第六章 製造工法の謎
――翌日。
神崎が会社に出社すると、田町は神崎に声を掛けた。
「神崎さん、おはようございあっす」
「おはよう、田町」
「神崎さん、昨日は昼から早退なんて珍しいじゃないっすか」
「ああ、ちょっと急用があってね」
「何の急用っすか?」
田町が神崎の顔を覗き込む。
「んん……」
(鋭い、女の勘か?)
「田町、ちょっといいか」
「何っすか?」
「実は相川真理に会って来たんだ」
神崎が田町のユニフォームを引っ張って彼女の耳元で囁く。
「えっ! マジっすか!」
「こら、大きな声を出すなよ」
田町が大きな声を出して驚くと、神崎は慌てて彼女の口元を右手で塞いだ。
「うぐっ! 神崎さんセクハラっす!」
「違う、違う! 絶対違うし!」
神崎が焦りながら周りを見回して、解析技術課の連中に頭を下げる。
「後で話してやるよ」
「ほんとっすか」
「ああ、ほんとさ」
神崎は田町にそう言うと、彼女の口元から右手を離して微笑んだ。
始業のチャイムが鳴って朝会が始まる。
朝会が終わると、神崎は中村課長のデスクに向かった。
中村課長がこちらに振り向く。
「何だね?」
「課長、時間ありますか?」
「ちょっと待ってくれ。午前中は会議でつまっているな、昼からなら空いているよ」
中村課長はデスクのPCで業務スケジュールを確認した。
「ブラックウエハの件で報告があります」
「何か分かったのかね?」
「ええ、昨日、星野由美に会って来ました」
「何だって? 彼女の所在をどうやって調べたんだ」
「顔見知りの探偵に、彼女の所在を調べて貰いました」
「で、どうだったんだ」
「色々と事情が分かりました」
「分かった、じゃあ、人事部長と技術営業課長に連絡しておくよ」
「いえ、まずは中村課長に報告を聞いて頂きたいんです」
「どうして?」
「事情を話すと長くなります。詳しい事は昼から報告させて頂きます」
「よし、その報告を是非聞かせてくれ!」
「田町も同席させます。よろしいですか?」
「いいだろう」
中村課長は神崎から事情を聞かずに昼からの業務スケジュールを空けた。
――午後一時。
神崎が田町を連れて課内のミーティングルームに入る。
「早速ですが、報告させて頂きます」
「よし、頼む」
「星野由美の住所は桜川市南川一丁目十一番地一号で、本名は相川真理、桜川情報高校の三年生です」
「何だって? 彼女は高校生なのか?」
「ええ、そうです。現役の女子高生です」
「女子高生が、なぜ、うちの会社の技術データーなんか盗んだんだ?」
「それを、これからお話し致します」
神崎は昨日の状況を正直に中村課長に報告した。
「恩師の娘さんだと言う事は理解したが、彼女が我が社の技術データーを盗んだのは事実だ」
「技術データーを盗んだ事については、彼女もじゅうぶん反省していますし、私の前で両手をついて謝りました」
「ほう、そうか」
「課長、今回の事は私に免じて、彼女を恩赦してやって頂けないでしょうか、お願いします」
神崎が中村課長に深々と頭を下げる。
「神崎、頭を上げろよ、お前は何も悪い事をしていないじゃないか。分かった、この件は穏便に事を済ませよう。田町もどうだ、彼女を許してやるかい」
「神崎さんのお願いなら、何だってOKっすよ!」
「お前、神崎に惚れているだろう」
「なっ、何を言ってるんっすか! 課長、セクハラっすよ!」
「ははは、いつでも仲人をしてやるぞ!」
田町は中村課長に冷やかされて顔が真っ赤になった。
「神崎、今日は忙しいか?」
「はっ?」
「たまには俺に付き合え」
中村課長が右手でグラスを持つ仕草をする。
「はぁ……」
「お前の友人の探偵も呼べよ」
「えっ?」
「その探偵に会ってみたいな、彼は忙しいのか?」
「いえ、彼は毎日暇ですから、たぶん大丈夫です」
