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救世主じゃないと何度言っても聖女様の微笑みは崩れません。ただし俺が名前を呼んだ時だけは別のようです  作者: 佐木凛人


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3/3

俺は神様じゃない

 翌朝、宿を出てから、俺はずっと考えていた。

 祭壇のことも、野盗のことも、震える商人のことも。そして、一年間たった一人で神殿にいたという少女のことも。

 

 街道を並んで歩きながら、エリサは時折俺の歩幅に合わせて足を止めた。昨日までは気にも留めなかった気遣いが、今日は妙に胸に引っかかった。

 

「エリサさん」

 

「はい」

 

「少し、休みましょう」

 

 街道から外れた木陰に、倒木が一本あった。俺はそこに腰を下ろし、隣を示した。エリサは一瞬、聖画のような微笑みのまま固まった。

 

「私が、ユーリュ様のお隣に……?」

 

「ええ、どうぞ」

 

「――はい……!」

 

 おそるおそる、白い法衣の裾を整えて座ったエリサは、膝の上で両手を握りしめていた。頬が薄く色づいていた。さっきまで聖女の仮面だった顔が、座った途端に十八歳の少女の顔に戻っていた。

 俺は懐から、一枚の古い紙を取り出した。

 

「昨日、雑貨屋の店主に借りました。この町の医師が出した診断書です」

 

「はい」

 

「子供の頃、この地方で流行った熱病の後遺症について書かれています。虹色の痣が残る症例が、当時の患者の三割に見られた、と」

 

「はい」

 

「つまり、俺の痣は、聖典の『神の印』ではありません。ただの病気の痕です。この地方には、俺と同じ痣を持った人間が、少なくとも数百人いる」

 

 エリサは俯いたまま、紙の上に視線を落としていた。

 長い沈黙があった。

 やがて、彼女は小さく、笑った。

 聖女の微笑みではなかった。泣きそうな、困ったような、子供の笑い方だった。

 

「――存じております」

 

 俺は息を止めた。

 

「ユーリュ様」

 

「……はい」

 

「存じておりました。最初から、全部」

 

 エリサの瞳から、ぽろりと、一粒涙が落ちた。

 

♢♦︎♢

 

「聖典の予言は、十二の条項と一致すれば救世主と認められます」

 

 俯いたままの声は、震えていた。

 

「ユーリュ様に当てはまるのは、四つだけでございました。『東の道』『銀髪ならざる』『旱魃の年』『虹の印』。残る八つの条項――『神殿に自ら辿(たど)り着く』

 『最初の言葉が黎明の祈りである』『聖なる獣を従える』……一つも、合致しておりません」

 

「じゃあ、どうして」

 

「それしか、私にはなかったのです」

 

 涙は止まらなかった。静かに、だが途切れることなく、白い法衣の膝に染みを作っていった。

 

「師が亡くなった夜、私は神殿で一人、経典を抱いて朝まで泣きました。翌朝に日が昇った時、私は――何者でもなくなっておりました」

 

 彼女は俺を見なかった。遠くの、何もない空を見ていた。

 

「オーリンジ教の聖女は、救世主をお迎えするために存在いたします。救世主がいなければ、聖女も、教団も、意味がございません。師が生前、『いつか必ず救世主が現れる』と仰っておられましたので、私はそれを信じて参りました。十八年間、神殿から出ることも許されず、ただ、お迎えする日のために」

 

 俺は何も言えなかった。

 

「師が亡くなり、一年が経ちました。どなたもいらっしゃいませんでした。私は……少しずつ、分かっておりました。予言は、師が私を神殿に留めておくための、優しい嘘だったのかもしれないと」

 

 震える手が、膝の上の拳を握りしめた。

 

「それでも、私は信じようと致しました。信じなければ、私の十八年は、何一つ意味を持たないのです。信じなければ、私は……ただ、神殿に閉じ込められていただけの、何者でもない娘になってしまう」

 

「エリサさん」

 

「旱魃の夏、東の道を、痣のある若者が歩いていらした。条項は四つしか合致しておりませんでしたが、私は自分に言い聞かせました。これは神の思し召しだと。四つで十分なのだと」

 涙を拭いもせず、エリサは初めて俺を見上げた。

 

「ごめんなさい、ユーリュ様。私は、あなた様を巻き込みました。あなた様は何も悪くないのに、本来の目的から引き離し、町の人々に怯えられる立場に置きました。全部、私の弱さでございます」

 

 聖女の微笑みは、もうどこにもなかった。

 

