ひきこもりのルティナ
扉が幾度かノックされて、「お嬢様」と幾度か声をかけられても、ルティナは小さくなったままじっとしていた。
ぽろぽろと涙がウリちゃんの上に落ちた。
ウリちゃんは何を考えているのか分からない黒い瞳をルティナに向けて、じっとしていた。
「ヴァレリー様の加護なんて、なければよかったのに……」
ふと視線を巡らせると、姿見に自分の姿が映っている。
姿見を見るのは好きだった。そこに映っているのは、皆から愛される完璧な少女の姿だ。
けれど今は、父譲りの黒髪も母譲りの赤い瞳も、やせっぽっちの貧弱な体も、陰気なものにしか映らない。
そんな陰気な姿をした少女が、似合わない豪華なドレスにくるまれている。
――恥ずかしい。
バキッと、鏡にひびが入った。
ルティナはヴァレリーの加護によって、闇属性の魔法を使うことができる。
それは影を自在に操れるというもので、影はどこにでもあるためにルティナは自分自身が動かなくても大抵のことを影にさせることができた。
人を傷つけることも、容易かった。
けれど、そんなことは一度もしたことがない。
クワイエット公爵家は王国民を守る立場である。ヴァレリーの力を使うのは、誰かを守るため。
誰かを傷つけるためではない。
そう教えられてきたし、ルティナ自身もそう信じていた。
魔法の訓練中に対象を破壊したことはあるけれど、それはあくまでも訓練のため。
はじめて、自分の意思で壊したいと願い、鏡を壊してしまった。
「私は、なんてことを……」
罪悪感に心が軋む。他者が怖い。自分が怖い。何もかもが、信じられない。
両親は気にするなと言っていた。
けれど――それはルティナが魅了の魔法をかけているからかもしれない。
家のものたちが優しいのも、なにもかもが。
自分が皆を操っているからかもしれない。
「魅了の力なんて、いらないのに」
けれどもし、魅了の力がなければ。
こんな暗くて、気味の悪い私なんて、誰にも愛してもらえなかったのではないのか――。
頭の中がぐちゃぐちゃになり、体の芯は熱いのに、指先がやけにつめたい。
生まれた時から側にいてくれる守護聖獣だけは、信じられる。
それ以外は――それ以外の人たちは、友人だった者たちのように、ある日突然冷たい瞳を私に向けるかもしれない。
そう思うと息が詰まる。苦しくて、痛くて、怖くて。
立ち上がることさえできなかった。
「お嬢様、食事の支度ができました。それから、湯あみの支度も。お嬢様」
ルティナには侍女が多かったが、その中でも傍付き侍女としていつも一緒にいてくれたセシアナの声がする。
セシアナはルティナよりもずっと年が上で、兄妹に兄が一人しかいないルティナにとっては、姉のような存在だった。
気づかわし気なその声にふと人恋しさを感じて、ルティナはようやくのろのろと立ち上がる。
扉の傍まで足を進めて、それから異変に気付いて足を止めた。
体が竦む。恐怖に震える。
そこにあるのはただの扉のはずなのに、扉を開けることがおそろしい。
ドアノブに触れることが、どうしてもできない。
「せ、セシアナ……私……」
「お嬢様、お話はお聞きしました。私たちは、お嬢様の傍に六年間ずっといるのですよ。お嬢様が真面目で努力家なことをよく知っています。私たちに優しく、心根が善良だということを知っています」
扉の外から、大きな声でセシアナが話しかけてくる。
「もし魅了の魔法が私たちにかかっているとしても、それでいいのです。私たちはお嬢様に魅了をされていたいのです」
「でも」
「お嬢様はまだ六歳なのですよ? お嬢様に責任などありません。それに気づけなかった周囲の大人に、私たちに責任があるのです。だから、お嬢様は今まで通り、堂々と振舞っていてくだされば……」
「できないわ……っ」
その声が、言葉が、想いが優しいほどに。
ルティナの心は委縮してしまう。
まるで、責められているように感じる。人の心を操っている自分の罪を、眼前に突き付けられているような気さえする。
今はこんなに優しいセシアナが、豹変してしまったら。
よくも心を操ったと憎々し気にルティナを睨みつけて、ひどい言葉を投げかけてきたら。
「……ごめんなさい」
もう、部屋の外には出られない。
そこにはおそろしいものしかないのだ。部屋の中だけが、安全。
ここにいれば、もう誰も傷つけることはない。もう誰からも、傷つけられることはない。
「お嬢様、入りますよ!」
「え……」
「ルティ、入るぞ」
「え……!?」
諦めていなくなってくれるのかと思ったのに、セシアナと、侍女たちをひきつれたクオンツが入ってくる。
クオンツはルティナの二つ年上の兄である。父に似た黒髪と、父に似た金の瞳をした、どこか影のある美少年だ。
その中身も父によく似ている。人と話すよりも、書斎で本を読んでいる方が好きというような、物静かな少年である。
そのクオンツが、扉を蹴破るような勢いで中に入ってくる。
「セシアナ、皆、ルティに湯あみをさせろ。着替えさせて、食事だ」
「お、お兄様……」
「ルティ。私たち家族や、家の者を見くびるな。特に私や父は、お前と同じヴァレリーの加護を持っている。お前の魅了などはきかない。私や父は、母もだが、純粋にお前を大切に思っているのだ。侍女たちのことは気にするな。どのような感情を抱こうが、この者たちは給金を貰い働いている。金でつながった関係を信じろ」
「なんてことをおっしゃるのですか、坊ちゃん……」
セシアナや侍女たちがしくしく泣き始めるのを無視して、クオンツはルティナに手を伸ばした。
「お前が部屋にこもるのは勝手だが……まぁ、それはそれで悪い虫がつかなくていいとは思うが、最低限の生活はしろ。風呂には入れ。食事はとれ。本を読め。運動をしろ。お前はクワイエット公爵家の娘だ。役割からは逃げられない。分かったな」
「……お兄様、でも、私は……」
「セシアナ。ルティを連れていけ」
反論は許されていないようだった。
ルティナはいつものように侍女たちによって体を清められて、いつものように食事を食べさせてもらった。
食事の場には両親とクオンツもいたが、いつもと何か変わったという様子もなく――静かに、穏やかに、時間が過ぎていった。