「そうか、それじゃあ、決まりだ。社門の前に午後七時集合。田町もだぞ」
「えっ、私もっすか?」
「何だ、お前は都合が悪いのか?」
「いえ、飲み会なら毎日でもOKっすよ」
「そうか、じゃあ、そういう事で」
中村課長は神崎の報告を聞き終えると、軽く右手を上げてミーティングルームから出て行った。
「俺、中村課長の事、見直したよ」
「中村課長って、結構いい男っすよね」
二人が中村課長の背中をしばらく見つめる。
「さてと、本日の業務を急いで片付けるとするか」
「そっすね、神崎さん」
神崎が田町の肩を叩くと、田町はニコッと微笑んだ。
――クリーンルーム。
「えーと、それじゃあ、A社の接合評価から行くか」
神崎はクリーンルームに入ると、試料の保管庫から急いで評価サンプルを取り出した。
「神崎さん」
誰かが神崎に声を掛ける。
神崎が振り返ると、生産技術課の吉田が立っていた。
「何だい、吉田君」
「この前のブラックウエハなんですけど」
「ああ、再検データーの件か、吉田君のお陰で助かったよ、どうもありがとう」
「神崎さん、これを見て下さい」
吉田が焼け焦げた部品を手に持って神崎に見せる。
「何だい、これ?」
「これは評価装置のチャンバー(反応器)内の部品なんですけどね」
「見事に焦げているじゃないか、いや、これは溶けているな」
「そうなんです、ウエハ評価の前にチャンバーの内部をちゃんと確認したんですが、その時は大丈夫だったんです。ウエハ評価の後に確認したらこの部品が溶けていたんですよ、なぜでしょう?」
「『なぜでしょう?』って俺に言われてもな……」
「この部品は耐熱温度が一千度もあるんですよ。こんな部品が溶けるなんて考えられません」
「一千度? その部品の材質は何だ?」
「詳しくは知らないんですけど、絶縁物だと思います」
「耐熱温度が一千度もある絶縁物が溶けた? ちょっとチャンバーの内部を見せてくれるかい?」
「ええ、いいですよ、チャンバーの本体は大丈夫でしたから。ああ、神崎さんちょっと待ってください。ウエハ観察用の紫外線LED照明が点灯していますから消しますね」
吉田は紫外線LED照明のスイッチを切って、通常照明に切り替えた。
神崎がチャンバーの内部を覗くと、確かにその部品の取り付け箇所が激しく焼け焦げて損傷していた。
「チャンバーの内部はステンレス製だよな」
「そうです」
「うーん」
神崎が腕組みをして、しばらく考え込む。
(もしかすると、これはマイクロ波の影響なのか……ブラックウエハは紫外線が当たると、自己発振してマイクロ波を発生させるんだ。きっとそうに違いない。これは間違いなくマイクロ波の影響だ! そうか! このウエハは常温でも超電導動作するんだ。しかも非接触の光発電で電源供給するのか……凄いウエハだな。しかし、常温の駆動制御に失敗すると暴走する危険性があるんだ)
神崎はチャンバー内の部品が溶けた原因はマイクロ波の影響であると確信した。
「吉田君、その部品のスペアーはあるのかい?」
「ええ、補修用パーツが一個あります。でも、原因が解らないので交換が出来ないんですよ」
「交換しても大丈夫だよ、正常に動くはずだから」
「そうですか?」
「俺が保障するよ。故障の原因は装置じゃなくて試料のブラックウエハだ。部品の交換費用は解析技術課の予算で落としてくれていいよ、俺の責任だからね」
「神崎さん、この補修用パーツは結構高いですよ」
「研究費で処理するさ、気にしないでくれ」
神崎が吉田にそう言うと、吉田は安心して部品の交換作業を始めた。
「さて、俺も自分の仕事を片付けるとするか」
神崎は早急にサンプルの解析作業を始めた。
――午後七時。
神崎がセキュリティカードを保安所のキーボックスにかざして会社の社門を通り抜けると、金城の姿が見えた。
