2-09. 居場所がなくても
酒場の中は、奇妙な沈黙に包まれていた。
ヴェルトヴルフは退けられたというのに、歓声も安堵の吐息もない。人々はただ、グレーテルとメフィストを遠巻きに見つめていた。
その視線の重さに、グレーテルは所在なく目を泳がせる。言葉ひとつ発されない空間で、ただ木の床の軋む音だけが響いていた。
その中で、メフィストがゆっくりと振り返る。そして喉の奥でくつくつと笑いを漏らし、言った。
「ヴェルトヴルフを追い払った英雄に、礼のひとつもないのかい?」
冗談めかしたその言葉に、場が凍りつく。誰もがメフィストを見ていた。恐怖、畏れ、疑いの目で。
「嘘を……ついていたのか?」
沈黙を破ったのは、空き家を貸してくれた髭の男だった。その声は、怒りとも困惑ともつかない、沈んだ響きを帯びていた。
「故郷がヴェルトヴルフに襲われたって話……。魔法が使えるお前は、何者なんだ?」
問われたメフィストが、ちらりとグレーテルを見る。答えてもいいのか、と視線で問いかけているようだった。
グレーテルは迷った末に、小さく頷いた。――もう、これ以上嘘を重ねることはできない。
「悪魔だよ」
メフィストが答える。途端に、酒場の空気が強張る。ひぃっと息を呑む音があちこちから漏れた。
慌てて、グレーテルが言葉を被せる。
「あの、でも! 大丈夫です! メフィストは確かに悪魔だけど、悪いことに魔法を使ったりはしません! さっきだって、彼の力があったからこそ、ヴェルトヴルフを撃退できたんです! あなたを助けられたのも、メフィストの魔法のおかげなんです!」
最後の言葉は、アップルシュトゥルーデルをくれたあの女性に向けて投げた。けれど女性は憔悴しきった様子で、悲鳴を上げると後ずさった。
「魔女……」
ぽつりと漏れた女性の言葉に、どくんとグレーテルの心臓が跳ねた。その一言が引き金となったかのように、酒場の空気がざわめき出す。
恐怖が伝染し、酒場にいる人々が口々に「悪魔と魔女だ」と囁き合う。囁きはたちまち恐怖と偏見を帯びて広がり、グレーテルとメフィストを取り囲む。
誰一人として、グレーテルたちを庇おうとする者はいなかった。あれほど温かく迎えてくれたはずの村人たちは、今や二人を異物と見なしている。
グレーテルはゆっくりと目を伏せ、ポケットから空き家の鍵を取り出した。ただそれだけの動作にさえ、村人たちは怯えたように息を呑み、震え、後退りする。
髭の男に鍵を返そうと一歩踏み出したその瞬間、「近寄るな!」と、どこからか鋭い悲鳴が上がった。
グレーテルは立ち止まり、ゆっくりとしゃがみ込む。手にした鍵を床にそっと置き、静かに一歩、後ずさった。
唇を噛み締め、小さく頭を下げる。
「あの……嘘をついてて、ごめんなさい。それから、優しくしてくれて、本当にありがとうございました」
その声は微かに震えていた。そして、グレーテルは顔を上げ、隣に立つメフィストを見て、言う。
「……行こう」
これ以上、この村に自分たちの居場所はない。その現実を、グレーテルは否応なく理解していた。
◆
グレーテルは肩を落とし、とぼとぼと村道を歩いていた。その隣を、メフィストが無言のまま並んで歩く。
まだ日が高く、空は晴れているというのに、あたりには人の気配も、音もなかった。風さえ息をひそめたように、世界は沈黙していた。
「本当は――ちょっとだけ期待してたんだ」
グレーテルが囁くように、ぽつりと零す。
「魔物から守るために魔法を――メフィストの力を使ったから、村の人たちは感謝して、受け入れてくれるんじゃないかって」
メフィストは答えない。何も言わず、ただ静かに、グレーテルの言葉を受け入れる。
「そんなこと……なかったね」
握った拳で、ごしごしと目を擦り、大きく深呼吸をした。そうでもしないと、涙が溢れそうだった。
「やっぱり、悪魔と魔女って心証悪いのかぁ」
諦めるように、グレーテルは空を見上げる。高い秋空の澄んだ水色が目に痛い。
隣にいるメフィストはその様子を見て、くつくつと喉の奥で笑った。
「気に入らないなら、村を焼き払ってきてあげようか?」
「私の話、聞いてた?!」
さらりと恐ろしい発言をする悪魔に、グレーテルは目を見開く。慰めの言葉もなく、唐突に復讐を提案してきた。
「助けてやったのに、あの恩知らずども。そう思わない? 俺は思うけど」
「え、でも、ヴェルトヴルフが村に来たのは、私たちの嘘のせいでもあるし……。それに、食事とか日用品とか恵んでもらってたんだから、どちらかと言えば、恩を返さないといけないのは私たちでは……?」
ぶつぶつと考え込むグレーテルに、メフィストは軽い調子で笑った。
「あはは、人生は楽しまないと。他人の目を気にしている暇があるなら、もっと自分と見つめ合うべきだね」
自分と見つめ合う。どういうことだろう、とグレーテルは訝しげにメフィストを見つめる。
「君のやりたいことは何? 好きなことは? 楽しいと思うことは? 俺の力を使えば、何でも叶うのに。今までしたことと言えば、家事と魔物退治だけ」
そう言って、メフィストは長い人差し指でグレーテルの額を軽く小突いた。
「あんまり退屈だと、さっさと魂貰っちゃうよ」
「それは困るっ!」
グレーテルは額を擦りながら、思わず声を上げた。
「やりたいこと、ちゃんとあるよ!」
「へぇ、何?」
「メフィストとの契約破棄!」
「却下」
にべもない返答に、グレーテルは小さく笑う。さっきまでの沈んだ気持ちは、いつの間にかどこかへ消えていた。
――なんだかんだ言って、メフィストとは、案外うまくやっていけるかもしれない。
そう思いながら、グレーテルはまっすぐ前を見つめた。




