4-09. お別れ
「メフィスト!」
背後からよく通る声が飛んでくる。その名を呼ばれて、反応したのは本人ではなく、グレーテルだった。
「ルシフェルさん!」
顔を上げかけたが、視界の端に広がる遥か遠くにある大地を見て、グレーテルは断念する。見ないように、そっとメフィストの肩口に額を押し当てた。
「ブルートガイヤーは、大丈夫だったんですか?」
風を切る音と、羽ばたく翼の音が会話をかき消していく。グレーテルは声を張って尋ねた。
「問題ない。それより、挨拶もなしに去るとは、ずいぶん薄情だな」
「仕方ないでしょ。こっちも神官に追われてたんだから。あの異端審問官と一緒にいた神官、俺たちが契約するところを見てたんだよ」
「悪魔だとバレていたのか」
メフィストは大きくため息をつく。
「……あいつら、王都に行くんだっけ?」
「そう言ってたな」
「王都はやめて、もう少し小さな地方都市にでも向かう?」
そう提案するメフィストに、グレーテルは黙って首を横に振った。
メフィストは、グレーテルの母のことを知らない。王都はただマティアスやウルリッヒと鉢合わせする可能性が高くなる場所でしかないのだ。
悪魔と魔女であることを伏せたがるグレーテルへの優しい提案。マティアスの話を聞く前であれば、その申し出に頷いていたかもしれない。でも、今は違う。
「メフィスト、あのね。私、やりたいことが出来たの」
はっきりと告げたグレーテルに、メフィストが目を瞬く。その声音にこもる真剣さを感じ取ったのか、いつものように茶化すこともなく、静かに続きを促した。
「話してなかったけど――私のお母さん。行方不明なの。ミルゼンハイムに神官様が来た日に、姿を消してそれっきり」
「……なるほど」
メフィストの返事は短かったが、グレーテルの言いたいことを理解したようだ。
「だから、王都の大聖堂に行きたいの」
グレーテルがじっとメフィストの闇色の瞳を見つめる。その瞳が、ふっとゆるく細まった。
「もちろん。君がそうしたいなら、俺は従うまでだよ」
隣で話を聞いていたルシフェルが、首を傾げる。メフィストは手短に坑道内でマティアスから聞いたことを伝えた。
ルシフェルは眉間にシワを寄せ、表情を険しくする。
「教会は、どうもきな臭いな。ウルリッヒ……だけじゃないな。異端審問官たちには、呪い入りのバッジを配っているようだ」
「神官はレムルを使役してたよ」
メフィストの言葉に、ルシフェルは「そういうことか」と低く呟いた。
「合点がいった。バッジの呪いはレムルを作り出すようなものだった」
「あはは、最悪だね」
グレーテルは会話を聞きながら、内容を頭の中で反芻する。もし、理解したことが正しいのであれば――。
「教会は、異端審問官をレムルにして……神官様に使役させてるの?」
口に出した瞬間、あまりにおぞましくて、ぞくりと背筋が冷えた。メフィストの首に回した手が、小さく震える。その震えを感じ取ったのか、メフィストが軽く笑ってみせた。
「推測でしかないけどね。王都の大聖堂を調べれば、何か分かるかもしれない」
「気をつけろよ。……とは言っても、メフィストがいるなら大抵のことは何とかなるか」
ルシフェルが忠告を口にするが、最期は軽く笑って肩を竦める。
不思議なことに、グレーテルも同じように感じていた。メフィストがそばにいれば、きっと大丈夫な気がする。力を貸してくれるのなら、母親だってきっと見つかる——そんな、根拠のない確信があった。
「では、私はアルタリオン様を探しに行くとするよ」
「見つかるといいですね」
「お前も、無事に母親が見つかるといいな」
ルシフェルは羽ばたき、グレーテルに近寄ると、ふいに手を伸ばす。節くれだった右手が、そっとグレーテルの頭を撫でた。
母親以外に頭を撫でられた記憶などなかったグレーテルは、驚いて固まる。けれども、その温かさに、心の中に安心感が広がったのも確かだった。
「最後の最後まで、俺の契約者様に粉かけるのやめてくれない?」
メフィストは言いながら、ルシフェルと距離を取る。抱えられているグレーテルも自然とルシフェルと離れた。
「まぁ、そう言うな。お前たちと一緒にいるのは、なかなか楽しかった。落ち着いたら、また酒でも飲もう」
「いいよ」
「即答だね?!」
躊躇うことなく頷いたメフィストに、グレーテルは思わず笑う。
「じゃぁ、またな」
ルシフェルはそう言い残すと、二人とは違う方向へ飛んで行く。その背をちらりと見送って、グレーテルは再びメフィストの肩口に額を埋めた。
風を切る音と、翼が羽ばたく音だけが響く。ルシフェルの声が聞こえなくなったことに、胸の奥が少しだけ空っぽになった気がした。
「……なんか、寂しいね」
そう零せば、メフィストが笑った。
「旅っていうのは、そういうものさ。そのうち、その寂しさも楽しめるようになるよ」
「そっか。……メフィストは、楽しむのが上手だね」
「あはは、お褒めに預かり光栄だね」
少しの沈黙のあと、グレーテルはふと口を開いた。
「…………私と一緒にいるの、退屈じゃない?」
ルシフェルと楽しそうにしていた姿を思い出し、気づけばそんなことを聞いていた。
メフィストはちらりとグレーテルを見て、ふっと笑みを深める。
「成人を待ってあげようと思うくらいには、楽しんでるよ」
「ほんと? ……よかった」
「契約破棄はしてあげないけどね」
からかうような口ぶりに、グレーテルの頬が思わず緩む。
「今はね、契約破棄したいって思ってないよ」
「へぇ。なんで?」
「メフィストと、もっと一緒にいたいって思ってるから」
言葉に迷いはなかった。素直にそう伝えれば、メフィストが押し黙る。闇色の瞳が、探るようにグレーテルを伺った。
「…………そう」
メフィストは短く返事をして、まっすぐに前を見つめた。