「今日は何だい? 会社の前で待ち合わせなんて珍しいじゃないか」
「昨日の一件を会社で報告したら、課長がお前に会ってみたいって言うからさ」
「俺に会いたいってか?」
「そうさ、それで誘ったのさ」
「物好きなオッサンだな、俺は男に興味はないけどな」
「まあ、そう言うなよ、田町も来るからさ」
しばらくして、中村課長と田町が社門から出て来た。
「すまん、すまん、待たせたな神崎」
「いえ、私も、社門を出たところです」
「あっ、そちらが、例の探偵さんかい?」
「ええ、そうです。彼が探偵の金城です」
「始めまして中村です。昨日は神崎の調査を手伝ってくれたそうだね。ありがとう」
「いえ、とんでもない。でも、まあ、ちょっとは役に立ったかな?」
「じゅうぶん、役に立ってるさ」
金城が神崎の肩を軽く叩いて中村課長に頭を下げると、神崎は金城の肩を叩き返した。
「金城さん、今日は俺が奢らしてもらうよ」
「それじゃあ、お言葉に甘えまして遠慮なく行きますかね」と言いつつ、金城は中村課長に少し遠慮して話し掛けた。
四人が駅前に向かって歩き始める。
通勤路を抜けて一般道に出ようとした時、車が急発進する音が後ろから聞こえた。
みんなが振り返ると、黒色のベンツが凄いスピードでこちらに向かって走って来るのが見えた。そして、そのベンツは四人を目掛けて突っ込んで来た。
「危ない避けろ!」
金城が大声で叫びながら反射的に三人を道路の反対側へ押して、間一髪のところで自分の身を避けると、ベンツは急ブレーキをかけて十メートル程先で止まった。
しばらくして神崎と田町は自力で立ち上がった。しかし、中村課長は自力で立ち上がれない様だ。
「中村さん、大丈夫か!」
「ううっ、左腕が動かない……」
金城が中村課長の元へ駆け寄ると、中村課長は左腕を押さえて呻いた。
「何しやがるんだ! この野郎!」
金城が急停車したベンツに向かって怒鳴りつけると、ベンツのドアがゆっくりと開いて、車の中から黒いスーツ姿の男が四人現れた。車の後部座席から最後に降りた男は金田だ。
「済まねえな、うちの運転手が新米なもんでね。悪い、悪い、中村君」
金田は中村課長の顔を眺めてニヤリと微笑んだ。
「おまえは、猟田、いや、金田か」
「おやおや、俺の事をよく知っているじゃないか」
「なぜ、こんな事をするんだ」
「ブラックウエハの評価データーを全部よこせ」
「何だと?」
金田が振り向いて神崎に視線を向ける。
「お前の評価レポートは実に見事だ。元素分析から製造工法の推測まで出来るその能力には目を見張るものがある。どうだ、俺のところで雇ってやってもいいぞ。年収一億円で契約してやる」
「お断りだ! お前の下でなんか、死んでも働くものか!」
「ははは、お前も欲の無い男だな。それじゃあ出世しないぜ」
金田は神崎の顔を眺めてケラケラと笑った。
「冗談はこれ位で止めだ。ブラックウエハの評価データーを明日の朝七時までに全部持って来い。引渡し場所はここに書いてある。持って来なかったら、お前達と相川真理の命は保障しないぞ」
金田がメモ用紙を握り潰して神崎に投げつける。
「なんて卑怯な奴だ!」
「卑怯だろうが何だろうが、この技術を最初に手に入れた者だけが巨万の富を得るんだ。このウエハの量産技術がどれほどの価値を持っているか、お前もじゅうぶんに分かっている筈だ。それじゃあ、期待しているぜ」
金田が口元を歪めながら車に乗り込むと、ベンツは再び急発進して猛スピードで去って行った。
「中村課長、大丈夫ですか?」
「ああ、何とかな、左手の感覚がやっと戻ってきたよ」
「田町、大丈夫か?」
「私は大丈夫っす」
神崎が中村課長を抱えて田町に声を掛ける。
「神崎さん、駅前に救急病院があるっすよ!」
「よし、そこへ行こう!」
「俺に任せろ!」
