地底蛸パイとドラゴンロースト 1
――誰かに呼ばれた気がして、深い湖の底からゆっくりと浮上するように目を覚ました。
こんこん、と遠慮がちに扉をたたく音が聞こえる。
朝の柔らかい光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
私は随分と眠っていたらしい。
夢を見た気がするけれど、それがどんな夢だったのか思い出せない。
ただ、寂寥感に似た切なさが胸の底に溜まっている。
目尻ににじんだ涙を拭うと、そろそろとベッドから足を降ろした。
起きている事を扉の向こう側に告げる。
開いた扉から顔をのぞかせたのはルーファスだった。
「お嬢様。昨日は夕食も召し上がらずにずっと眠られていて、心配しました。もう、体は大丈夫ですか?」
「えぇ、特に問題はないわ。私、そんなに寝ていたの?」
「はい。実技訓練場に、赤玉ドラゴンが出てお嬢様が襲われそうになったとお聞きしました。ストライド様とレオン殿下が討伐したとか。お嬢様にお怪我はなかったようですが、どうやら意識を失われたようですね。ストライド様と魔法の練習もしていたのでしょう? 魔石から魔力を抜き出して魔法を使うという行為は、集中力を要しますので、疲れもあったのでしょう」
「そうなのかしら……」
私は働かない頭で昨日の事を思い出す。
意識を失った理由があまりにも馬鹿げた理由で、居たたまれなくなり頭を抱えそうになった。
ルーファスは心配してくれているけれど、疲れから気を失ったわけではなくて、グレイ先生の色気に負けたのである。羞恥心が臨界点を突破して倒れたのだ、私は。
――全く、何をしているのかしら。
あれぐらいのことで。
あれぐらいの、あれぐらい――なんかじゃ全然ない。
今日からどんな顔で、オスカー様やレオン様に会えば良いのか分からない。
人前で太腿をさらけだした挙句、グレイ先生に触らせるなど、淑女の風上にも置けない行動だ。
淫らな女として嫌悪されても仕方ない。
少し前の私は、裏庭で歓談しているレオン様とコゼットについて怒っていたけれど、私の淫らさといったらそれどころの騒ぎじゃない。
ルーファスがいなければ、奇声をあげながらベッドの上を転げまわりたいぐらいだ。
「レオン殿下と、グレイ先生は実技訓練場の調査についての話し合いがあるとかで、ストライド様がお嬢様をここまで運んできてくださいました。とても礼儀正しい方ですね、ストライド様は。私は事情をお聞きするまで、そんなことがあったとは知らず、申し訳ありません」
「良いのよ、ルーファス。寮から実技訓練場までは離れているし、ルーファスもずっと私の傍にいる訳ではないのだし」
「ですが……。……お嬢様、朝食の支度が出来ておりますよ。起きられそうですか?」
ルーファスは苦し気に何かを言いかけて、それからいつものルーファスに戻った。
私は無事だし、自責の念を抱かなくても良いのだけれど、そのことについてはこれ以上触れられない雰囲気を感じたので、何も言う事はできなかった。
本当は、何か声をかけるべきなのだろうけれど、何を言っていいのか私には分からない。
ルーファスは私にとっては、十分すぎる程有能な執事だ。
私の執事として一緒に学園に居てもらうのが、本当は申し訳ない。レミニス家に居れば、沢山の仕事を任せられるぐらいの能力があるのだろうにと思う。
私の世話係なんて、つまらない仕事なのではないかしら。
今まではそんな事を気遣う余裕など私には無かったのだけれど、マリアンヌと話すようになって心の余裕ができたせいか、今はふとそう思う時がある。
そういえば、マリアンヌの声がしない。
まだ朝早いので、きっと寝ているのだろう。
「ありがとう。夕食を食べていないからかしら、お腹が空いたわ。それから、学園に行く前にお風呂にも入れると嬉しいのだけれど……」
「準備してありますよ。今日は、授業はどうしますか? お嬢様の成績であれば、一日ぐらいは休んでも問題ないのでは?」
「ルーファスは、このところ毎朝私に休むように勧めるわね。私は病弱というわけではないし、大丈夫よ? でも、心配してくれて嬉しいわ」
昨日かその前の日か、同じようなやりとりをした気がする。
昨日の事を思い出して落ち込んでいたけれど、やっと気分が晴れてきた気がした。
笑い声をあげてしまったので口元に手を当てて誤魔化して、私はベッドから立ち上がる。
