第一章最終話 61話 壊れた夜
「……兄上」
えっ! 驚いて彼を見ると繋がれている手に力が込められた。
「久しぶりだな。毎年来ていればいつか会えるかと思っていたが、ようやく会えて嬉しいよ」
毎年来ているはずなのに、いまさら妻だと紹介しているところを見ると、思っていた以上に二人は会っていないのかもしれない。それともこの女性は、ディルクのことを一方的に知っていただけなのだろうか。確かもともとディルク狙いってアナが言ってた人よね。
「お会いできて嬉しいですわ。私のこと覚えておいでではないようですが」
扇に隠された彼女の口元は、きっと気分的には舌打ちをしていることだろう。目が笑っていない。その女性に挨拶どころか目も合わせないディルクに少し驚く。良い大人、ましてや家族の嫁にそんな態度で大丈夫なのだろうか。
「ね、ねぇ……」
「ディルクの態度はいつものことだから気にされなくて大丈夫ですよ、トワ様」
「え」
お兄さんに名前を知られているとは思ってもおらず、失礼ながらも凝視してしまった。ディルクの手もぴくっと反応していた。
「初めまして、トワ様。聖獣様。いつも弟がお世話になっております。カルド家当主ロイドと申します」
私も挨拶を返そうとすると、その目の前に私を庇うようにディルクが立つ。
「兄上、申し訳ありませんが、彼女は体調が良くないなかここへ来てくれているのです。話があるなら私と」
「お前は挨拶さえさせてくれないのかい? せっかくの機会なのに」
「兄上はどうせ私に関する余計な話をする気でしょう」
「あぁ、お前がまだ小さいころはいかに可愛かったかをお教えしようかと」
あれ? もしかしてこの二人は仲が良いのだろうか。
『ママ、この女の人には気を付けて』
『モカ?』
『この人はずっとママを睨んでるし、悪意の塊しかない』
確かに会ったときからずっと値踏みするような目線を送られている。私とディルクの繋いでいる手を見たときは、扇を持つ手に力が込められていた。
深緑色のドレスに身をつつみ、大きな宝石をつけ、香水の匂いがきつい。これはこの世界の貴族令嬢みんなに言えることだけれど。失礼だけど、ほんわかしていそうなお兄様とは正直合っていないように思う。
「あら? カルド伯爵夫人。こんなところにいらっしゃったのね」
新たな声のするほうを向けば、兄嫁と同じタイプの女性がいた。リボンが付いた淡いイエローのドレスを身にまとい、大きな宝石に香水。顔立ちはミリア様のように甘い顔立ちの女性だった。誰だろう。
「ちょうどお呼びしようと思ってましたの、エミリア様」
顔立ちだけでなく名前まで似てる。
「旦那様は何度かお会いしたことがありますけれど、改めてご紹介いたしますわ。隣領のご令嬢のエミリア様」
「初めまして、皆様方」
カーテシー後の視線の先はディルクのみ。私やモカはどうやら目に入っていないようだ。
「待て……そのネックレスは……」
ロイド様がエミリア様の首にあるネックレスを震える指先で指す。よく見たらディルクも目を瞠っていた。わかっていないのは私とモカだけのようだ。
「ええ、こちらいただいたのです。……婚約の証として」
そのとき、初めてエミリア様が私を見た。馬鹿にした目線で。
「そうですの。義理の父である前伯爵様にも許可いただき、両家とも喜んでいるのですよ。そちらの方々もきっと喜んでくださいますわよね?」
「お前はなにを言っているんだ……? 私はなにも聞いていないぞ!」
「あら、そうでしたか? では、良い機会ですからお伝えしますわね。こちらにいらっしゃるエミリア様と旦那様の弟君との婚約が整いましたのよ」
二人の勝ち誇った視線は私に向けられている。話が聞こえていた周りもどういうことだとざわざわとし出した。
「……え」
私が出せたのはその一言だけだった。まさかこんなところでそんなことを言われると思ってもいなかったから何も頭が回らない。
「ふざけるな。私はそんな女と結婚するつもりは一切ない。兄上、これはどういうことですか!」
