コゼット・デンゼリンは主人公 1
今日は朝からマリアンヌはとても静かだ。
すっきりと目覚めた私が朝食をとっているときに『何かあったら呼んでちょーだい』という眠そうな声を聞いたきりだった。
夏の兆しを孕んだ暖かい春風が制服のスカートを揺らすのを心地よく思いながら、私は少しだけ早くルーファスに見送られて寮を出ると礼拝堂に向かった。
国教であるクロノス教の主神であらせられるクロノス様は、世界にいる七神のうちの一人と言われている。
世界のはじまりは、天から降り立った七人の神々が泥から人を作ったと言われていて、この七人にはクロイツベルト王国のクロノス様と、隣国の魔族の国であるアルテミス魔王国のホルス様、半獣族の国であるリンドブルム獣王国のフェンリル様も含まれる。
大陸には私たちの国を含めて七つの王国があるけれど、七神の神話は広く知れ渡っていて、それぞれが国祖の神として七神を崇めている。とはいえ、クロイツベルト王国ではクロノス様の信仰は形骸化してしまっていて、毎日祈りを捧げる人々の数も減っているという話だ。
だからといって忘れ去ったということでもなく、年末の聖クロノス祭典では街は華やかに賑わい教会には祈りを捧げる人が集まり、盛大なお祝いをする。
祈りを捧げる日が一年に一度というのも寂しいことだけれど、アルテミス魔王国やリンドブルム獣王国からの移民も多く、クロイツベルト王国の人々と婚姻を結び種族が混じり合ってしまっていることもあり、祈りの数が一つではなくなっているのもその理由だろう。
クロノス様を祀る教会では、他の神々への祈りも許されている。
今の王妃様が獣王国の姫ということもあって、特にフェンリル様は大切にされている。
王都の中心にある大聖堂には、近々フェンリル様の像も建てられるという話だ。
私は誰もいない礼拝堂の中央へと足を運ぶと、膝をついて頭を下げた。
両手を組んで祈りを捧げる。
「我らが神クロノス様、時を統べる全能の王よ。今日も我らを等しく見守り導きたまえ。……私に、守護天使マリアンヌを遣わしてくださったこと、感謝いたします」
毎日のお祈りで使用する祝詞とともに、個人的なお礼も言っておくことにする。
私の育ったレミニス家ではクロノス様へのお祈りは当たり前の日課だった。
幼い頃は何も考えずに行ってきたけれど、王妃教育を受けるようになってからはクロノス様が私の心の支えだった。
私の元にマリアンヌが来てくれたのは、私の祈りがクロノス様に通じていたからだろう。
自分の居場所が奪われるという焦りと怒りからコゼットを叱責していたら、二度とクロノス様に顔向けできないところだった。
それから、クロノス様は私とオスカー様も出会わせてくれた。オスカー様とお話しなかったら、学園の外にいってみるという考えも思い浮かばなかった筈だ。
私は今まで小さな箱庭の中で生きてきたのだと思う。
外壁に守られた街の外には一人で出たこともない。魔物と戦ったこともないし、もちろん討伐隊に参加したこともない。
私の小さな世界の外には、広い世界が広がっている。
レオン様の婚約者という重圧から解放された私は自由で、何でもできるし何でもして良いのだと思うと心が弾んだ。
朝のお祈りを終えて、教室へと向かう。
遅れるのは嫌なのでなるだけ早く寮を出るようにしている私は、教室に入るのも割と早い方だ。
とはいえ、試験の為に朝から教科書を広げている方もいたりして、私よりも早くきている方々も数人いるのだけど。
教室に入ると、教壇を中心に扇状に並んでいる机の空いている一つに座る。
特に座る場所に決まりはない。
生徒の数の方が机の数よりも少ないので、気兼ねなく自由な席に座っても空いている席がなくなるといった心配はない。
教壇の真正面に座ると他の生徒の方々が遠慮してしまうので、右端に座るようにしている。
私の隣に座ろうとする方はまず居ない。大抵の場合はシャルルが、私よりも遅れて入ってきて一緒に座っている。
今日はなんだか、皆からの視線が奇妙な好奇心を内包しているように感じられた。
勘違いかもしれないが、昨日のことがある。もしかしたらもうすでに、噂が広まっているのかもしれない。
広まっているとしたらきっと、私が嫉妬のあまりコゼットを虐めたとか、そのせいでレオン王子に叱責されたとか、そういう噂だろう。
以前の私なら羞恥心と情けなさで酷く落ち込んでしまっていただろうけれど、今は大丈夫だ。
もしそうだとしても、オスカー様が私を信じると言ってくれた。
マリアンヌが一緒に私の姿を見ていてくれた。その記憶があるだけで、どれほど心強いかと思う。
「……あの、……アリスベル様……っ」
本でも読んで時間を潰そうかと、鞄の中から読みかけの小説を出した時だった。
遠慮がちで小さいけれど必死な声が聞こえて、私は顔を上げる。
私の正面に、コゼットが立っていた。
桃色がかった金色の髪は肩口でふわりと内巻きになっている。淡い水色の大きな瞳と小さな口。
シャルルよりも背は高いけれど小柄な少女だ。
昨日はそれどころではなかったけれど、こうして落ち着いて眺めると愛らしい方だと思う。
「……私に、何か?」
なんと答えようか考えて、私はそれだけを口にした。
少し冷たかったかもしれない。
けれど、コゼットさんと呼びかける間柄ではないし、ごきげんようと挨拶をするのも違う気がする。