金城は中村課長を背負うと、急いで駅前の救急病院に向かった。
――午後九時。駅前の救急病院。
救急の担当医がレントゲン写真を持って、中村課長の診断結果を神崎に説明している。
中村課長が救急治療室から包帯を巻いて出て来ると、金城が中村課長に声を掛けた。
「中村さん大丈夫か?」
「済まないな、金城さん、迷惑を掛けて申し訳ない、軽症だったよ」
「何を言っているんだ、中村さん、重症だよ、骨折だからな」
「警察に連絡しましょうよ! 奴等が悪いんっすよ!」
金城が腕を組んで中村課長の左手を見つめると、田町は怒って靴のヒールで床を蹴った。
「田町、ちょっと待ってくれ、評価データーを渡さなかったら相川真理の家族も危険だ」
中村課長が右手を上げて田町をなだめる。彼は怪我をしていても冷静だ。
「神崎、データーの引渡し場所は何処だ?」
中村課長が神崎にデーターの引渡し場所を尋ねると、神崎はポケットからメモを取り出した。
「データーの引渡し場所は、北上物流第四倉庫と書いてあります」
金城が神崎のメモを取り上げて、倉庫の住所を確認する。
「港区二丁目一番地三号、これは国営倉庫じゃないか! それに、この倉庫は……」
「どうしたんだ金城?」
「これは自衛隊の倉庫なんだ! しかも、管轄は防衛省だ!」
「何だって? なぜ、そんな倉庫を引き渡し場所に選んだんだ? 部外者は入れないじゃないか」
「そうだな、訳が分からんな」
金城はメモを見て首を捻った。
「取りあえず、神崎と田町はブラックウエハの評価データーを全部光ディスクに焼いてくれ、それから、神崎、相川真理の家の電話番号は分かるか?」
「ええ、分かります」
「相川真理の家に電話をしてくれ」
「はい、了解です」
神崎が背広の内ポケットから携帯を取り出して、相川真理の家に電話を掛ける。
「はい、相川です……」
「もしもし、夜分恐れ入ります。神崎です」
「あっ、神崎さん! 大変なの! 真理が誘拐されたわ!」
電話に出たのは、相川真理の母だった。
「何だって!」
「さっき、金田から電話が掛かってきたのよ! 警察に連絡したら真理の命は保障しないって……神崎さんお願い! 真理を助けて! 神崎さんが明日の午前七時にウエハの評価データーを全部持って来たら、必ず返してやると言っているの」
「畜生、何て卑怯な奴だ! お母さん、大丈夫です! 必ず、真理さんを助けます! 奴の欲しがっているウエハの評価データーを全部渡しますから安心して下さい!」
相川真理の母が泣きながら神崎に話すと、神崎は彼女をなだめて携帯を切った。
「中村課長、大変です! 相川真理が金田に誘拐されました!」
「何っ!」
「糞ったれが! ムカつくぜ!」
金城が右手の拳を握って病院の壁を叩く。
その時、神崎の携帯が鳴った。
「はい、神崎です」
「神崎さん、助けて!」
「真理ちゃんか? 今、何処だ!」
「ははは、神崎、相川真理は俺が預かったぞ!」
「金田! お前!」
「神崎! ブラックウエハの評価データーは製造工法の見極めまでしっかりとまとめておけよ!」
「おい、金田! 彼女に手を出すなよ!」
「ああ、お前が完全な評価データーを持って来たら、自由にしてやるさ」
「約束だぞ!」
「ははは、いいだろう、約束してやる! 俺はこれでも義理堅い紳士だ! それに俺はゲイだからな、青臭い小娘に興味は無いんだよ」
「えっ、お前、ゲイなのか……」
神崎が眉間に皺を寄せて顔をしかめる。
「ああ、もう一つ言い忘れていたぜ、ブラックウエハのサンプルも持って来い」
「何だって? サンプルは返却した筈だぞ!」
「それがな、サンプルの返却先を真理お嬢様がちょいと細工しやがったんだ。お前の書いた宅配の宛先を後で書き直して、サンプルを自分の自宅に返却してやがったんだ。それも持って来い! 分かったな神崎! じゃあな!」
