夜闇の出会い
私は、何か大切な事を忘れているんじゃないか。
ジークの態度を見ていると、そんな考えが胸に浮かんでは消える。
ジークが、ううん、周り皆が、何かを隠しているのは確かだ。お父様も、イザベルも、領民も、私に何かを悟らせまいとこのイスヴァーレン全体で隠している。
きっと、それは私の為なのだろう。私に何かを知らせたくないから、何事もなかったように振る舞っている……そんな気がするのだ。
その何かが、私には分からない。
私は何かを忘れているのだろうか。大切な、何かを。
思い出せ、そう言われている気がするのに、同時に忘れたままでいて、と囁かれている気もする。
相反するものがぐちゃぐちゃと絡み合って、私を膠着状態に誘う。
このままで居るのがきっと楽なのだろう。
見なかった事にして、疑問に引っ掛かる事もなく素通りして、忘れて、そのまま穏やかに過ごすのが一番心が平穏で、健やかだ。
けど――クレメンティーネ様は仰ったのだ。
『過去に囚われず今を愛せたなら』
『過去から目を背けないで』
矛盾しているように聞こえるこの言葉は、私に過去を受け止めて、その上で今を大切にしろ、と言っているのだと思う。
……私が忘れているものを思い出して飲み込まない限り、ジークにかけられたものは解けないんじゃないかって。
そう思うと思い出せない事がもどかしくて、眠れなくて……気付いたら、とっくの昔に日付も変わっていた。
部屋は不気味な程静かなのに、私の心はざわついたまま。凪いで欲しいと思うのに、思えば思う程焦燥が胸を波立たせていく。
苦いものが込み上げて来さえして、私は素直に寝る事を諦めた。
ベッドから抜け出て、バルコニーに。
少し夜風に当たって星空を見れば心も多少なりと落ち着くんじゃないか、そう思っての事だったのだけど、別の意味で落ち着かない光景が待っていた。
「……ジーク?」
隣の部屋のバルコニーにも、ジークが居た。
そういえば、隣はジークに与えられた部屋だった。
どちらにせよ将来与える部屋なのだから使えばいいだろう、なんて、お父様がその部屋に荷物を運ばせたのだ。ジークならなにもしない、という信頼があったからこそなのだけど。
うん、それは、良いのだけど……こんな時にエンカウントするとか聞いてない。
「マリーか、……っ」
「ジーク?」
ジークも私に気付いて声をかけてくれた、のだけど……何だか息を飲んだ。
びっくりしたにしては遅いし、何というか視線が渦を描くように逸れていて……普段のジークらしからぬ態度に、困惑してしまう。
「……どうかした?」
「あー、いやうん、まあ良いんだけど……うん。……マリーはどうしてこんな時間に外に?」
「多分ジークと同じよ。……眠れないから、外の空気を吸いに」
ジークは早寝早起きがモットーというか、朝鍛練する為に早起きするらしくて必然的に夜は早めに寝てしまう。如何にも健康優良児みたいで可愛く思ってるのは内緒だ。
そんなジークが珍しく夜中に起きていてしかもバルコニーに居たのだから、寝られないのだと直ぐに分かる。
当たりだったのかジークはほんのりと頬を染めていて「いやまあそうだけどな」と視線が斜め上に向く。
……さっきから何なのだろう。
「ジーク?」
「マリー、……俺としては目の毒だぞ」
目の毒、と言葉を反芻して自分の格好を見て……あっ、と声が漏れた。
……ね、寝間着一枚、だった。いえ、別にそこまで露出がある訳ではないのだけど、布地が薄いかもしれない。あまり異性に見せるような姿ではないのは確かだ。
「……マリーはそういう所が無防備で困る。家の中だからって、油断し過ぎだ。……今回ばかりはマリーに責任がないが、俺が居た時点で多少警戒はして欲しかったかな」
「……ご、ごめんなさい」
「いや、俺としては役得だが」
