マリアンヌちゃんとの邂逅
――見慣れない窓の外に、きらきらとした星空が輝いている。
私の見知った窓ではなくて、建物の壁全てが窓になってしまったような、不思議な作りの部屋だ。
星空だと思っていた景色は、窓の下に見える。
窓の上にあるのはどんよりとした暗い闇を煮詰めたような空だった。
一体ここはどこなのだろう。
窓の外から視線を外した私は、自分の手のひらの形を確かめる。
いつも通りの形の手。
きょろきょろと自分自身を確認してみると、いつもの身に馴染んだ制服を着ていた。
私の自室三個分ぐらいの部屋には、小さくて足の長いテーブルと椅子が並んでいる。
それはどこか学園の食堂に似ていた。
天井には華奢な作りのランプがいくつか吊り下げられていて、側面には様々な瓶の並んだカウンターがある。
カウンターの奥には誰かいるようだけれど、顔が見えない。
すらりとした細身の男性で、ルーファスがいつも着ている執事服に似た、黒と白の見慣れない制服を身につけている。
「……ここは、どこ?」
確か私は、実技訓練場に居た筈だ。
オスカー様と魔法の実技訓練をしていて、そこにどういうわけか赤玉ドラゴンが現れた。
襲われそうになった私を、オスカー様とレオン様が助けてくれて、その後やって来たコゼットがドラゴンの肉を抱えて、明日はドラゴンローストを一緒に食べようと言っていた。
それからグレイ先生が来て、オスカー様やレオン様の目の前であまりにもあんまりな姿を見せてしまった私は、意識が遠くなった――ところまでは覚えている。
その後、どうなったのだろう。
意識を失ったからといって、まさかそのまま天に召された、というわけではないと思うけれど。
でも、そのまさかだとしたら。
私の目の前にいる、顔の見えない方は、父なる神クロノス様ということにならないだろうか。
「クロノス様……?」
まさか、そんな。
目の前の方がクロノス様だとしたら、あり得ないほどに不敬な態度をとってしまった。
慌てて床に膝をつこうとした私に、驚いているようでいてとても楽しそうな声が聞こえた。
「違うわよぉ、あたしよ、あたし。こんばんわんこ蕎麦~、アリスちゃんの守護天使、マリアンヌちゃんの登場よ~!」
目の前の男性、と思しき方は、体を奇妙にくねらせながらそう言った。
驚きに目を見開いた私は、マリアンヌの顔を見ようと必死に目を凝らした。
けれど、どんなに近づいても目を細めても大きく見開いでも、その首から上だけは闇色の靄がかかってしまい見ることはできなかった。
「マリアンヌちゃん、マリアンヌちゃん……!」
それでも傍に近づきたくて、私は黒くて艶々した不思議な素材でできたカウンターに手をかけて、マリアンヌの方向に身を乗り出した。
彼女の声は、頭の中ではなくて直接耳に聞こえているように思われた。
――マリアンヌが目の前にいる。
奇跡のような状況に、私は涙が目尻に溜まるのを感じた。
身を乗り出す私を宥めるように、マリアンヌの手が馬を落ち着かせるような仕草で私を宥める。
「どうどう、アリス。落ち着きなさい。興奮するのは好きな男に対してだけにしておきなさいよ。あたしはあんたにぐいぐいこられても、喜ぶ程変質者じゃないのよ。アリスちゃんは、まだ十六歳のお子ちゃまだもの」
「マリアンヌちゃん、お会いしたかったです……! まさか本当にこうして話せる日が来るなんて思いませんでしたわ……!」
「そうねぇ、ってことはそろそろ時間切れなのかしらねぇ……」
「時間切れ……?」
「こっちの話よ。あたしも、アリスちゃんがここに来るなんて思わなかったわよ。今日は客が一人も来ないわね~、って思ってたとこなんだけど、あんたが客だったのね」
「お客さん、ですか……。確か、マリアンヌちゃんは、帝都のニューシンジュクの、バーテンダーだとか」
