神託の誤配送
旱魃の夏は、一滴の雨さえありがたい。
俺は東の街道を外れた小道で、古びた石造りの建物を見つけて足を止めた。雨はまだ小降りだが、このあと本降りになるのは空の色を見れば分かる。商売道具を濡らすわけにはいかない。
「お邪魔します」
扉は半開きだった。中に入ると、埃と蝋燭の匂いが鼻をついた。
祭壇らしきものがあって、剥げかけた壁画が壁に残っていた。どこかの教団の神殿跡らしい。ただ、人がいる気配はない。
「――お客様ですか?」
背後から涼しい声がして、俺は飛び上がった。
振り返った先に、白い法衣の少女が立っていた。金色の髪を肩のあたりで切り揃え、瞳は海の色をしている。俺より数歳は下に見えた。
「雨宿りでしたらどうぞ。あいにく何もない神殿ですが、お茶くらいはお淹れできます」
少女は微笑んだ。よく整った、聖画に描かれるような微笑みだった。ありがたく応じた俺は、奥の小部屋に通されて、古い木のテーブルについた。
「変わった場所ですね。こんな山奥に神殿があるとは知りませんでした」
「オーリンジ教と申します。ご存じないのも無理はありません。数百年前にほとんど絶えた小さな教団ですから」
「ほとんど、ですか」
「はい。いまは私一人です」
彼女は、エリサと名乗った。
エリサは、湯気の立つカップを俺の前に置いた。乾いた花の香りがする茶だった。
「お一人で、こんな広い神殿を?」
「師が一年前に天へ召されましたので。でも、ちょうど良い頃合いだったのだと思います」
ちょうど良い、という言葉の使い方に引っかかった。が、深入りする話でもない。俺は茶を啜って、雨音に耳を澄ませた。
「行商のお仕事ですか」
「見習いです。親方の荷物を運ぶ途中で」
「お名前をお伺いしても?」
「ユーリュといいます」
エリサが小さく息を呑んだ。
気のせいかと思うほど一瞬のことで、彼女はすぐまた穏やかな笑みに戻った。ただ、俺を見る目の奥が、何かに焦点を合わせたように深くなった気がした。
「――失礼ですが、ユーリュ様。腕に何か、痣のようなものはございますか」
俺は反射的に左腕を見た。
肘の内側に、子供の頃からある虹色の痣がある。この地方で何年かおきに流行る風土病の後遺症で、治った証しみたいなものだ。別に珍しくもない。
「ありますけど、これただの病気の痕で――」
言い終わらないうちに、エリサが椅子から立ち上がり、床に膝をついた。
ことり、とカップの置かれる音が異様に大きく響いた。
「お待ちしておりました」
彼女の声は、澄んでいた。
「救世主様」
俺は茶を噴き出しかけて、慌てて飲み込んだ。
♢♦︎♢
「いや、あの、待ってください。救世主って、なんの話ですか」
「オーリンジ教の聖典にございます。『旱魃の年、東の道を歩む、銀髪ならざる若者に、神の印が現れる』」
頭を垂れたままエリサは一息に言った。
「該当する条件が多すぎるでしょ、それ」
「印は一つではございません。虹の色をした神の手形。ユーリュ様の腕にあるものと、聖典の記述が完全に一致いたします」
「だから、これは病気の――」
「救世主様はご自身の使命を謙虚にお隠しになる、と聖典の第四章にも」
何を言っても、全部向こうの台本に組み込まれていく。
床に跪いたままのエリサをどうにか立たせようと、俺は彼女の肩に触れようとして……やめた。触れていいのか分からなかった。
相手は聖女で、俺は平民だ。
「エリサさん、顔を上げてください。俺はただの行商見習いで」
「はい」
顔を上げたエリサは、微笑んでいた。ついさっきと同じ、整った聖画のような笑みだった。床に跪いたまま、俺を見上げる角度で、一寸も表情が動かない。
ぞわり、と背中に何かが走った。
この違和感はなんだろう。
「雨が強くなってまいりました。今夜はぜひお泊りくださいませ。お荷物もそのままで結構です。明日の朝、旅立ちの儀の準備を整えてお見送りいたしますので」
「いや、雨が上がり次第出ます」
「はい」
やはり笑顔だった。
雨は結局、夜まで止まなかった。俺は客間に通された。ちゃんとした寝台があって、清潔な敷布が敷かれていた。こんな廃教団に寝具の備えがあるのがまず不思議だったが、指摘する気力はなかった。
深夜、俺は目を覚ました。
出ていこうと思った。雨はやんでいるようだった。明日の朝にはきっと、もっと面倒なことになっている気がする。
荷物を抱えて、足音を殺して客間の扉をそっと開けた。
廊下に、白いものが見えた。
蝋燭の灯りの中、エリサが正座していた。背筋はまっすぐで、膝の上に両手を揃え、閉じた目には長い睫毛の影が落ちていた。
俺が扉を開けた音で、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「お目覚めでしたか」
笑顔だった。
「お目覚めの刻を、お待ちしておりました」




