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最終話 すべて流れて

「海だ……」


 視界に広がる青々とした大海原。


 実は久太は、人生の中で海岸へと訪れるのは初めてだった。


 彼が暮らす街から海までは決して遠い距離にない。今回のように頑張れば徒歩で行けるのだから。


 ところが久太の両親は「子供は勉強が第一。遊びに行くなんて無駄だ」と話しており、海水浴などさせてもらえなかった。


 それから成長して中学や高校に進学しても、なかなか彼は海には縁がなく。


 ただ今回、幸か不幸か久太は世界が崩壊したことでその足で砂浜を踏み、その肌で潮風を感じることができたのだ。


「何だかべたつく。これが海の風なんだ……」


 彼はこの海岸に到着するまで線路沿いを歩いていた。そしてその間から今に至るまで、いよいよ本当に他の人の姿はまったく見えなくなってしまう。


 耳に届くのは静かな波の音と、上空を飛ぶカモメの鳴き声だけだ。


「もしかしたら僕は生き残った最後の人類かもしれない。だけど、これはきっとこんな世界を願ったことの代償なんだと思う」


 靴を脱ぎ、リュックをその場に投げ捨てて。


 裸足になった足の裏にこびりつく湿った砂の感覚を味わいながら。


 彼は己の責任を痛感していた。


 ◇◇◇


 千蔭と別れた久太。


 当初はそのまま真っすぐ家へと帰ろうとしたものの、気持ちが変わり千鶴と初めて会った神社へと足を運んだ。


 変わらないボロボロの社殿。くすんでいる狛犬。


 出会いの時に千鶴は「おばあちゃんが管理している」とは話していたが、本当にそうなのかは疑わしいほど賽銭箱周りにはカビが生えている。


「……」


 久太は自分にとって千鶴がどのような存在だったのか、改めて考える。


 そばにいて当たり前で。いつも話を聞いてくれて。自分を肯定してくれて。


 何があっても千鶴は常に久太の味方でいてくれていた。


「でも。それじゃあ逆に僕は千鶴にとってどんな存在だったんだろう?」


 久太は深く思案する。


「僕は一度でも、千鶴の味方になってあげられただろうか?」


 人当たりがよかった千鶴。

 しかし本当は人間関係に迷うこともあったかもしれない。


 成績がよかった千鶴。

 しかし本当は苦手な科目などもあったかもしれない。


 愛想がよかった千鶴。

 しかし本当は誰にも言えない悩みを抱えていたかもしれない。


「僕は千鶴に、ずっとずっと甘えてばかりだったんだな……」


 そして久太は10円硬貨を取り出すとそっと賽銭箱に投げ入れた。


 続いてずっと握っていたお守りごと手を合わせ、目も閉じて、頭も下げる。


「千鶴のことが好きだったのに。本当の千鶴を見ようとしなかった」


 もうどうでもいい。


 千鶴が不思議な力を持っていようといなかろうと、複雑な家庭環境だろうと。


 そんなことはもうどうでもいいんだ。


「千鶴の味方になってあげるべきだった。お礼を言うべきだった。声をかけるべきだった。『いつも僕の味方でいてくれてありがとう』って。『何があっても僕は千鶴の味方だよ』って」


 月並みな感想だが、久太は失って初めて千鶴の大事さを痛感していた。


 あの笑顔が。あの声が。あの香りが。あの日常が。


 あって当然だと思っていたそれらは、何かを拍子に一瞬でなくなるほど脆いものだっただなんて。


「千鶴のいない世界がこんなにも寂しいものとは思わなかった。こんなに空っぽのものとは思わなかった」


 久太はそのまま続ける。


「僕は千鶴のいないこんな世界なんてなくなってもいいとまで思ってる。最後に会った時のやり取りは謝るから。僕が悪かったから。あの時のことは……全部、全部、水に流して欲しい」


