから」
……そういうものですか。
亜希はひとまず自分の作業に集中することにし、目当ての書籍を探しに行く。しかし、なぜか貸し出し中のものが多い。仕方なく、いくつか別の本を手に取り、零の向かいに座って創作資料作りに入った。
しばらくして、ふと零の様子を見る。彼女は器用に積み上げた本の間から目的の一冊を取り出し、一瞬で該当ページを開いて読みふけっていた。そして、ほんの数分の間に、また別の本へと手を伸ばし、同じ動作を繰り返している。
その作業を、彼女はまるで息をするように繰り返していた。
……常人離れしている。琳の変装も、あまり意味がないな。
修一くんが言っていた。零さんは数十にのぼる特許を取得している、と。何でもできる人なのだ。
一時間ほど粘ったものの、あまり成果が出なかった私は、肩を落として席を立つ。
「それじゃあ、零さん。私はこれで帰ります」
「送りますよ」
零さんは申し出てくれたが、両脇にそびえる本の塔を見て、申し訳なくなり遠慮した。
外へ出ると、初夏の風が頬を撫でた。湿った風に混じる、本の匂いがまだ鼻の奥に残っている。
外へ出ると、来たときよりも風が強くなっていた。初夏にこの地域を吹き抜ける冷たい風だ。肌を撫でる感触が心地よく、思わず深く息を吸い込む。
バス停へ向かって歩き出したとき、前方から一人の女性がこちらへ向かってくるのが見えた。
アグレッシブな印象を与えるスーツ姿。長身でスラリとした体型に、歩くたび揺れる黒髪が目を引く。すれ違う人々が、無意識に目線を送っているほどの存在感だった。
そして、その視線を受け流すようにして、彼女は真っ直ぐこちらへ歩み寄ってくる。
「木乃実亜希先生……ですよね?」
近づくと同時に、はっきりとした口調で問いかけられた。
「そうですが、そちらは?」
どこかざわつくような違和感が背中を走る。
「私は雑誌記者をやっている冬樹薫と申します」
そう言って、彼女は名刺を差し出してきた。
差し出された名刺を、私は形式通り両手で受け取る。
「ごめんなさい。私、名刺とか作ったことなくて」
「気になさらないでください。作家は大体そんなものです」
冬樹は口元に微かな笑みを浮かべた。どこか楽しげで、こちらを値踏みするような雰囲気がある。
何かが不自然だ。
少しの間を置いた後、冬樹は言葉を継いだ。
「先生、今、大変な状況におられますが、いろいろとご不安ではないですか?」
――変な日本語だな。本当に記者か?
それに、私は何か大変な状況だっただろうか? 記憶を探る。
……ああ、凪が言っていたあれか。すっかり忘れていた。
「……あー、私、見たくないものは見ないようにしているので、不安も問題もありません」
冬樹は大きくため息をつく。
「先生は、現実から逃げているのですか?」
服装と同じで、発言もアグレッシブだ。
「今は別に逃げていません。必要があれば全力で逃げますけど」
そう返すと、冬樹はニヤリと笑った。しまった、言質を取られた。
「逃げていないと。逃げないと、おっしゃるのですね?」
冬樹は一歩、距離を詰めてくる。……近いよ、お姉さん。
「私の知り合いの邦錠先生の熱烈なファンの娘が、どうしても木乃実先生とお話ししたいと申しております。一度、会っていただけないでしょうか?」
うわ、面倒くさそう。嫌だな、と私が思ったことは、すぐに冬樹に伝わったらしい。
「怖いのですか? たかが一般の女子のことが」
煽るなあ、この人。何か言い訳を……ああ、そうだ。
「邦錠先生のファンって、カルト信者みたいって友人から聞きまして。私、そういうのはちょっと……。今、世界で騒がれている在城龍斗に惹かれてる人たちみたいなんでしょう? 私、あの人やあの人の信者たちに会って、ちょっと気持ち悪いんですよ」
その瞬間、それまで涼しい顔をしていた冬樹の表情が一瞬で強張った。
「……在城龍斗に会ったのですか!」
ほぼ叫ぶように冬樹が問い詰めてくる。
――ええ、会いましたよ。自慢にもならないけど。
冬樹は目を伏せ、しばらく考え込んだ。
「……まあ、それはいいです。とにかく、その娘の話を聞いてください。私は、先生が持論を展開して、彼女が信条を翻すところを見てみたいのですよ」
「ごめんなさい。興味ありません」
私は即答する。
沈黙。
次の瞬間、冬樹は突然、深々と頭を下げた。
「どうか、お願いします。彼女は信じるものを失いかけていて、食事もまともに取れない状態なのです。彼女を救えるのは、貴女しかいません」
……うむ。
逃げ場を塞がれた。この女。
私は渋々承諾すると、冬樹はすぐさま「これから自分の車で案内する」と言い出した。
「……これからですか?」
「そうです。少しでも早く、彼女を助けたいのです」




