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第十七話

潮の終わり、命の終わり

――老いの神が、海の死と向き合う


 老いの真髄を悟った寿老人は、白鹿とともに西へ向かっていた。

山を越え。

谷を越え。

幾つもの村を見守りながら。

やがて彼は海辺へ辿り着く。


夕暮れだった。

空には夕星が輝き。

水平線は黄金色に染まっている。

白鹿は波打ち際へ歩み寄り、静かに海を見つめた。


 寿老人もまた海へ視線を向ける。

遥か彼方には、まだ見えぬ島。

七柱が集う運命の地。


寿老人は波へ向かって語りかけた。

「海よ。」

「渡らせてはくれぬか。」


 しかし。

その瞬間だった。

海が静かに波を引いた。

まるで寿老人を避けるように。

白鹿が不安そうに鳴く。

風が止む。

波音が消える。

海辺は異様な静寂に包まれた。


 やがて。

深い海の底から声が響く。

――老いの神よ。

――お前は命の終わりを知る者。

――ならば、海の終わりも見られるか。


 寿老人は目を閉じた。

そして静かに頷く。

「試したいのだな。」

海は答えない。

代わりに潮の流れが止まった。

波が消える。

風が消える。

海面は鏡のように動かなくなった。

世界から命が失われたようだった。


 白鹿が一歩後ずさる。

寿老人は海へ手を伸ばした。

冷たい。

あまりにも冷たい。

そこには生命の鼓動がなかった。

「これは……。」

寿老人は呟く。

「海の死か。」


 海の声が響く。

――そうだ。

――命の終わりを見守る者よ。

――お前は、この姿をどう見る。


 寿老人は静かに海を見つめた。

恐れない。

嘆かない。

怒りもしない。

長い沈黙の後。


 彼は答えた。

「終わりとは、静かな完成だ。」

海がわずかに揺れた。


 寿老人は続ける。

「春が終われば夏が来る。」

「花が散れば実がなる。」

「命が終われば、次の命へ繋がる。」

「海もまた同じだ。」

「流れ続けるだけが存在ではない。」

「いつか静まる時が来る。」

「それもまた、お前の姿だ。」


止まっていた海面に小さな波紋が広がった。

だが海はさらに深く寿老人を試そうとしていた。


 海面が黒く染まる。

無数の光が海中から浮かび上がった。

それは魂だった。

海で命を終えた者たちの記憶。

嵐に呑まれた漁師。

沈んだ船の船乗り。

我が子を守って海へ消えた母。

故郷へ帰る途中で波にさらわれた旅人。

数え切れない命。

数え切れない別れ。


 白鹿が悲しげに鳴いた。

海の声が響く。

――これらは海が呑んだ命。

――お前はどう受け止める。

寿老人は静かに目を閉じた。

ひとつひとつの記憶に触れる。

悲しみ。

苦しみ。

後悔。

愛情。

願い。

すべてがそこにあった。


 やがて寿老人は答える。

「海に奪われたのではない。」

海が揺れた。

「海に抱かれたのだ。」

波が震える。

寿老人は続けた。

「誰も死を望まなかっただろう。」

「だが。」

「最後の瞬間まで生きようとした。」

「家族を想い。」

「故郷を想い。」

「誰かを愛していた。」

「それは消えない。」

「海が覚えている。」


 海は沈黙した。

寿老人は海を見つめる。

「お前は忘れていない。」

「だから今も悲しんでいるのだな。」


 その言葉に。

海は大きく揺れた。

無数の魂の光が天へ昇っていく。


 突然。

世界からすべての音が消えた。

波の音。

風の音。

鳥の声。

白鹿の気配。

何もない。

寿老人は独りだった。

空もない。

地もない。

ただ暗い海の底だけが広がる。

永遠にも思える孤独。


 その中で海の声だけが響く。

――老いの神よ。

――お前は孤独を知ると言った。

――だが、海の孤独は永遠だ。

――耐えられるか。

寿老人は答えない。

静かに座り込む。

孤独を拒まない。

逃げない。

戦わない。

ただ受け入れる。

長い時間が流れた。


 やがて寿老人は微笑んだ。

「海よ。」

「お前は寂しかったのだな。」

海が震えた。

寿老人は続ける。

「誰よりも多くの命を見送り。」

「誰よりも多くの涙を受け止め。」

「誰よりも多くの秘密を抱えてきた。」

「だから孤独だった。」

海は初めて沈黙した。

怒りもない。

試しもない。

ただ静かだった。


 寿老人は杖を握る。

「孤独とは罰ではない。」

「自分の声を聞くための時間だ。」

「老いもまた同じ。」

「人は老いて静かになる。」

「だからこそ、本当に大切なものが見える。」


海の孤独がほどけていく。

暗闇が消え。

白鹿が戻った。

風が吹く。

波音が蘇る。


そして海は穏やかに語った。

――老いの神よ。

――お前は終わりを恐れない。

――孤独を憎まない。

――ならば、お前は海を渡る資格を持つ。


 寿老人は深く頭を下げた。

「ありがとう。」

すると海が輝き始めた。

青い光が寿老人の杖を包む。

杖の表面に新たな紋様が刻まれていく。


 潮老の杖。

海の終わりを見守り。

命の終わりを和らげ。

老いの痛みを静かに整える神杖。

寿老人はその杖を握りしめた。

夕星が空高く輝く。

白鹿が静かに鳴く。

海は道を開いた。

潮が一筋の光となって島へ続いている。


寿老人はその道を見つめた。

「六柱目として。」

「私は行こう。」

白鹿が寄り添う。

潮風が吹く。

夕星が導く。

老いの完成を知った神は。

静かに。

しかし確かな歩みで。

仲間たちが待つ島へ向かって歩き始めたのであった。

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