爆ぜて欲しい系婚約者からの謝罪 1
グレイ先生に挨拶をして、私は教員室を出た。
先生は微笑んで「また明日」と言ってくれた。
教員室を出たところで私は立ち止まり、深く息をつく。
緊張するやら恥ずかしいやら苦しいやらで、とても疲れた。
これ以上長くグレイ先生と居たら、私は倒れてしまっていたかもしれない。
婚約者のレオン様と恋人らしい甘い会話すら交わしたことのない私にとって、グレイ先生は刺激が強すぎる。
グレイ先生には私に対して生徒以上の感情は無いと思うので、考えすぎであり意識しすぎ、といえばそうなのだけれど、慣れていないのだ。
そもそも男性という存在に全く慣れていないのである、私は。
私だけが特別に慣れていない、というわけじゃない。
一般的な貴族女性にとって、婚約者以外の男性と適切な距離を保つのは当たり前だ。
――それなのに、それなのに。
目尻を辿る指先の感触や赤い舌が思い出されて、私は顔を真っ赤に染めた。
体温が上がりすぎて煙が出るかもしれない。
まだ婚約も破棄されていないのに、これでは侯爵令嬢としてあまりにもはしたない。
勘違いだったとはいえレオン様と親密にしていたコゼットを責められないはしたなさ。
両手を胸にあてて落ち着かせるように呼吸を繰り返し、落ち着いたところで寮に戻ろうと思い校舎から出た。
マリアンヌが『あれぐらいでそんな状態になってるようじゃ、グレイ先生とそういう間柄になったら死ぬわよ、あんた』と恐ろしい事を言っている。
否定はできない。私もそんな気がする。
まともに思考回路が働かないまま私はぼんやりとしながら玄関を抜けて、噴水の前を通り過ぎる。
ふらふらする私にマリアンヌが『大丈夫なの、転ぶんじゃないわよ』などと声をかけてくれている。
言葉を返すことも難しい。しばらく、グレイ先生には近づかない方が良いかもしれない。
もし万が一、グレイ先生と二人きりの校外学習を行い、先生が一日中あの調子だったら私はもれなく堕落する自信がある。
二度とクロノス様の御前に顔を見せられなくなってしまうかもしれない。
『亀の甲より年の功ってやつね~、お堅いアリスちゃんも百年生きてる魔族の王子様の前じゃ、すっかり初心な乙女ねぇ。あんたの可愛さや可憐さに、グレイ先生の好感度は駄々上がりよ。やるじゃない~!』
「私はなにもしていませんわ、ただ座っていただけです……。謝罪とお礼を言いに行っただけなのに、どうしてこんなことに……」
『落ち込むんじゃないわよぅ、軽く涙を拭ってもらっただけじゃない。イケメンにやってもらいたいこと第三位、ぐらいに入るやつよ。あんたがときめいちゃうのも無理ないわよ。むしろ良く耐えたわ! 私だったらあの場で、グレイ先生に襲い掛かってるわよ』
「お、襲い掛かるのですか……? それは、やはり不用意に触られたことに、怒るのが正しいということでしょうか……、でも怒る気にはならなくて、私やはり、堕落したはしたない女なのですわ……」
『アリスぅ、何度でも何度でも言うけどねぇ、一万回駄目だったら二万回言っちゃうぐらいの勢いで言わせてもらうけどね、そんなぐらいではしたなかったら、あたしなんてどうなるのよ。はしたなさの標本として博物館に飾られちゃうわよ。はしたなさのたたき売りよ。本当、あんた見てるとあたしも不覚にもきゅんときちゃうわよ、もう、可愛いわねぇ~』
「でも、マリアンヌちゃん、私……。先生とあんな、淫らな……」
『あのねぇ、一緒に珈琲飲んで魔石の話してただけじゃない。研究室か、って話よ』
「グレイ先生の授業は有意義ですけれど……」
マリアンヌと話ができるようになると、なんとか心が落ち着いた。
寮ももう近い。
顔を赤くしたまま帰ると、ルーファスに様子がおかしいことに気づかれてしまうだろう。
私はもう一度深呼吸をした。
『ん、んん~? ねぇ、アリス。誰かいるわよ?』
マリアンヌに言われて、私は寮の玄関に視線を向ける。
昨日はルーファスが心配して玄関まで降りてきてくれていたけれど、今日は出迎える理由は特にない筈だ。
それに遠目でもルーファスとは雰囲気が違うと分かる。
なんせ、頭の上に二つの獣の耳がついている。
――あれは、まさか、もしや。
私は走って逃げたくなってしまった。
まだ心の準備ができていない。会って何を話せば良いのか分からない。
なんせ「はぜろ」とまで言ってしまったのよ。
はぜろとは爆発してしまえ、という意味で、悪口にしてはちょっと凶悪過ぎる。
謝らなくてはという気持ちと、謝りたくないという気持ちが心の中で戦っている。
本当は立場的には謝罪をしなければいけないのだけれど、でも私は、謝りたくない。
『良いじゃないの、謝らなくて~。レオンの馬鹿がもとはといえば全部悪いのよ? 許さなくて良いわよ?』
マリアンヌも応援してくれているけれど、どうしよう。
戸惑ってしまい足を止めた私の前に、徐々にその人物は近づいてくる。
それは、やはりどう見ても、レオン様だった。
「……アリスベル」
私の目の前で立ち止まったレオン様を見上げる。
いつも自信に満ちて堂々としているレオン様なのに、今日はどことなしか、萎れて見えた。
いつもはつんと上を向いている獣耳が、元気なく垂れているからかもしれない。
それは雷を怖がっている小型犬を連想させる。
私を呼ぶ声も小さくて、遠慮がちだ。
一歩後ろに下がる私を見て、レオン様は何とも言えない表情を浮かべた。
「……レオン様、ごきげんよう」
礼儀なので、仕方ないので、私はスカートの端を摘まんで挨拶をした。
