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テンスイ

一也は部屋の扉の前に立ち、深呼吸をした。自分の部屋だというのになぜこんなに緊張しなくてはならないのだろうか。



セキュリティの虹彩認証システムを解除し、扉を開く。



「ただいまー・・・」


「遅かったなあるじ


玄関に入った瞬間にかかる声。



「テン、怒るなって」


玄関には真っ白な狼が仁王立ちしていた。



この狼はテンスイ。一也の夜の仕事のパートナーだ。


「主は今朝、7時には帰ると言っていた」


現時刻は8時を少し過ぎたところだ。


「なのに主は…「わかった!」」


「わかったからまずは家にあげてくれ」


「・・・まったく。」


まだ言い足りないという表情をしながらも、テンスイはちょうど一也の顔の高さにあった頭を下げた。そう、テンプクは大きい。体高は160cm、全長は3mをゆうに超える。そんなテンスイの頭の上に一也はのしかかる。顔にかかったタオルのようになりながら、一也は体の力を抜き、ほっと息を吐き出す。



帰ってきた一也をテンスイは必ず頭に載せる。昔、一也がテンスイに抱き着いていた幼いころの名残なのだが、これを拒否するとテンスイは拗ねる。朝から放置されていたテンスイにとってこの触れ合いはなにか大事な意味があるようだった。



テンスイは頭を持ち上げ、一也を載せてリビングへと移動した。一也は足をぶらぶらさせながら運ばれている。恥ずかしいなどと言いながらも、もふもふした毛並みに顔を埋めているとなんだか癒され、一也にとっても満更でもないようだ。



「な、テン。なんでいっつも鼻すんすんさせるの?」


ソファーに降ろされた一也が聞く。運ばれるとき、テンスイの鼻はちょうど一也のおなかのあたりだ。


「・・・。」


「え!?なんか答えられないことでもしてるの?」


「気にするな主。特に意味はない。」


実は女のにおいがしないかどうかチェックしてる、などと正直に答えることはできないテンスイだった。ちなみにテンスイはメスだ。



釈然としないものの、一也は立ち上がって夕食の支度を始めた。後ろからテンスイが、7時に帰ってきていたらもっと主に触れていられたのに、今日は毛を梳いてくれるのではなかったのか、などと文句を投げてよこしていたが、いつものことなので無視する。



遅れて帰ってきたときのテンスイはきまって機嫌が悪い。一緒にいられる時間が減るのが気に食わないようだ。同じ部屋に暮らしているのだから、一緒にいる時間が1時間や2時間減ることくらいどうということはないだろう、と言ったら「主は何もわかっていない、馬鹿だからしかたないがな」と長い沈黙のあとに返されたこともある。溜息のおまけつきでだ。



夕食の準備はすでに済んでいる。というのも、お手伝いさんが作ってくれるからだ。料理好きの一也としては、自分の好きなものを自分で作りたいという思いがあるものの、学生と退魔師の二重生活を送っている彼には家事に割く時間がない。そして体が資本の退魔師業、栄養管理が必須であり、専門の知識を持ったお手伝いさんにお願いしているのだ。もちろんお手伝いさんもこちら側の人間――つまり特別災害対策室(特室)の息のかかった人間である。毎日この部屋に来て、掃除・洗濯・夕食の支度をしてくれる。それがおわると一也が帰ってくる前に、テンスイに急かされるようにして帰る。テンスイ曰く「私と主の邪魔をするな。」



ボリュームのある食事を平らげると、一也はお手伝いさんの置いていった特室からの書類に目を通す。この書類には特殊な仕掛けが施されており、魔物を視認できるものでないとただの白紙に見える。一也個人宛ての書類だとさらに複雑で本人でしか解除できないセキュリティがかけられるのだが、今日の書類は退魔師全員への連絡だったようだ。



あるじ、こっちに座れ」


テンスイから呼ばれる。こっちとはテンスイの傍ということで、器用にも、横たわったテンスイの前足と後ろ足の間に座布団がしかれている。いや、敷いた座布団を囲むようにテンスイが横たわったのか。


「はいはい。」


言われるがまま、座布団に座り、テンスイを背もたれにしてくつろぐ。書類の続きに目を通しながら、背中から伝わるテンスイの体温を心地よく感じる一也だった。



ちなみにテンスイは夕食をとっていない。そもそもテンスイは食物を食べない。動物ではないからだ。



テンスイは魔物である。しかも、現在の特室では最強と呼ばれる内田一也にしか退魔することのできない最高位の魔物なのだ。

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