金田はそう言うと、相川真理の携帯をプツリと切った。
「田町、会社に戻るぞ! ブラックウエハの評価データーを技術サーバーから全部引っ張り出してくれ!」
「了解っす!」
「金城は真理ちゃんの自宅に行ってくれ。たぶん、サンプルは彼女の部屋に置いてあると思うんだ」
「おお、任せろ! 神崎!」
「それから中村課長、その体で申し訳ありませんが、一緒に会社に戻って下さい。評価データーを外部記録媒体にコピーするには、情報オーナーの許可と暗証コードが必要です」
「了解だ。タイムリミットは午前七時だから、車で会社を午前六時に出発しないと間に合わない。奴は製造工法の見極めまで要求しているからな。これを、あと八時間程度でやり切るのは大仕事だぞ」
「金城、明日の午前六時に車で会社に来てくれ」
「OKだ! 俺のGTRなら三十分で港まで行けるぜ!」
金城が右手で拳を握って力強く神崎に答えると、三人は急いで会社に戻った。
三人は技術事務所に入ると、さっそく仕事に取り掛かった。
田町が技術サーバーにアクセスしてブラックウエハの評価データーを検索し始める。
「中村課長、評価データーの外部記録許可をお願いしまっす!」
「OK、許可する!」
中村課長が田町から飛んだアクセス要求コードを許可して暗証番号を入力すると、評価データーはLAN回線を経由して、光ディスクに次々と転送コピーされた。
※LANは、ローカルエリアネットワークの略。
「これ、かなりのデーター量っすね、神崎さん」
「そうだな、十テラバイトはあるだろう」
三人は光ディスク装置のアクセスランプをしばらく眺めた。
「神崎、光ディスクのコピーは四時間位掛かるぞ、技術サーバーにダイレクトアクセスして技術解析を始めろ!」
「はい!」
「それから事務所の全PCを立ち上げて共有設定しろ。俺のPCのCPUも使っていいからな!」
※CPUはセントラルプロセッシングユニット(中央演算装置)の略。
「了解です!」
神崎が技術サーバーにダイレクトアクセスして生データーを見ながら技術解析を始めると、中村課長は自分のPCのモニター画面で神崎の解析作業を見守った。
「この原子配列は三次元構造になっている為、トンネル効果を利用して電子は高速移動する……更に……」
神崎が評価データーを次々とレポート化して解析作業を順調に進める。
(これは凄い、神崎の頭の中は一体どうなっているんだ! 普通の半導体技術者なら、この技術解析に一週間は掛かるぞ……それを神崎は三十分程度で処理している!)
中村課長は神崎の圧倒的な解析能力に感動すると、腕の痛みを忘れてPCのモニター画面を睨み続けた。
それでも時間は刻々と過ぎて行った。
「中村課長、データーコピーが完了しました」
田町は中村課長にデーターコピーの完了を報告すると、事務所の壁時計を眺めた。
時間は午前三時を過ぎている。
「よし、神崎、少し休憩しよう」
中村課長が椅子から立ち上がって神崎の肩を軽く叩く。
「私、コーヒー入れます」
田町は事務所の台所で来客用のコーヒーを沸かした。
「はいどうぞ、神崎さんのは砂糖いっぱいっすよ」
田町が神崎のデスクに砂糖入りのコーヒーを置くと、神崎はそれを一口飲んでPCのモニター画面を睨み続けた。
「神崎さん、行けそうっすか?」
「あと少しだ。あと少しなんだけど……」
「何っすか?」
「最後に発見したガドリニュウムを、どうやってこの原子配列に並べたのか想像がつかないんだ」
「お前の評価レポートを見て俺もそう思ったよ。これは即在に無い未知の製造工法だろう」
中村課長が左腕をさすりながら神崎に話し掛ける。