よし、やることはやった。
さっさと寮に逃げ込もう。
特に話すことは無い。無いったらない。
「アリスベル、すまなかった……!」
「わ、わかりました、大丈夫です、大丈夫ですから……、私はこれで……!」
「これっぽっちも大丈夫って思ってないだろ、それ。本当に、なんていうか、……悪かったよ」
『謝ってるわよ~、傲岸不遜で偉そうなレオン王子が涙目で謝ってるわよ、アリスぅ~』
マリアンヌの口調は未だ苛立ちに満ちている。
昨日の事、私は怒ってはいない。
怒ってはいないとは思うけれど、レオン様とは話したくない。
きっとあれはレオン様の本音だ。
生真面目なだけが取り柄の女だと、言われた。
実際その通りなので言い返せないけれど、指摘されるとかなり、傷つく。
――うん。私は、傷ついていた、みたいだ。
何のとりえもなくて、真面目だけが取り柄で、面白みのない女だということぐらい、私が一番よく分かっている。
それを、わざわざ言わなくても良いのに。
そんなこと、言われなくたってとっくに自覚している。
なんせレオン様より先にマリアンヌに指摘されていたのだから。
だから、私は変わろうと思って、これから頑張ろうと思っていたのに。
『それは、あたしもごめんねぇ。悪かったわ。あんたがこんなに良い子で、沢山苦労してるってこと分かってなかったのよ、あたし。ごめんね、アリスちゃん。あんたは可愛いわ、世界一可愛いあたしの愛弟子よ~!』
いつの間にか私はマリアンヌの弟子になっていたらしい。
確かに人生の師匠という意味では、間違ってはいないけれど、師匠よりも守護天使の方がマリアンヌには似合うと思う。
「あの、本当に大丈夫ですので……」
レオン様の顔がきちんと見れなくて、私は俯いた。
今まで事務的な会話以外はしたことが無かったのだ、今更何を話せば良いのかもわからない。
謝罪は受け取ったけれど、レオン様が私について生真面目だけが取り柄の面白くない女と思っている事実は変わらない。
確かに、私よりもシャルルやコゼットの方が魅力的だろう。
私には彼女たちのように生き生きと楽しそうに生きることが、まだ難しい。
シャルルやコゼットは輝いているけれど、私は、まだ。
――あぁ、駄目だ。これは自虐ブス、というやつだ。
マリアンヌに怒られたのに、また落ち込んでしまった。
レオン様の顔を見ると、昔の自分に戻ってしまったような気持になる。
「アリスベル、本当に、すまない。……俺は、自分が恥ずかしい。コゼットを守ったつもりだった。アリスベルの事を、何もわかっていなかった。……頭に血がのぼって、アリスベルにあまりにも酷い事を言ってしまった。君は、俺の婚約者なのに」
『なによぅ、今更よね~! 一度言った言葉は取り消せないのよ、お馬鹿さんめ!』
「……レオン様、分かりましたから。……私のことは心配いりません。……だから、こんなつまらない女になんて構わずに、どうか婚約を、その、解消……、して頂いても」
レオン様はコゼットの身の上話に同情して彼女を守ろうとしたぐらいなのだから、きっと優しい方なのだろう。
だから、誤解して責めてしまったことで、反省し私に同情してくれている。
けれど同情で今の関係を続けるのは、心苦しい。
レオン様がコゼットを好きだというのなら、それは構わない。
レオン様の頑張り次第では、コゼットの心が動くこともきっとあるだろう。
それならば、できれば早々に婚約破棄などをして頂けると有難い。
そうすればレオン様の顔を見なくてすむし、関わらなくてすむ。
あと三年我慢するよりは、お互いの為にその方が良いだろう。
私はお父様やお母様に叱られるかもしれないけれど、結局そうなる運命ならば早い方が良い。
「婚約を解消……?」
『良く言ったわ! 調子乗り勘違い系俺様男なんて願い下げよ~! あたしのアリスちゃんには、あんた以外にも星の数ぐらいの男がいるんだからね、あんたなんておよびじゃないのよ~!』
マリアンヌがとても嬉しそうだ。
私はマリアンヌの声援に後押しされるように、なんとか姿勢を正した。
「レオン様がコゼットさんを婚約者に、というのなら、私は構いませんわ」
「……アリスベル。俺が、悪かった。本当に悪かった。……一方的に傷つけた上に婚約解消なんて、できない」
「私が、お嫌いでしょう……?」
「違う。……嫌いじゃない。嫌いじゃないんだ」
『好きでもないんでしょ~、何よその言い方。あたしは許さないわよ~!』
嫌いじゃないというのは、好きでもないという事だろう。
そんな事は分かっているので、今更言われてもどうとも思わないのだけれど。
でもそれはお互い様だ。私だって、レオン様を熱烈に愛していたという訳じゃない。義務だから、傍に居た。
多分、きっとそう。
「……アリスベル、すまなかった。……反省、している。……婚約者として傍に居られるように、頑張るから、婚約解消なんて言わないで欲しい」
レオン様ががっくりと項垂れている。
『なんでよぅ、さくっと婚約解消で良いじゃないの~! レオン王子め、アリスちゃんのオスカー様とグレイ先生、ルーファスでも良いけど、ともかく新しい恋を邪魔するつもりね、はぜろ~!』
新しい恋がはじまるかどうかは、わからないけれど。
婚約解消してもらえると思ったのに、なんだか風向きが悪い。
レオン様は、私の傍にいるつもりなのかしら。
私とコゼットが親しくなったから、レオン様にとってはその方が都合が良いということなのかもしれない。