「よく覚えてたわね、賢いわ~! 賢い良い子のアリスちゃんには、オレンジジュースをあげちゃうわ」
座るように言われたので、私はマリアンヌの目の前の足が長くて座面の小さい、座り難い椅子に座った。
座面がくるくる回る作りになっている丸椅子で、少し体をずらすと座席が揺れるせいでどうにも落ち着かない。
ここがマリアンヌの世界だとしたら、随分不自由な作りの家具だなと思う。
こちらの世界の方々は、椅子が小さくて背が高い方が好きなのだろうか。
背凭れがないので、グレイ先生のような羽持ちの方々にとっては良いかもしれない。
もしこれが夢の中で、目覚めることができた時に覚えていたら、教えて差し上げようと思う。
マリアンヌは背後の瓶の並んだ棚の下の方にある白い箱状の収納から、橙色の液体が入った瓶を取り出した。
グラスに注いで私の前にことりと置いた。
透明なグラスの中に、橙色の液体が揺れている。オレンジジュースは私の国にもある。オレンジを絞ったジュースで、砂糖が入っていてやたらと甘ったるい。
ここは夢の世界のような気がするのだけれど、飲み物を飲むことはできるのだろうか。
訝しく思いながらグラスに手を伸ばして、口につけて傾けた。
清涼感のある甘酸っぱい液体が、口に広がって喉の奥に流れていくのがわかる。
きちんと味がするのが、とても不思議だった。
「マリアンヌちゃん、美味しいです!」
「可愛いわねぇ、素直よねぇ……。あんたはあたしが見てるアリスちゃんそのままだけど、あたしの姿を見て、なんか感想は?」
「男性に見えますけれど、マリアンヌちゃんはマリアンヌちゃんなので、特にこれといって」
私はマリアンヌのことを女性だと思っていたのだけれど、顔の見えない目の前の方の体つきは、明らかに男性のものだ。
骨が浮き出た手は、若い男性を連想させる。
とはいえ、私にとって大切なのはマリアンヌの容姿ではないので、感想を求められても特にはない。
あえて言うべきことがあるとするのならば。
「お会いできてとても、嬉しいです。生きていて今が一番幸せです。マリアンヌちゃんが、私の目の前にいるだなんて……!」
「男なのか女なのかはっきりして欲しいですわ~! とか、言わないの?」
「些少な問題ではないでしょうか……。容姿なんて、いくらでも変えられますもの。私の悪役縦ロールと同じで。髪型を変えたので、私はもう悪役には見えなくなりましたでしょう? それと一緒ですわ。でも、本当はマリアンヌちゃんの顔は、私には見えませんの。見えるのは首から下、だけですのよ」
「あら、そうなの? 惜しいわね~! 顔が見えちゃってたら、あたしの麗しさにアリスちゃんはコロっと転がり落ちてたわよ。惜しいわね~! 残念ねぇ、アリスちゃん。この世で一番麗しいこのあたしの顔が見えないなんて、残念にも程があるわ~!」
「そうかもしれません。マリアンヌちゃんは守護天使ですもの、麗しいに決まっておりますわ。拝見できなかったのは残念ですけれど、お会いできただけで十分ですのよ。……どうして、会えたのかはわかりませんけれど、きっとこれも父なるクロノス様の愛に満ちた計らいというものですわね」
「……真っ直ぐで素直で純粋培養だわ~。なんでアリスちゃんみたいなのが、当て馬ちゃんだったのかしらね。今となっては不思議だわ。学園七不思議の一つに違いないわよ」
「学園七不思議?」
そんなものが、学園にあっただろうか。
実技訓練場に赤玉ドラゴンが出現したのは不思議といえば不思議だけれど。
「学校と言えば、怖い話でしょ。七不思議を全部知ると、死んじゃうんだっけ? そういうやつよ」
「なんて恐ろしい。呪いの魔法か何か、でしょうか。高位魔族の方は、そういった呪法を使えるのでしょうか?」
「さぁ、知らないけど。グレイ先生に聞いてみたら? って、……これってまさか、合間に挟まれる好感度チェックのお時間って奴じゃないの? あたしってば、好感度チェック係のサポーター? そういうやーつなの?」