 しばしの間、手を合わせて。


 ゆっくりと顔を上げた久太は肩を落としながらようやく家路についた。


 それからしばらくして……。




 世界で死水症が確認され始めた。


 ◇◇◇


 現在。久太の視線の先にはひとりの人影がいる。


 その人物は海の中に立っており、それに近づこうと久太も海に入る。


 波は荒い。海水も冷たい。


 だが久太はくじけることなく、最後の力を振り絞って人影のそばにまで近づくと。


「千鶴……」


 そこには最後に会った時と同じ制服姿の千鶴がいたのだ。


 ひょっとして幽霊なのか。

 もしかして幻覚なのか。


 ただもうそんなことは久太にとってどうでもいいことだ。


 彼は優しく千鶴のことを抱きしめると涙交じりの声を絞り出す。


「ごめん。あの時、このことを言えなくてごめん」

「千鶴は間違いなく僕の味方だよ」

「そして僕も千鶴の味方。絶対に味方だから」


 嘘偽りのない言葉、想い。


「僕の願いを叶えてくれてありがとう。千鶴のいない世界をなくそうとしてくれてありがとう。でも……」


 しかし久太が抱える罪の意識は大きく、責任も重い。


 だから今の彼が真に望むことはそれらから解放されること。もちろん、それにはまた相応の代償が必要なことも分かっていた。


「だから……どうか最後の願いを聞いて欲しい。僕は千鶴と永遠に一緒にいるから、永遠にひとつになるから」


 大きく息を吸って、久太は伝える。


「その代わりに世界は元へと戻して欲しい。僕たちの問題は、僕たちで水に流さないとダメだから」


 ぴしゃっ。


 久太が願いを口にした直後、その肉体は水と化す。


 それから水しぶきと音を上げながら海面に落ち、久太だったものは母なる広い海に戻っていき、ゆっくりと同化し広がっていく。


 これを見届けた千鶴の姿が徐々に消えていく中、波の音とカモメの声の隙間から、少しずつ人々のざわめきが聞こえてきた。


 ◇◇◇


 今から数年前。


 海のすぐそばにある小さな平屋。ここにはある3人家族が暮らしていた。


「く、くそ……。まさかお前に殺されて死ぬだなんて……」


 しかしこの日の夕方、家族の父親は台所にうつ伏せで倒れている。


 その腹部からドクドクと血を流し出しながら。


「バ、バカみたいに純粋なお前を口説いたこと自体が間違いだった……。その妙な力を利用して金儲けしようと思ってたのに……。そもそも……あの教団に潜入なんてしなけりゃよかった……」


 こう捨て台詞を吐いた父親は白目を剥き口から血を吐いて絶命。


 さらに遺体はゆっくりと水となり、じわじわと静かに床へと広がっていく。


 そしてその水が服に染みていく母親と彼女に抱かれた10代前半の娘。


 父親と同じように腹部から血を流して、すでに息も絶え絶えの母親のことを見つめながら、娘はその言葉に耳を傾ける。


「今までずっと悪いことをしてたお父さんなんか死んで……この世界からいなくなって当然なの……」


「ママ……」


 これに娘は涙ぐみながら首を横に振る。


「あなたはお母さんみたいにはならないでね……。平気で嘘をつく人じゃなくて……。本当の味方になってくれるような人と幸せになって……」


 さらに母親は荒い呼吸のまま続ける。


 自分は向けられた偽の好意に騙されたと。

 特別な力に目をつけた本性を見抜けなかったと。

 彼が犯してきたこれまでの悪事を知って驚愕したと。


 だから決めた。


 これまで色々な団体に潜入しては、『取材』と称して酷いことをしてきた父親を、自分の手で殺そうと。


「だけどお母さんにとって初恋の大事な人でもあるから……。わたしも……お父さんの後を追うから……」


 それでも彼のことを愛した事実に嘘はつけない。さらに実母を裏切り教団を去った罪滅ぼしのためにも自害をしようと。


 母親は抱きしめる力を一層強めて「だからお母さんが……これから寂しくならないようなおまじないをかけてあげる……」と呟き、娘の手に自作のお守りを握らせた。


「いつかあなたにとっての味方が現れて……その人と永遠に結ばれますように……。あなたとあなたの大切な人の願いが叶う……幸せな世界になりますように……」


 心臓が止まるまで。


 何度も何度もこのようなことを唱え続けて。


 じきに母親は娘を抱きながら息絶える。


「私にとっての味方……味方が……欲しい……」


 こうして母親──千歳の肉体もすぐに水と化して、父親──あの男と同様に床全体へと流れていき、孤独になった娘──千鶴は自身の願いを小さく口にしたのだった。

非常に短い連載ものですが、ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。

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