 赤く腫れた目をして、鼻を啜りながら、ぐしゃぐしゃの顔で、ただの十八歳の少女がそこにいた。

 

♢♦︎♢

 

 俺は、しばらく何も言えなかった。

 何か言わなくてはいけない、と思った。慰めでも、諭しでも、別れの言葉でも、何でもいい。ただ、この少女の十八年の重さの前に、俺が用意できる言葉はあまりに軽かった。

 ようやく俺が口を開いた時、声はかすれていた。

 

「――エリサさん」

 

「はい」

 

「俺は、神様じゃありません」

 

「……はい」

 

「救世主でも、預言者でもない。ただの行商見習いです。十八年、あなたを待たせていた誰かでもない」

 

「はい」

 

 エリサは黙って頷いた。もう逆らう気力もないようだった。

 

「でも」

 

 俺は続けた。

 

「ただのユーリュでよければ、隣にいます」

 

 エリサが顔を上げた。

 

「あなたを巻き込んだのは、あなたの弱さかもしれない。でも、一人で十八年間、予言を信じ続けた人を、一人で神殿に帰すのは、俺にはできない。神様の代わりは務まらないけど、隣にいるだけなら、俺にもできます」

 

 海色の瞳が、ゆっくりと見開かれた。

 次の瞬間、エリサの顔が、くしゃりと崩れた。

 笑っているのか泣いているのか、分からない顔だった。頬が赤くて、目から涙が溢れて、口元は震えながら笑っていて、鼻の頭まで赤くなっていた。

 聖女の仮面でも、恥じらいの少女でもない、十八年分の感情が全部一度に噴き出した顔だった。

 

「――はい」

 

 声が、震えた。

 

「はい、ユーリュ様」

 

 両手で口を覆った彼女は、しばらくそのまま、ただ頷き続けていた。

 

♢♦︎♢

 

 それから、一ヶ月後。

 隣町の親方のもとに戻った俺は、以前と同じ行商見習いの仕事に戻っていた。

 ただ、住まいが変わった。街外れの小さな家を一軒借りて、そこにエリサも住んでいた。経典と、師の肖像画と、最小限の荷物を持って、彼女は神殿を後にした。

 オーリンジ教は、公式には、先月をもって解散した。

 ――公式には。

 親方の家に荷を降ろして戻ると、エリサは台所で夕食の支度をしていた。白い法衣は着ていない。街の娘と同じ、簡素な木綿の服を着ている。金髪を後ろで一つに束ねて、鍋の前で真剣な顔をしていた。

 

「ただいま」

 

 振り返った彼女の顔が、花のように綻んだ。

 

「お帰りなさいませ、ユーリュ様……!」

 

 頬を赤くして、両手を前で握りしめて、海の色の瞳を輝かせている。十八年の聖女だった娘の、ただの恋する顔だった。

 可愛い、と素直に思った。

 俺は上着を脱ぎ、食卓についた。食卓の隅に、見覚えのある小さな帳面が置かれていた。

 表紙に、丁寧な字で題字が書かれている。

『ユーリュ様の日々』

 開いてみた。

 今日の朝、俺が食べたパンの枚数。昼に立ち寄った村の名前。夕方に笑った回数。俺が親方と話した時間と、その時の表情。隣家の娘が俺に挨拶をした日付と、その娘の名前と住所。街外れの若い商人が俺を振り返った日と、その商人の特徴と行商の経路。

 (ページ)の後ろの方には、きちんと分類された表があった。

 「感謝対象」と「警戒対象」。

 感謝対象の欄には、俺に親切にしてくれた人々の名前が並んでいた。

 警戒対象の欄には――俺の親方、隣家の娘、街外れの若い商人、それから俺の家族の名前までが、きちんと並んでいた。

 

「エリサさん」

 

「はい」

 

「この帳面は」

 

「救世主様のお日々を、記録しております」

 

 台所から振り返った彼女は、聖画のような微笑みを浮かべていた。

 海色の瞳は、穏やかで、澄んでいて、昨日までと何一つ変わっていなかった。

 

「救世主様は、もう信仰いたしません。約束いたしました」

 

 エリサは鍋をかき混ぜながら、歌うような声で続けた。

 

「ユーリュ様お一人を、信仰いたしております」

 

 俺は静かに帳面を閉じた。

 窓の外で、夕日が街を赤く染めていた。

 台所からは、エリサの鼻歌が聞こえていた。それは、オーリンジ教の古い祈祷歌の節だった。

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