「もう!」
「ごめんって」
からかってくるジークが一瞬男の眼差しになっていて、何だか体が熱くなってしまう。
夜風に当たるのが丁度良いかもしれないけど、何というか、気恥ずかしいというか……。何もされない、とは分かっているのだけど、羞恥心が全く発動しないかと言ったらそうでないし。
一応両肩を抱くようにして前を隠すのだけど、ジークはほんのりと苦笑いをするだけ。
「……マリー、本当は今すぐ化粧着でも羽織って欲しいんだよ。俺が幼馴染で婚約者で比較的紳士的にしているからって、ちゃんと警戒はしてくれよ? じゃなきゃ」
「じゃなきゃ……?」
「こういう事になるかもしれないぞ」
そう言うや否や、ジークはひょいっと手すりを乗り越えて此方にやって来た。
悲鳴を上げかけたのは、幾ら隣の部屋だからって地味に距離のあるバルコニーから私の部屋のバルコニーに移ってきたからだ。子供の時ならまず出来ないような芸当なのだけど、落っこちやしないかとはらはらしてしまった。
あっさりと飛び移ってきたジークは、硬直する私に近寄って、手を伸ばす。
簡単に捕まってしまったのは、私もジークが何かするなんて思ってなかったのと、唐突すぎて頭がついていかなかったせいもある。
引き寄せられたと思ったら、屋敷の壁に押し付けられる。
すっかり成長したジークは簡単に私を覆い被せる事が出来るらしくて、月明かりを背負ったジークで私の視界は大部分を満たされていた。
微かに部屋から漏れてくる灯りと月明かり。それだけしかないこの空間は、何だかいつもより不安感と、妙な胸の高鳴りを生み出す。
ジークの顔が近くまで近付いてきて、吐息が肌を擽って。
「隣の部屋にされたのは信頼されているからだって分かっているが、俺の心変わりで夜這いくらいかけられる事は理解して欲しいかな」
「あ、」
「今回は俺が悪いのだけど、いつまでも俺を子供だと思わない方が良いぞ。俺だって、それなりに男だから。……良いな?」
ぞっとする程艶やかな笑みを浮かべたジークは、私の唇ではなくて首筋に顔を近付けて――触れた瞬間、薄闇に眩い光が広がった。
「……今口にキスしてなかったわよね」
私の視界にはもう遮るようなものはなく、視線を下ろせば仏頂面の可愛いジークが居た。
金糸をぐしゃりと掻き上げて何処かもどかしげに眉をひそめている姿は、何というか子供が癇癪を起こしたようで愛らしいとか言ったら多分怒られるだろう。
昔では有り得ない表情なので、新鮮というかちょっとどきどきだけど。
「……そうだな。ああくそ、条件が見えてきた」
「条件?」
「……これは俺が気を付けてもマリーが気を付けなきゃ、俺にもどうしようもないぞ……!?」
「えっ、な、何……?」
条件? と首を傾げると、ジークは頭を抱えている。
言おうか言わまいか悩んだように此方を窺ってくるものの、少し時間をおいてから躊躇いがちに唇を開いた。
「……つまり、キスとか含めて、男として君を求めたら俺は子供になるらしい。キスは即アウトで、他が俺の忍耐次第らしい」
……男として、求めたら?
一瞬何が言いたかったのか分からなくて暫く言葉の意味を理解しようと脳内で咀嚼していたのだけど、噛み砕いた瞬間一気に熱が全身に回る。
じ、ジークが言わんとする事は、よく分かったというか……その、えっと……ジークが私を大好きなのを、再確認したというか。
異性として好きで、妻として欲する、のだから……そりゃあ、そういう事を求めるのも、当然なのだけど。あの可愛かったジークの知らない一面をまざまざと見せ付けられたというか。
怖い、とかそういうのは浮かばなかったけど、ただひたすらに居たたまれないというか……兎に角、恥ずかしさはすごい。嫌じゃないけど、まだそういう事は考えられないというか……!