「ええと、よくわかりませんわ……」
一人でぶつぶつ言うマリアンヌに、私は首を傾げる。
マリアンヌは大きく息を吐くと、カウンターに肘をついて私に顔を近づけてくる。
顔が近づいたところで、黒い靄が近づいて来たようにしか見えないのだけれど。
「アリスちゃん、オスカー様はあんたのことが好きだし、レオンも色々あってよりを戻そうと頑張ってるじゃない?」
「より……。より、とは?」
「よりを戻すってのは、モトサヤとかぁ。なんていえば良いのかしら、浮気男が性根を正して、あれは一種の気の迷いだったんだ、本当に愛しているのはお前だけだ、とか。土下座してくるやつよ。ともかく、元に戻ろうとするってこと」
「レオン様と私には、戻るべき元の状態なんてありませんでしたわ」
「そりゃ、そうよねぇ。じゃあなんていえば良いのかしらね。アリスちゃんの可憐さにやっと気づいた馬鹿王子とか、コゼットに振られて正気に戻った馬鹿王子とか」
「馬鹿王子は悪口なのでいけませんわ。……でも、夢の中なら、良いのでしょうか……。そうですわね、レオン様は私のことを面白味のない、真面目だけが取り柄の女だと言っていましたものね……。それなのに、今更、とは、少しは思っていますわ」
聖クロノス様ならば、隣人を許せというだろう。
私もレオン様を許さなければいけないと思ってはいるけれど、どことなくまだ、心の中はもやもやしている。
本当はいけないのだろうけれど。
「すぐに許せないのが普通よ? それが普通なの。ま、馬鹿王子のことは良いとして。グレイ先生も、ちょっと変わってるけどアリスちゃんのことを気にしてるみたいだし、ルーファスはもともとアリスちゃんが好き。アリスちゃんは、今のとこ誰が良いと思ってんの? 相手が誰でもあたしは全身全霊で応援してあんたを幸せにしてあげるわ~、安心して答えなさい」
誰が好きなのかと、マリアンヌは私に聞いている。
私は唇を軽く噛んだ。
正直、あまりよく分からない。
まだ少ししか交流をしていない。
誰かのことが嫌いということもなければ、特別に好きだということもないような気もする。
皆素敵な方々だとは思うけれど、誰かと恋愛関係になるということについて考えようとすると、罪悪感と恥ずかしさで頭が沸騰しそうになってしまう。
その先を考えることができる程に身を焦がすような熱情は、私にはまだない。
「……私は……。今一番好きなのは、マリアンヌちゃんですわ」
「あ。ずるいわよ、それ。逃げたわね」
「……だって、私が一番お話ししているのは、マリアンヌちゃんですもの……。私、マリアンヌちゃんが居ないと……」
「それはぁ、ダメよ。あたしだってずっとあんたの守護天使やってられるかどうか、分からないじゃない? あんたが大丈夫そうなら、お役ごめんよ? 小姑は傍にいると嫌われるのよ。あんたはあんたの世界の現実とちゃあんと向き合いなさい。ね、分かった?」
「そんな、寂しい……」
マリアンヌの声が聞こえなくなってしまう。
いつかはそんな日が来るのだろうと、薄々は思っていた。
でも、それを考えるととても辛くて、泣き出しそうになってしまう。
「アリスちゃん。急にあたしと話せなくなる日が来たとしても、あたしは元気にここで仕事してるし、あんたは幸せに生活してるわ。落ち込むんじゃないわよ、あんたの周りには、あんたを大切にしてくれる人が沢山いるでしょ? 忘れるんじゃないわよ」
「マリアンヌちゃん……」
視界がぼやける。
大声を上げて、泣いてしまいそうだった。
ぼやけた視界とともに、マリアンヌの姿が消えていく。夢から覚めるのだと思って、マリアンヌに手を伸ばした。
マリアンヌはひらひらと手を振っただけで、私の手を掴んでくれることはなかった。




