第一話
第一話
「海に捨てられた御子」
――恵比寿誕生譚――
世界がまだ若く、海と陸の境界が曖昧だった頃。
イザナギとイザナミの宮には、ひとりの御子が生まれた。
その子は、骨が柔らかく、手足は波のように頼りなく、泣き声は風のようにかすかだった。
宮の者たちは囁いた。
「この子は、世界の理から外れている」
「神々の形を成していない」
イザナギとイザナミは深く悩み、
やがて決断を下す。
――この子を、海へ返そう。
葦で編んだ小舟に御子を乗せ、
夜明け前の海へそっと流した。 波は静かだった。
まるで、赤子を受け取る準備をしていたかのように。
海の底の子守唄 舟は幾日も漂い、嵐にも呑まれず、ただ海の意志に導かれるように進んだ。
赤子は泣かなかった。
泣く代わりに、海の音に耳を澄ませていた。
潮の満ち引き、魚の群れのざわめき、遠くで砕ける波の響き。
それらは赤子にとって、母の声よりも優しい子守唄だった。
やがて舟は、北の果ての漁村に流れ着く。
朝焼けの中、漁師の夫婦が舟を見つけた。
「……赤ん坊だ」
「こんなところに……神さまの悪戯かね」
夫婦は迷わず赤子を抱き上げた。
その体は軽く、温かく、そしてどこか海の匂いがした。
「この子は……海が連れてきたんだよ」
「だったら、うちで育てよう」
こうして赤子は“蛭子”と名付けられ、漁村の一員として育てられることになった。
海と心を通わせる少年 蛭子は言葉が遅く、耳も少し不自由だった。
しかし、海に出ると別人のように生き生きとした。
魚の動きを読むのが異様に上手く、潮の変わり目を誰よりも早く察知した。
村の漁師たちは言った。
「あの子は、海と話している」
蛭子は笑って首を振るが、
海に向かって手を伸ばすと、魚たちが寄ってくる。
海は彼を拒まなかった。
むしろ、彼を“本来の場所”へ戻すように包み込んだ。
大嵐の夜 ある夜、村を未曾有の嵐が襲った。
漁に出ていた船が戻らず、
浜辺には折れた櫂と網だけが打ち上げられた。
村人たちは泣き崩れた。
「もう……だめだ……」
「海が怒っている……」
その時、蛭子が立ち上がった。 小さな体で、荒れ狂う海へ歩き出す。
「蛭子! 戻れ!」
「死ぬぞ!」
誰も止められなかった。
海が彼を呼んでいるように見えたからだ。
蛭子は波打ち際で目を閉じ、
静かに海へ身を投げた。
海がひれ伏した瞬間 海の底で、蛭子は目を開けた。
魚たちが彼を囲み、渦巻く潮が彼の体を押し上げる。
彼は海に語りかけた。
言葉ではなく、心で。
「お願いだ。村を、みんなを、助けて」
その瞬間、海は静まった。
嵐は嘘のように止み、
沖に漂っていた漁船が、ゆっくりと浜へ戻ってきた。
村人たちは震えながら言った。
「蛭子が……海を鎮めた……」
恵比寿神の誕生 その夜、村の長老は蛭子に告げた。
「お前は、ただの子ではない。
海に捨てられ、海に育てられ、海を鎮めた。
それは“海の神”の証だ」
蛭子は静かに頷いた。
海の向こうから、
七色の光が彼を照らしていた。 それは“七柱が集う運命”の最初の兆しだった。




