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第十五話

老いの神、夕星より歩み出づ

――命の終わりは、恐怖ではなく完成である


世界がまだ若く。

神々が生まれるよりも前。

夜空には無数の星々が瞬いていた。

星々は言葉を持たず。

けれど確かに語り合っていた。

光で語り。

軌道で歌い。

瞬きによって意思を交わしていた。


 その中に、一つの静かな星があった。

天寿星が命の始まりを見守るなら。

その対となる星。

夕星。

命の終わりを見守る星である。

夕星はいつも静かだった。

生まれる命を祝福するのではなく。

生き終えた命を見送るために輝いていた。 


 そしてある夜。

夕星が小さく震えた。

それは怒りでも悲しみでもない。

深い慈しみの震えだった。

星の中心から一粒の光が零れ落ちる。

それは流星ではない。

涙だった。

夕星の涙は夜空を渡り。

風を越え。

雲を抜け。

静かに地上へ降りていった。


 辿り着いた場所は深い山奥。

人も神も訪れぬ場所。

一本の老いた桜の木が立っていた。


その桜は長い年月を生きていた。

若木の頃も。

満開の日々も。

嵐に耐えた夜も。

全てを知っていた。

今や枝は曲がり。

幹には深い皺が刻まれている。

しかしその姿には不思議な美しさがあった。

散り際の花が風に揺れる。


 そこへ夕星の涙が落ちた。

光は桜の根元へ染み込み。

やがて柔らかな輝きとなって広がった。

そして。

ひとりの老人が現れた。

白く長い髭。

深い皺。

静かな微笑み。

その瞳だけは夕星のように優しく輝いていた。


 老人の手には一本の杖が握られていた。

誰かが与えたものではない。

生まれた瞬間からそこにあった。


長寿の杖。

命の歩みを支える杖である。

老人はゆっくりと目を開いた。

桜吹雪が舞う。

風が頬を撫でる。


 老人は空を見上げた。

そして最初の言葉を呟いた。

「終わりとは、静かな祝福」


その声は風に溶けた。

桜の花びらが優しく揺れる。

まるで世界そのものが頷いたようだった。


 老人は自らの名を知っていた。

寿老人。

老いと終わりを見守る神。

だが彼は死を司る神ではなかった。

寿命を奪う神でもない。

命が終わる瞬間を。

苦しみではなく安らぎへ導く神だった。


 寿老人は桜の木に一礼すると。

静かに歩き始めた。


 その旅は誰かを救うためではない。

命というものを知るための旅だった。

山を越え。

谷を渡り。

村々を訪れる。


 すると不思議なことが起きた。

苦しみながら横たわっていた老人は穏やかな眠りにつき。

老いた獣は静かに最期の息を迎え。

枯れかけた花は最後に美しく咲いた。


 寿老人は寿命を延ばさない。

奇跡を起こさない。

ただ命が終わる時。

その心を静かに整えるだけだった。


 人々はやがて彼を

「老いの聖者」

と呼ぶようになった。

死を恐れる者は彼の前で涙を流し。

別れを悲しむ者は彼の言葉に救われた。


 寿老人は微笑みながら語る。

「死は終わりではない」

「命が完成する瞬間だ」

その言葉は人々の胸に深く残った。


 しかし寿老人自身にはまだ分からないことがあった。

老いとは何か。

終わりとは何か。

なぜ人は老いるのか。


 ある夜。

夕星が再び強く輝いた。

その光の中から声が響く。

――老いの神よ。

――お前は老いを知っているか。


 寿老人の前に三つの影が現れた。

恐怖の影。

執着の影。

孤独の影。


 影たちは囁く。

「老いとは恐怖だ」

「老いとは失うことだ」

「老いとは孤独だ」

寿老人は黙って耳を傾けた。

否定しない。

怒らない。

ただ静かに聞いた。

そして微笑む。

「違わぬ」


 影たちは驚いた。

寿老人は続ける。

「恐怖もある」

「執着もある」

「孤独もある」

「だがそれだけではない」

老人は杖を握った。

「老いとは積み重ねだ」

「失ったものだけではなく」

「得たものもまたそこにある」

「悲しみも喜びも」

「出会いも別れも」

「すべて抱きしめた者だけが」

「静かな終わりへ辿り着く」


 その瞬間。

三つの影は光へ変わった。

恐怖は安堵へ。

執着は感謝へ。

孤独は静寂へ。

光は杖へ吸い込まれていく。


 夕星が静かに輝いた。

――よくぞ見抜いた。

――老いとは完成である。

――お前は真の寿老人となった。


 その時だった。

森の奥から一頭の白鹿が現れた。

白銀の毛並み。

深い知恵を宿した瞳。

白鹿は寿老人の前に膝を折った。


 寿老人は静かにその頭を撫でる。

「お前もまた長い時を生きてきたのだな」


白鹿は小さく鳴いた。

それは肯定の声だった。

その日から白鹿は寿老人の伴となった。

命の終わりを見守る神と。

命の静けさを知る獣。

二つの存在は共に旅を続ける。


 そしてある夜。

寿老人は空を見上げた。

そこに七色の光が走っていた。

恵比寿。

大黒天。

毘沙門天。

弁財天。

福禄寿。


すでに旅立った五柱の光である。

寿老人は静かに呟いた。

「五柱が揃ったか」

白鹿が寄り添う。

夕星が淡く輝く。


寿老人は杖をついた。

「ならば私も行こう」

「待つ者たちがいる」

老いを司る神は。

静かに西の海を目指して歩き始めた。

やがて訪れる運命の島へ向かって。

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