「そうです。こんな原子配列は今まで一度も見た事がありません。螺旋状に規則正しく原子を一個づつ積み重ねてあります。しかも、一発形成です。これは現在のウエハプロセスでは不可能な技術です。この原子配列を相川教授はどうやって作ったんでしょうか? これが分かれば評価レポートは完成します」
※ウエハプロセス(拡散工程とも言う)とは、半導体前工程の製造工法(ウエハに回路を形成する工程)で、シリコンウエハの表面にガスや液体で薄膜を作り、熱や光を利用して化学反応させる事で、ウエハ上に回路パターンを形成する。
「これ、ネジみたいな形してますね?」
田町がPCのモニター画面を覗き込んで尋ねると、神崎の表情が変わった。
「ネジ、右ネジの法則、電流を変化させて、磁場を形成しているのか……」
神崎はPCのモニター画面を見つめて目を細めると、キーボードを操作してPCのシュミレーターソフトを立ち上げた。そして、何かのパラメーター(数値)を、そのソフトにインプットした。
――しばらくすると、PCのモニター画面にネジの様な画像が表示された。
「分かったぞ、これは磁界で作ったんだ! しかも、強力な指向性のある磁界だ! そうだ、これだ、相川教授の得意分野は超指向性回転磁界だ!」
※回転磁界は交流電流やパルス電流で発生させる。
神崎が別のパラメーターをシュミレーターソフトに入れ直すと、PCのモニター画面にはブラックウエハと同じ原子構造配列パターンが表示された。
「やった! これで製造工法の秘密が分かったぞ! 田町ありがとう!」
神崎は振り返って田町を強く抱きしめた。
――午前五時。
神崎の評価レポートが遂に完成する。
「よし、田町! 評価レポートも光ディスクに焼いてくれ! それと紙の印刷も頼む!」
「了解っす!」
田町は神崎の評価レポートを最後のディスクに保存してプリンター印刷を始めた。
――午前五時五十五分。
光ディスクと紙の資料が出来上がると、神崎は急いで金城に電話連絡を入れた。
「金城、今、何処だ?」
「神崎、俺はもう会社の前さ、何時でもOKだぜ! サンプルも準備完了だ!」
「よし! これからそっちに行くからな、会社の社門の前に車を回してくれ!」
「了解!」
神崎と田町は光ディスクと紙の資料を鞄に入れて、中村課長と一緒に事務所から社門に向かった。
「行くぜ、シートベルトしとけよ!」
三人が会社の社門を通り抜けて金城の車に飛び乗ると、車はタイヤのスキール音を鳴らして凄い加速で走り出した。そして、車は高速道路に入って湾岸線を一気に駆け抜けた。
「金城、怪我人がいるんだから、もうちょっと気を使えよ」
「中村さん、悪いな、もうちょっとだから我慢してくれ」
「大丈夫だ。昨日から痛みなんてもう麻痺してるさ」
金城がアクセルを踏み込んで車を加速すると、エンジンのタコメーター(回転計)はレッドゾーンに到達して時速は二百五十キロメートルを超えた。
「凄いっすね、F1レースみたいっす!」
「由香里ちゃん、今日の俺はカッコいいだろう!」
「カッコいいっすよ、筋肉!」
「うれしいね! 由香里ちゃん! もっと頑張っちゃう!」
金城が前方の車を次々と交わして更にアクセルを踏み込むと、スピードメーターの針は振り切れて役に立たなくなった。
――しばらくして。
「よし、高速を降りるぞ!」
金城がギヤを一段落して強力なエンジンブレーキを掛けると、車のタイヤが煙を吐いて悲鳴を上げた。そして、車が減速してインターの料金所を過ぎると港が見えて来た。
「もう直ぐ着くぜ、神崎! あれが北上物流第四倉庫だ!」
金城は車を湾岸の堤防沿いに走らせて、窓から倉庫を指差した。
――午前六時五十分。
車が北上物流第四倉庫に到着する。
「何とか間に合ったな」
神崎が左手の腕時計を見つめて到着時間を確認すると、金城は車のアクセルを踏み込んでエンジンを切った。そして、四人は車から降りて倉庫に向かった。