「待て、私も知らないんだ!」
「あら、なにか不都合でも? 隣領との交易も盛んになって伯爵家としても大歓迎な結婚でしょう?」
「なにを言っているんだ、お前は!」
ロイド様と兄嫁が言い合っているが、なにも耳に入ってこない。簡単に言うと、ディルクとエミリア様の結婚が決まった。つまり……
「……彼と別れろということでしょうか」
「トワ!」
ディルクが私を信じられないものを見る目で見ているのがわかる。彼のことは無視して、女性二人を見た。
「あら、わたしはそんなに心が狭くなくてよ? 身をわきまえた愛人としてなら許してあげてもいいわ」
「王家の後見があるからといって調子に乗らないことね。あなたはあくまでも愛人よ」
「お義姉様の言う通り、いますぐ引き離そうとしても聞いてくれなさそうだからそれを受け入れるだけよ。このカルド家の家宝のひとつであるネックレスを付けているわたしが正妻。あなたはそのうち飽きられてポイ捨てされるだけの存在」
ロイド様が必死に止めようとするが、兄嫁たちは止めるのも意に介さずそのまま続けた。
「あなた、平民なんですって? 貴族と平民が結婚なんてできるわけないでしょう?」
それに、とくすっと笑いながら私にとってはとどめとなるような発言が続く。
「あなたの年齢は知らないけれど、わたしよりは年上でしょう? 若い方がいいに決まっているわ。子どもを生むなら早い方が良いもの。ディルク様とわたしの子どもだなんてきっと天使のような子よ」
瞬間、耳を覆うようにして手を添えられ、ディルクの視線と合うよう上に向けられた。
「こんなどうでもいい人間のどうでもいい発言なんて聞く必要ない」
「でも、」
「でも、もなにもない。俺が愛してるのはあなた一人で、あなた以外と結婚することは絶対にない。俺が妻にと望むのはあなただけだ」
目線の端ではロキ君にロク君、殿下まで近づいてきているのが見えた。ロイド様たちは言い合いしているし、騒ぎは大きくなっているのだろう。それなのに、周りの喧騒がなにも頭に入らない。いまディルクがすごく嬉しいことを言ってくれたはずなのに、頭の端から流れていってしまう。世界で一番大好きで安心できる温かい腕に抱きしめられているはずなのに。
『ママ、こんな人間の言うことなんて聞いちゃダメだよ』
『でも、家族が……』
『こんな家族ならいないほうがマシだよ』
『でも……』
『ママ』
『わかってる。ディルクが、大事にしてくれて愛されてることも。でもなんか今日は疲れちゃったね……』
「トワ? もう帰ろう」
彼が私の肩を抱くようにして歩き出そうとする。でも、私は一歩も動けなかった。それを、ディルクもモカも不思議に思ったのか、同じように立ち止まって、私を見ていた。名前を呼んでいるようだけど、静寂が私を支配していた。
首を彩るタンザナイトのジュエリーではなく、胸元にあるしずく型の誓晶石をぎゅっと握り締める。これをもらったとき、怪しくて怖かったのも確かだけれど、それ以上に嬉しかった。愛されてることに疑問なんてなにも持たなかった。子どもを生めない私をまるごと受け入れてくれたのもいま思い出しても泣けるぐらいには嬉しかった。それに私たちは来世の約束だってしている。
この兄嫁たちが言っていることが、どこまで本当なのかはわからない。ミリア様だって自称婚約者だったけれど、実は覚えられてすらいない存在だった。初めて聞いたようだったディルクとロイド様の反応を見れば今回のも虚偽の可能性は高いだろう。
でも、今日は疲れた。
せっかくこんなに綺麗にしてもらったのに。
こんな気分にはなりたくなかったのに。
いますぐここからどこかへ——
「……消えたい……」
そう呟いた瞬間、手にしていた石が目を開けられないほど光を放つ。
「ママっ!!」
最後に聞こえたのはモカの声だけだった。
これにて第一章完結です!
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