ルーファスが手を引いて起こしてくれた。着ていた制服は脱がされて、足元まで覆う絹製の長い寝衣に着替えている。
そのまま手を引かれて、リビングへと向かった。
いつもは紅茶と焼き菓子一切れぐらいしか食べないのだけれど、昨日の昼から何も食べていない私を慮ってか、食卓の上にはパンとサラダと柔らかそうに焼きあがった卵が準備されている。
いつも以上に美味しく朝食を食べて紅茶に口をつけながら、私は傍に控えているルーファスを見上げた。
「ルーファス、お兄様の腕輪についてなのだけれど」
「はい、お嬢様」
「魔法を使ったあと、失った魔力を、新しい魔石から勝手に吸収するようなの。そういった道具というのは、他にもあるのかしら?」
「魔石が使用されている道具は、基本的には消耗品、使い捨てです。使用回数は様々ですが、永遠に使える訳ではなく、魔力を失えば取り換える必要があります。私やグレイ先生のような魔族が持つ魔力も無尽蔵ではありません。使用しただけ失い、休息と回復が必要になります。それと同じですね。魔石は魔力を失えばただの石になり、砂のように崩れて消えてしまう事は知っていますね?」
「えぇ、知っているわ。魔石が使用された道具……、例えば、魔石ランプとか、安定した火力を常に保てる魔石コンロなどは、定期的に買い替える必要があるから、庶民の方々はあまり使用しないのよね」
「そうですね。燃料としては、石炭や竹炭、石油オイルの方が安価ですから。魔石を使用した道具は便利ですが、高価です。加工にも技術が必要ですからね。……ソルト様の趣味が安定して供給できる道具になるとするのなら、将来流通する見込みはあるでしょうが、魔石自体が高価ですし、そもそもの仕組みが分かっていないので、どうでしょうね。……例えば、魔物が消えてしまったとします。手に入らなくなった魔石を欲した人々が、魔族狩りをはじめないとも限りませんしね」
「そんな酷い事はしないわ」
淡々とルーファスが言った言葉に、私は首を振った。
ルーファスやグレイ先生は魔族だけれど、種族が違うと言うだけで同じ人だ。
それを狩るだなんて、とんでもない。
「我々魔族は、命を終えると魔石になります。高位魔族ともなると、死ねば強い魔物よりもずっと強大な魔力を持った魔石になる。魔石が簡単に手に入らない世界になったとしたら、もしかしたら、狩りの対象になるのかもしれないと思ったんですが、……申し訳ありません。お嬢様、余計な事を言いました」
「……ルーファス、……そんなことになったら、私が、絶対にあなたを守るわ。ルーファスはレミニス家の大切な執事よ。お兄様だって、黙ってみている訳がないわ。魔石が趣味のお兄様だけれど、残酷な方ではないもの、多分……」
途中で自信がなくなって、声がすこし小さくなってしまった。
お兄様の事は良く分からない。もしかしたら自分の研究のために率先して魔族狩りをするかもしれない。そうではないと、信じたいけれど。
「ありがとうございます、お嬢様。大丈夫ですよ、羽も角もない魔族ですが、こう見えて私も結構強いのですよ? ただの想像でお嬢様の気持ちを沈めてしまいましたね……。ソルト様の作った腕輪が完成品だったことを、喜ぶだけで良かったのに。今の話は、忘れてください」
「あり得るかもしれない未来の話だもの。心に留めておくわ。……それでね、ルーファス。お兄様の作った、魔晶石と言ったかしら、この腕輪がとても凄い物だとしたら、私が持っていても良いのかしらと、思って」
「良いと思いますよ。量産できるわけでもなく、まだどれ程の性能があるのかも未知数です。完全にソルト様の趣味の産物なので、絶対に悪用しないお嬢様の手にあるのは正しいと、私は思いますよ」
「腕輪を悪用するの?」
「これも、例えば、の話です。あまり深く考えず、お嬢様の護身用の道具として扱うのが丁度良いかと思います」
ルーファスはそれ以上の事は言及せずに、入浴するようにと促した。
授業の始業時間が近づいて来ていたので、私も素直にそれに従った。
腕輪は私の腕にぴったりと嵌っている。
お兄様に返した方が良いかとも思ったのだけれど、ルーファスからはそのような提案はなかったし、考え過ぎない方が良いのかもしれないと思いながら、温かいお湯のたっぷり張られた浴槽へと身を沈めた。
お風呂に入りながらマリアンヌの事を考えたのだけれど、声が聞こえる事は無かった。




