2-01. 木っ端微塵になりますように
エルゼリヒト王国には、東西を分かつように、中央にブロッカルト山脈が横たわっている。標高が高く、地形も険しいため、東西を行き来するには、隣国との国境近くを回る迂回路を使うのが一般的だった。
「飛べばすぐだけど、西側に行く?」
隣を歩くメフィストに、グレーテルは弱々しく首を横に振った。
これから冬が来る。ミルゼンハイムのある東部とは違い、西部は雪が深く厳しい土地だと聞く。何の知識も備えもなく向かえば、野垂れ死ぬが関の山だろう。
そして、何より――もう飛びたくない、という気持ちが強かった。時間にすれば、空を飛んでいたのはほんの数十分だったかもしれない。だが、吐き気と恐怖に苛まれたあの旅を、ブロッカルト山脈を越えるまで続けるなんて、想像しただけで、気絶しそうだった。
ゆっくりと歩きながら、グレーテルは目を擦る。今は何時ごろだろうか。マティアスとレムルに連れ去られそうになった出来事が、まるで遠い昔のことのように思える。
(マルタの家に泊めて欲しいって、お願いしちゃったのにな……)
マルタとシーベルのことを思うと、グレーテルの気はますます重くなった。
突然姿を消した自分のことを、きっと心配しているだろう。しかもマルタには、悪魔のことまで話してしまっている。悪魔が関わって何かあったと考えるのは、当然のことだ。
(……シーベルが神官様の宿舎にいたのは、多分、レムルに女性と間違えられたせい)
天使にするために女性を攫う――それがマティアス個人の独断によるものなのか、それとも教会ぐるみの行為なのか。グレーテルには、まだ判断がつかなかった。
「メフィスト。天使にしてもらえる、ってどういうことか分かる?」
マティアスは言っていた。『解体して、くっつける』と。何をバラすのか、想像もしたくないが。
問いかけに、メフィストは「さぁ?」と言って、肩をすくめた。
「俺は教会の事情にはあんまり明るくないから、なんとも。まぁ、あの言い方だと、ろくなことではないと思うけどね。天使を人為的に作って、教会の権威を高めたいとかそんなとこじゃない?」
「あの神官様の個人的な事情で、とかは…」
「それはないね」
メフィストは、はっきりと断言した。
「レムルの指輪。あれは、個人でどうこう出来る代物じゃない。一介の人攫いが持っているのは不自然だ。最低でも、組織的な後ろ盾があるはずだろうね」
「教会以外の組織とか……」
「天使なんて言葉を出した時点で、ほぼ教会で確定じゃない?」
教会が何か後ろ暗いことをしているかもしれない。――その事実はグレーテルの肩に重くのしかかった。
これまでは、悪魔や魔物に関わる厄介ごとは、教会に頼ればどうにかなる。そう信じて疑わなかった。
けれど今、もし、教会の門を叩いて「悪魔と契約しちゃいました」と打ち明けたら、助けてもらえるどころか、自分が『天使』とやらに作り変えられてしまうかもしれない。悪魔のことは、自分でどうにかするしかなさそうだ。
(あの時は、助かりたい一心で……。勢いで契約するって言っちゃったけど、やっぱり後悔してきた)
グレーテルはそっと、メフィストに尋ねる。
「契約破棄って……出来たりする?」
メフィストはちらりとグレーテルを見ると、にっこりと笑った。
「無理」
取り付く島もない。
「だよね……」
はぁ、とグレーテルは肩を落として、大きくため息をついた。
その様子に、メフィストはくつくつと喉の奥で笑う。
「随分、悲観的だね。自由に使える力を手に入れたんだから、もっと喜べばいいのに」
「今のところ、縄を切ってもらったのと、空飛んで酔ったことくらいしか体験してないから……」
暗い夜道を、月明かりがぼんやりと照らしている。道の脇には、ぽつぽつとコスモスが咲いていた。
ふと顔を上げると、正面に松明の明かりが見えた。
集落の入り口なのだろうか。道を挟んで二本、木の杭が地面に打ち込まれている。その杭には、ヒイラギの葉で編まれたリースが飾られていた。リースのあちこちに、コスモスの花が添えられている。
「魔除けのリースに、コスモス? かわいい」
ヒイラギだけじゃ味気ないから――誰かがそう思って飾ったのだろうか。グレーテルは、ふふっと笑みを浮かべた。
だが、次の瞬間、あることに気付いた。
「魔除け……。もしかして、メフィストは村に入れない?!」
「ものすごく嬉しそうな顔をしてるところ悪いけど、入れるね」
あまりにも表情に出ていたのだろう。グレーテルは慌てて頬を手で揉みながら、笑ってごまかす。
「入れないなら、引き剥がせるかなぁって思ったんだけど……」
「残念。これくらいの魔除けは悪魔には効かな――そうだ」
メフィストは急に何かを思い出したのか、唐突にグレーテルの肩を押し、ヒイラギのリースの前へと立たせる。
「え、ちょっと、なに?」
わけがわからず立ち尽くすグレーテルは、後ろを振り返り、メフィストを見上げた。メフィストは、にんまりとした笑みを浮かべている。
「祈ってみて」
「……えーっと、祈る?」
「そう、このリースに向かって、悪魔が集落に入ったら木っ端微塵に吹き飛ぶように、祈ってみて」
「そんな物騒なこと祈るの?!」
それは祈りとは何か違う気がする。むしろ、呪いじゃないだろうか?
グレーテルはしぶしぶ両手を組み、目をつむる。
(悪魔がこのリースより先に入ったら、木っ端微塵に吹き飛びますように)
一拍おいて、そっと目を開け、手を解いた。振り返って、グレーテルは小さく言う。
「祈ってみたよ」
「さて、効果のほどはどうかな」
躊躇いもなく一歩を踏み出そうとするメフィストに、グレーテルは慌てて声を上げた。
「ま、待って! 本当に木っ端微塵になったら、すごく後味悪いんだけど……!」
「その時は、化けて出てあげるよ」
軽くひらひらと手を振りながら、メフィストは杭の間をすたすたと進んでいく。
――何も、起きなかった。
グレーテルは、ほっと胸を撫で下ろす。だが、一方で、メフィストは至極残念そうな表情をしていた。
「やっぱり駄目か」
「そんなに木っ端微塵になりたかったの?」
「今回に限って言えば、そうなった方が嬉しかったね」
「えっ……」
表情を引きつらせるグレーテルを横目に、メフィストはじっとリースを見つめた。その闇色の瞳に一瞬だけ、探るような色が浮かぶ。
(やはり、ただ祈るだけでは意味がない? 何か条件があるのか……? それとも、力が失われているのか……)