せめてコゼットが、朝の挨拶からはじめてくれたら、私もつつがなく挨拶を返すことができるのに。
「あの、あの、き、昨日は、ありがとうございました……!」
コゼットはそう言って私にぺこりとお辞儀をした。
私はふわりと揺れる髪や私を見つめる潤んだ瞳を、ぼんやりと見返した。
何のことかと眉をひそめて、しばらくコゼットの顔を見上げる。
話しかけられるのも予想外だったのに、お礼を言われるなんて。
「私、アリスベル様に助けていただいたのに……、きちんとお礼もできなくて、迷惑をかけてしまって……」
「あ、あぁ……、昨日の……、問題はありませんわ」
恐縮したように小さくなっているコゼットと、どんな返事をしたら良いのか分からなくて戸惑う私。
教室にいる皆様が私たちのやりとりを遠巻きに見ているのがわかる。
レオン様のことやシャルルのこと、ティグレ様のことが頭の中をぐるぐると回る。
コゼットさんと会話をしてしまって良いのだろうか、私とコゼットさんが親しく会話を交わす未来などマリアンヌは何も言っていなかった気がする。
――この道は、どこに続いているのだろう。
誰かが不幸になったりはしないだろうか。
なんだかそれが、恐ろしいことのように感じられる。
マリアンヌに助けを求めたかったけれど、頭の中に声は聞こえない。内心の動揺を悟られないように私は姿勢を正した。
「本当は話しかけるのも、よくないって分かってます。でもお礼を言いたかったんです。それと、謝りたかった」
「ええと……、デンゼリンさん」
「コゼット、コゼットって呼んでください!」
名前を呼んだ途端に、コゼットの表情が花が咲いたように明るくなる。
恐縮して縮こまっていた彼女とは別人のように、私の前の机に両手をついて私に顔を近づけてくるので、私は後ろ側に背筋をそらせた。
額がぶつかってしまいそうな気がしたからだ。
「コゼットさん……」
「はい! アリスベル様、コゼット・デンゼリンともうします。私ってば自己紹介も挨拶もしないで、ごめんなさい」
「それは別に構わないのですけれど……」
「アリスベル様と話せてよかったです! 本当はもっと前から話したくて、レオン様のことは誤解だときちんと伝えたかったんですけど、その前にあんなことになってしまって。でもアリスベル様に助けて貰えるなんて思わなくて! 毅然と話すアリスベル様、本当に素敵でした、ありがとうございました!」
コゼットは私の手をとって両手で握りしめると、ぐいぐいと顔を近づけてくる。
潤んだ瞳と小作りの顔が愛らしいけれど、随分明るいというか、強引というか。
もっと大人しくて気の弱い子だと思っていたのに、挨拶がすんだ途端に別人のように距離が近くなるのがちょっと怖い。
コゼットさんに関わることが運命を決めるということとは別の意味で、ちょっと怖い。
「私、お礼がしたくて……、あの、アリスベル様、今日の昼休みとかは空いていますか?」
「昼は、特に予定はないですけれど……」
「駄目よ! 昼休みは私と食事をするのよ! アリスの予定は私でいっぱいなの、邪魔しないでくれる?」
突然私たちの会話に、もう一人の声が混じった。
声の方向を見ると、肩を怒らせて教室に入ってくるシャルルの姿が見えた。
シャルルは私達の方に足早に近づいてくると、コゼットを押し除けるようにして私の前に立った。
「ね、アリス。私と食堂に行くのよね?」
「シャルル、おはようございます」
「おはようアリス! 何よこの女は!」
何と言われても、それはコゼットさんです。
シャルルはどうしてそんなに朝から怒っているのかしら。
シャルルの隣でコゼットが拗ねている。白い頬がマカロンのように丸く膨らんでいる。ちょっとというか、だいぶ子どもっぽい仕草ね。
「コゼット・デンゼリンです。シャルル・フライツマール様、はじめまして。アリスベル様の予定を先に聞いたのは私です!」
「アリスの予定は私でいーっぱいなの! 先に聞こうが後に聞こうがそれは一緒なの! だから駄目!」
「私昨日のお礼に焼き菓子を作ってきたんです。アリスベル様にぜひ食べていただきたくて……!」
「焼き菓子で釣られるようなアリスじゃないわよ! アリスの執事のルーファスさんの方が、あんたの作る焼き菓子よりも何倍も美味しいお菓子を作れるんだからね、お菓子なんかじゃアリスの心は動かないわよ!」
シャルルはコゼットに敵意を剥き出しにしている。
私とレオン様とコゼットの関係を心配してくれてのことなのだろう。
よく手入れされた家猫が招かざる客を威嚇する姿に似ていて、なんだか可愛らしい。
「あの……、コゼットさん。私のために、焼き菓子を?」
「はい! 学園の料理部の部室を借りて作ったんですー! 気持ちを込めました!」
「ありがとう。……もし良ければ、なのですけど。昼休みシャルルも一緒にいいですか?」
「はい、妥協します!」
「何よその言い方、絶対二人っきりになんてさせないんだからね!」
予鈴の鐘が鳴る。
コゼットはぺこりとお辞儀をすると、弾むように自分の席に戻っていった。
シャルルはしばらくコゼットを睨んでいたけれど、やや拗ねた表情を浮かべながら私の隣へと座る。
何か話そうと思ったけれど、その前に教室の扉からグレイ先生が入ってきてしまった。