どう飲み込めばいいのか分からなくて、ただ赤らんだ頬を晒す事しか出来ない私に、ジークは何処か慌てたように瞳を開く。
「誤解しないでくれ、幼児化したらそういう事を考えてるという訳じゃない。流石にそんな節操なしで変態なつもりはないから」
「う、うん……」
「キスしたいとか触れたいとか、そういう欲に反応してるんだろう。触れられない訳ではなく、俺がある一定ラインを越えようとしたら駄目なんだ。……聖人にでもなれと……?」
絶望したように項垂れているジーク。
「……じ、ジークは、私に触りたいの……?」
「そりゃあ俺だって男だからね。こんな枷がなければ積極的にスキンシップに励みたいよ。……勿論、無体はするつもりはないぞ。合意の上で触れたいし」
触りたい、のは否定しなかった。
でも意思は尊重してくれる所はジークらしいというか、やっぱり紳士的なのは変わらない。……紳士的というか、積極的さはあるけどね。
ジークには悪いのだけど、小さくなるっていう制限があってよかった。
心臓が持たないし、多分私は押されたらなし崩しに許可したと思うし。ある程度のところでストップがかかってくれるのは、嬉しいというか安心出来るのだ。
「……い、嫌とは、言わないけど……その、……ちょっとずつ、が、良いわ」
「……例えば?」
「手を繋ぐとか、普通にぎゅっとする、とか」
清き交際ならその辺りからが妥当だと思うの。き、キス、とかは……その、もっと仲良くなってからだし……そもそも小さくなっちゃうし。
嫌とかじゃないんだけどね、嫌とかじゃないんだけどね、恥ずかしいし、まだ恋心とか、はっきりしてない、し。
「していいのか?」
「……な、慣れて、いきたい、もの」
「……そうか。……じゃあ、少し良いかな。マリー、ちょっと屈んで?」
言われた通りに屈むと、ぎゅうっと抱き締められた。
……どきどきしないのは、多分ジークが子供の姿だからだろう。子供に抱きつかれると可愛いなあ、ってなるんだけど、大人のジークだったらこんな余裕はないだろう。
私に余裕が見えているのかジークはやや苦笑して、それから私の頬にかかった髪を払って……頬に軽く唇を当てた。
流石にこれには固まったのだけど、ジークの悪戯っぽい笑みを近くで捉えて頬が自然と赤らむ。
……が、外見可愛い子供だけど、中身は歴とした大人だものね……。昔のあどけなさ自体が戻ってきた訳じゃないから、その、やる事は存外、大人びて見えるというか。
昔なら無邪気に喜んでお返ししたけれど、今は無理……!
う、と息を詰まらせた私に満足げな表情のジーク。……大人でも子供でもジークには敵わないとよく分かるよ出来事だ。
純粋なる好意からのキス、だし、私も嫌ではないから突き飛ばしたりは出来ない。ずるい。私を揺さぶるのが得意な人だ、本当に。
もう、とそっぽを向いても視界の端にはジークのしたり顔がちらついて、頬の熱はまだまだ引きそうにない。
ジーくは私の反応にご満悦のようで、そっと離れては無邪気な笑みを浮かべる。……中身が無邪気じゃないと分かるけども。
「じゃあ夜も遅いし、そろそろ寝ようか。おやすみ、マリー」
「おやすみなさい、ジーク……あ」
漸く心臓が落ち着く、と思ったのだけど、重大な事に気付いた。
……ジーク、背がかなり縮んで、私と頭一つ分くらい違うよね。
戻るのに、数時間はかかるわよね。
「マリー?」
「……ジーク、自室の鍵閉めてる?」
「え? ああ、一応ね。それがどうかしたか?」
何か問題が? と可愛らしく小首を傾げたジークに、私はどうしたものかと額を押さえながら気付いた事を告げる。
「……夜だし、距離があって危ない、と思うの。その体じゃ」
我が家のバルコニーの手すりは、胸くらいまではある。幼い頃のやんちゃな私たちの落下防止の為、と高くしてあったらしい。
つまり、ジークの身長とほぼ変わらない訳で……その上、私の部屋のバルコニーとジークの部屋のバルコニーは、ちょっと距離がある。
大人のジークは背丈も伸びたし手足も長く、筋力もあったから平然と乗り越えてきた。
けれど、この暗い状況で、慣れない小さな体で、自分と同じくらいの手すりを乗り越えて危なげなく戻れるだろうか。
私が言いたい事を正確に理解したらしいジークは、あどけない容貌をひきつらせた。
多分、こうなるとは予測していなかったのだろう。
「……どうしよう」
二人して、途方に暮れた。




