45、現在 警告と予兆
三日前、亜希の元に修一から連絡が入った。
「侑斗を連れて、ちょっと旅に出る」
それだけだった。
彼の言葉はいつも短い。聞けば答えるが、余計なことは決して言わない。何かを隠しているようにも思えたが、それを問い詰めるのは石に灸を据えるようなものだ。無駄なことはしない。
それにしても——空を見上げると、白い帯が夜空に鮮やかに浮かんでいる。
陽があるうちも、沈んでからも、その存在を誇示し続ける天空の白い帯は、決して息を潜めることがない。
まるで世界が何かを語ろうとしているようだった。
先日の金曜倶楽部でも、松原さんたちはその話題に気を取られていた。零さんは、どこか元気がなかった。
——世の中、吐き出していないことが多すぎる。
私自身も、まだ何もかも吐き出せずにいる。
◆
私は自宅の部屋で寝転がりながら、スマホを片手に情報を集めていた。
……質が低い。
ニュースサイトを開いても、SNSを漁っても、何も核心に迫るものは出てこない。
「はあ……」
ため息とともにスマホを放り出すと、仰向けになって天井を見つめた。
部屋の隅に積まれた本の山。カーテンの隙間から漏れる街灯の光。
——日頃の不規則な生活と不摂生がたたったのか、急に眠気が押し寄せる。
意識が遠のいていくのを感じながら、そのまま目を閉じかけた——その時。
メールの着信音!
◆
「……うーん?」
ぼんやりとした意識のまま、頭の上を探るように手を伸ばし、スマホを手に取る。
画面には**「凪」**の名前が表示されていた。
懐かしい。高校時代の友人で、今でも覚えている数少ない人間の一人だ。
(……新しいメアド、交換したっけ?)
考えてみれば、半年くらい前にサイン会に来て、さりげなく交換させられたのを思い出す。
『今通話できる?』
私はぼんやりとした頭で返信を打つ。
『大丈夫、いいよ』
送信した直後、コールが鳴った。
◆
「亜希、半年ぶり」
「やあ、凪。久しぶりだね」
声が寝ぼけていたのか、すぐに指摘が入る。
「声が寝てるよ?」
「ごめん、今叩き起こしてる最中だから」
片手で頬を軽く叩きながら、なんとか意識をはっきりさせる。
「あー、起きた、起きた。で、どうしたの?」
一瞬の沈黙の後、凪が低い声で言った。
「いや、一応心配で連絡したんだけど」
「心配?私の?なんで?」
話が繋がらない。
私の人生は危なっかしいとはいえ、そこまで世間様に迷惑をかけているわけでもないはずだ。
◆
「知らないんだ。先月出た雑誌で、亜希、邦錠邦之先生と対談したでしょう?」
(したっけ?)
くにくにした名前だな……ああ、あの若い娘に絶大な人気を誇っているという、あの先生か。
作品を何冊か読んだけど、だんだん気分が悪くなったんだよなあ。押し付けがましくて。
締切期限を人質に取られた私は、「女性心理描写の鬼才と美人作家の対談」とかいう意味不明な企画に強制参加させられたんだった。
「……んんん、したようだね、どうも」
「対談の中で亜希、邦錠先生に、
『先生がご自身のお考えを、ご自身の作品や対談の席でおっしゃるのは、表現の自由で保障されていますので、それは自由です。けれども先生の思想を、自分で思慮に思慮を重ねず、言葉だけで受け入れてしまう方には、私の書くものは馴染めないでしょう』
って発言したでしょう?」
「……したような気がするよ」
雑誌には興味がなかったので買ってもいないし、読んでもいない。
◆
「あの先生の熱烈なファンの娘たちが、SNS上で炎上しまくってるよ。『木之実亜希の不買運動』とか呼びかけてさ。……あ、亜希は見ないほうがいいよ。同じ女とは思えないくらい品性が低いから」
勝手にすればいい。
そんな読者、こっちから願い下げだ。
「それで心配して連絡くれたんだ。大丈夫、私は平気。ありがとう。じゃあ——」
「こら!話を終わらせようとするな」
声が鋭くなった。
「……あの先生のファンの娘たちって、ほぼカルトなんだよ。信者なんだよ。何するか分からないんだよ」
最近、信者って言葉をよく聞くなあ。ブームなのか?
適当に聞き流していると、凪がため息混じりに続ける。
「亜希、とにかく外出するときは十分気をつけて。というか、不用意に外出するな」
「はいはい、わかりましたよ」
「……まったく。あんたは本当に凪みたいにふらふらしてるんだから。私の名前、あんたにあげたいよ。だいたいペンネームくらい使いなさいよ」
懐かしい凪の声に、思わず笑う。
「ははは、そうだね。じゃあ次からペンネーム『浅川凪』でいこうかな」
ふざけて言った瞬間、凪が沈黙した。
「……それはダメ。私、来月個展やることになったから」
一瞬、心が温かくなった。
「そうなんだ。やったじゃん。絶対見に行くよ」
「不用意に外出するな!……でも、待ってる」
通話が切れる。
私は女の友情なんて信じていない。
でも、凪の友情は嬉しい。
——だが、彼女の不安は的中するのだった。