2-08. わん
さすがの悪魔でも、丸腰でオオカミの群れに勝てるほどの強さはないらしい。
メフィストのいい笑顔に、それ以上無理を言うことも出来ず、グレーテルは口をつぐんだ。
「君こそちょっと祈ってみてよ」
ふいにそう言われて、グレーテルは首を傾げる。
「私が祈ったからって、どうにかなる?」
「ヴェルトヴルフを木っ端微塵にできるかもしれない」
「メフィストが肉弾戦に臨むほうが、よっぽど確実だと思うけど……」
冗談で場を和ませようとしているのか、それとも本気なのか。グレーテルはメフィストの顔をうかがったが、読み取れるものは何もなかった。
「一応、やってみるけど……」
そう小さく呟いて、グレーテルは手を組む。目を閉じて、祈りを捧げる。メフィストは真剣な表情で、その様子を見つめた。
(ヴェルトヴルフが、木っ端微塵になりますように)
心の中でそう念じてから、グレーテルはそっと目を開け、手を解いた。すぐ隣で、メフィストの視線が窓の外に向いているのに気づく。
グレーテルもつられて外を覗いた。先ほどよりも近づいてきたヴェルトヴルフの群れは、木っ端微塵どころか、変わらぬ勢いでこちらに向かってきている。
「駄目か」
メフィストが落胆する。
「逆になんでいけると思ったの?!」
グレーテルは思わず突っ込んだが、メフィストはまるで聞いていない。顎に手を当て、真剣な顔で考え込んでいる。
(力が消えたのか、それとも使えていないだけなのか……判断がつかない。いっそ魂を刺激して、前世の記憶を呼び起こすほうが手っ取り早いか?)
黙っているメフィストに声をかけようとした、その時。隣の窓を覗いていた村人が、突然声を上げた。
「おい! あれ! おかみさんじゃないか?!」
ハッとしてグレーテルが顔を上げ、窓の外に目を向ける。そこには、アップルシュトゥルーデルをくれた女性が、必死の形相でこちらへと走ってくる姿があった。
けれど――そのすぐ背後には、ヴェルトヴルフの影が迫っている。
酒場までは、もう間に合わない。それは誰の目にも明らかだった。
背後で、誰かが声にならない叫びを上げている。助けようと、扉を開けようとする者。それを「間に合わない」と止める者。
錯綜する叫びと混乱の中、グレーテルの頭の中が、スッと冷えていく。
(――たとえ、正体がばれたとしても)
ぐっと拳を握りしめる。
(親切にしてくれた人たちを、見捨てたくない)
グレーテルはメフィストに向き直り、まっすぐにその瞳を見据えた。そして、決然とした口調で告げる。
「外にいる、あの人を助けて! 魔法を使っていいから!」
メフィストは唇に弧を描く。闇色の瞳が愉しげに細められた。
「了解」
ぱちん、と指先が軽やかに弾かれる音が響いた。その瞬間、外にいたヴェルトヴルフの足元から影が立ち上がり、その身体を絡め取る。
メフィストは悠然とドアへ向かい、その近くに立っていた村人を軽く押しのけると、何の躊躇もなく扉に手をかけた。
「おい、何を――」
止めようとした男に、メフィストはくるりと振り返り、妖艶な笑みを浮かべ、人差し指をその唇に押し当てる。
「静かに。邪魔しないで」
そして男の前から指を引くと、今度は親指と中指、薬指の指先を合わせ、人差し指と小指を立て――まるで犬の顔のような形を手で作って見せる。
場の空気が凍りつく。誰もがその意味を測りかね、息を飲んだ。
メフィストの唇が薄く開く。
「わん」
その声と同時に、メフィストの右手から黒い影がうねるように飛び出した。ヴェルトヴルフよりも一回り大きな、影でできた獣。飛び出した影の獣は、敵へと向かって疾走する。
「あはは、契約者様の望み通り、あの野良犬どもを血祭りにあげてやろう!」
「言ってない! そんなこと一言も言ってないから!」
村人たちが聞いてる手前、グレーテルは少しでも心証を良くしようと必死に弁明する。
酒場の外では、影の獣がヴェルトヴルフの群れに襲いかかっていた。黒い牙が唸りを上げ、次々と敵に食らいついては蹴散らしていく。ヴェルトヴルフたちは悲鳴のような唸り声を上げて、散り散りになっていく。
村人たちは呆然とその光景を見つめていた。
明らかに異常な、魔法としか思えない力から生まれた影の獣が、ヴェルトヴルフをものともせず暴れまわっている。誰もが言葉を失い、ただその場に立ち尽くしていた。
影の獣が吠え猛る中、駆けてくる女性の姿がはっきりと見えた。スカートの裾を乱し、必死に走る彼女のすぐ後ろでは、残ったヴェルトヴルフが最後の牙を剥いて追いすがっている。
それに気付いたドアのそばにいた男が、反射的に手を伸ばす。次の瞬間、女性がその腕に飛び込むようにして、無事に酒場の中へと転がり込んだ。
「はぁ……はぁ……あ、あの化け物は……?!」
倒れ込んだまま涙を浮かべる女性の背後で、影の獣が咆哮を上げる。村人たちは恐れをその顔に浮かべ、身体を丸めた。
影の獣は、残ったヴェルトヴルフに一気に飛びかかり、影を絡めてその身を切り裂いていった。叫ぶ間もなく、狼たちは次々と倒れ込み、その姿を枯れ葉に変え散っていく。――魔物の遺体は残らないのだ。
先ほどまで聞こえていた、怒声のような咆哮があっという間に止む。しばらくして、外からは風の音だけが聞こえるようになった。
影の獣はヴェルトヴルフを蹂躙した後、しばしその場に佇んでいたが、やがて主のもとへと戻るように、煙のようにゆらりと溶けて消えた。
「……終わったのか?」
誰かがぽつりと呟いた。まだ誰も確信が持てず、戸の外を窺うように息を潜めている。
静寂が、村を包んでいた。
ヒロインより先に村のおじさんに色仕掛けする悪魔




