2-07. 魔法は使えないので
村の入り口に飾るための花冠を手に、グレーテルとメフィストは外へ出た。
「村の人に許可を貰わないと」
「必要? 黙って引っ掛けとけばいいじゃない」
「それはさすがに角が立つと思う……」
グレーテルは花冠を抱えなおす。
喜んでくれるといいな――そう思いながら、のんびりとした足取りで村道を進んだ。
秋空は高く澄みわたり、爽やかな風が頬を撫でる。陽射しはやわらかく、気持ちの良い気候だ。道の脇のコスモスも、楽しげに揺れている。
「そろそろ、仕事を始めないとね。メフィストは力仕事にするの?」
「………………………」
返事がない。隣にいるのはメフィストの形をした屍だったようだ。
確かめるまでもなく、嫌がっている。とはいえ、村に住む以上、食べ物や日用品をずっと恵んでもらうわけにはいかない。
メフィストは大仰にため息をついた。
「労働なんてものは、人生に最も必要ないものだ」
「いや……働かないと生きていけないけど……」
「俺がいれば、あらゆる快楽と享楽だけ味わって生きていけるよ」
突然、悪魔っぽさを剥き出しにしてくる。とはいえ、ここ数日でそういった部分にも少しずつ慣れてきた。おそらく、根本的に人間とは考え方が違うのだろう。
「毎日遊んでても、飽きちゃいそう」
マルタやシーベルと連れ立って、おしゃべりしたりピクニックしたりした日々を思い出しながら、グレーテルはそう呟いた。すると、メフィストが珍しく鼻で笑う。
「まだ酒の味も知らないくせに、遊びを語らないでほしいね」
「じゃぁ、メフィストの言う遊びって、どんなことなの?」
お酒を飲むことが遊びなのだろうか? グレーテルが無邪気にたずねると、メフィストはにやりと口角を吊り上げた。そして、ずいっとグレーテルの顔を覗き込む。
「知りたいなら、悪魔流の楽しみ方を教えてあげ――」
「おいっ! あんたら!!」
遮るように、怒鳴り声が飛んできた。メフィストは一気に白けたように口をつぐむ。前方から、農具を担いだ若い男が、息を切らしながら駆けてくる。
「建物の中に逃げろ! ヴェルトヴルフだ!」
怒号が響いた瞬間、メフィストの纏う空気が一変する。乱暴にグレーテルの腕を掴むと、くるりと身を翻した。
「あっ!」
その勢いで、グレーテルの手から花冠が飛び出し、コスモス畑の中へと沈んでいく。拾おうと手を伸ばしかけたグレーテルを、メフィストがぐいと引き戻した。
「それは後でいいから。先に避難を」
「で、でも……」
迷うグレーテルに、メフィストは低い声で言い放つ。
「俺が魔法を使っていいなら、一瞬で片はつく。けど、それだと君は村から出ていく羽目になるよ」
メフィストの言う通りだった。魔法は人間のものではない。今ここで魔法を使えば、メフィストはもちろん、グレーテルの立場すら危うくなる。
グレーテルはおとなしくメフィストに従い、駆け出す。ここから一番近い建物は、最初にこの村を訪れた日に足を踏み入れた酒場だ。
途中でちらりと後ろを振り返る。農具を手にした男が必死に走るその背後、さらに遠くには、茶色い枯れ葉のような毛並みをしたオオカミの群れが迫っている。その足元には踏み散らされ、無残に枯れ果てたコスモスの残骸――あれが、ヴェルトヴルフ。
「でも、なんで、村の中に……? まじないもあったのに……」
「俺たちの話を聞いて、この村の人間たちがヴェルトヴルフの群れに襲われるかもしれないと不安を抱いたんだろう」
「それだけで?」
「そう思えば、そうなるんだよ」
メフィストがちらりとグレーテルを見やった。
「魔術の根幹は人間の思想だ。入り口のまじないの効力より、ヴェルトヴルフの襲撃への不安が上回ったんだ。…………もっと早く走れない?」
「む、むりっ……!」
そう答えた途端、浮遊感がグレーテルを襲う。次の瞬間、腹部に強い圧迫感を感じた。
「ぐぇっ……!」
「あはは、またその声」
どうやら、メフィストの肩に担ぎ上げられたようだ。グレーテルは苦しげに上体を起こそうとする。少しでも圧迫を和らげようと、必死に両腕でメフィストの背や肩を押し、体を支えた。
「メフィスト、今度からは……もうちょっと違う運び方で……」
「考えとくよ」
軽く返すその声には、まるで改善する気が感じられない。
グレーテルが呻いている間にも、メフィストは迷いなく村道を駆け抜ける。遠くから響く唸り声に遠吠え――ヴェルトヴルフの接近が、刻一刻と迫っていた。
「見えたよ」
メフィストが視線を向けた先に、木製の看板が揺れる小さな建物がある。酒場だ。昼間は人の出入りも少ないが、ヴェルトヴルフの報せを聞きつけたのだろう、数人の村人がすでに中へ駆け込んでいる。
メフィストは扉を開けて中に入ると、膝を折ってグレーテルを下ろした。すぐ後ろからは、農具を担いだ若者も駆け込んでくる。どうやら、間一髪、追いつかれずに済んだようだ。
「た、助かった……?」
息も絶え絶えにグレーテルが尋ねれば、走っていたはずのメフィストは、涼しい顔で肩をすくめた。
「どうだろうね。あの群れがこの扉に突っ込めば、簡単に突破される。万が一助かったとしても、コスモス畑は壊滅だし、周辺の作物も枯れるだろうね」
「そんな……」
「フローリヒトの天敵だよ、ヴェルトヴルフは」
部屋の中にたくさん花を落としていってくれた、ぼんやりと光る姿を思い出す。あの穏やかで優しい存在を、そしてフローリヒトと共存している村を――壊されたくない。
ふと周囲を見回すと、不安そうな顔の村人たちが身を寄せ合っていた。親切にしてくれた人々、受け入れてくれた場所。守りたいという思いが胸に芽生える。
グレーテルは意を決して、メフィストを見つめる。闇を湛えた瞳と視線が交差した。
「ヴェルトヴルフの群れ、追い返せる? …………肉弾戦で」
一瞬の沈黙ののち、メフィストは目を細め、にっこりと笑った。
「それってつまり、死んでこいってこと?」
滅相もないです。




