第五章 少女
桜川の駅を出ると、神崎は金城の携帯に電話を掛けた。
「もしもし、ああ、俺だ」
「神崎か、今、何処だ」
「桜川の駅を出たところだ。駅の東口にいる」
「ちょっと待ってろよ、直ぐに行くから」
神崎が電話を切って金城を待つ。
しばらくすると、金城は駅前の喫茶店から出て来た。
二人は駅から歩いて桜川情報高校に向かった。
駅前から桜川情報高校に繋がる道は緩い上り坂で、道の横には小川が流れていて、小川の周辺には桜の木が一定の間隔で植樹されている。
「綺麗な道だな、これが桜川か?」
神崎が振り向いて川面を眺めながら金城に尋ねる。
「ああ、そうだ、綺麗な川だろう。この川は明治時代に整備されたんだ。川の上流には桜川神社があって、春には桜祭りがある。ちょっとした観光名所なんだぜ」
「へぇー、そうなのか」
「桜川情報高校は神社の直ぐ近くにあるんだ。あれがそうさ」
金城が桜川の上流を指差す。
「なあ、神崎、俺にはよく分からないんだが、盗まれたデーターは素人でも意味の分かるものなのか?」
「いや、分からないだろうな」
「じゃあ、彼女はなぜそんな物を盗んだんだ?」
「実は俺もそれが知りたいんだ」
神崎は桜川情報高校を眺めながら金城に答えた。
少し歩くと、桜川神社に着いた。
桜川神社は小綺麗な神社で敷地の中には社務所と茶屋がある。
大鳥居をくぐると、直ぐに神社の本殿が見えた。
「この神社の裏が桜川情報高校だ」
二人は神社の左側に続く小道に入って行った。
小道の両脇には桜の木が等間隔に規則正しく植樹されていて、見事な桜並木になっている。
「三時半か、学生が出て来るのは、四時位からだな」
桜川情報高校の校門に辿り着くと、金城は左手を少し上げてスポーツタイプの腕時計で時間を確認した。
「ここで三時間位張り込めば相川真理を捕らえる事が出来るだろう。俺は彼女の顔を知らないから、神崎、お前見逃すなよ」
金城が神崎の肩を軽く叩いて神崎に注意を促す。
二人は校門の横の壁に持たれて相川真理が出て来るのを待った。
――午後四時。
校門を出る学生の姿がちらほらと見え始めた。
「ここの学生は女子が多いな」
「この学校は元女子高だからな、大半は女子だ」
神崎が女子生徒の姿を眺めながら金城に話し掛けると、金城は腕を組んで神崎に答えた。
――午後五時。
校門を出る学生の姿が増え始めた。
神崎は目を凝らして相川真理の姿を探したが、それらしき人物は見つからなかった。
――午後六時。
日が暮れ始めて、校門を出る学生の姿がまばらになった。
「なかなか出て来ないぞ」
「まあ、焦るな、必ず出て来るさ、この高校は裏が山だから、ここからしか出入り出来ないのさ」
午後六時を過ぎた頃、黒縁メガネを掛けて髪型をポニーテールにした女子生徒が二人の前を通り過ぎた。
「制服を着ていると、みんな同じ娘に見えるな……」
神崎が少しぼやきながら振り返ると、女子生徒の後ろ姿が見えた。
(スタイルが抜群だ……もしかして……この娘かな?)
神崎が金城の腹を肘で突く。
「あの娘か?」
「そんな気がする」
「そんな気がする? お前は彼女の顔を見た事があるんだろう?」
「ああ、でもメガネはしていなかったし、彼女は背も高かったんだ」
二人が女子生徒の後ろ姿を目で追いかける。
「やっぱり、後ろ姿がそっくりだ」
「女は化けるからな」
二人は彼女の後を追った。
「星野由美さん」
神崎が女子生徒に声を掛けると、彼女はビクッとして立ち止まった。そして、ゆっくりと振り返った。
「星野由美って誰ですか? 人違いじゃありませんか?」
「そうだね、人違いの様だ。相川真理さん」
彼女はしばらく沈黙していたが、ふうっと小さく息を吐いた。
やはり彼女は相川真理の様だ。
「私を警察に突き出す気?」
相川が後ろ手を組んで神崎に話し掛ける。
「いや、警察になんか突き出さないよ、そんな事をしたら会社の信用が落ちるからね」
「えっ、そうなの?」
「技術データーを盗んだ理由を知りたいだけさ、俺の個人的興味でね」
「それだけ?」
「そう、それだけ」
「そうねえ……盗んだ理由は……」
相川が小さな声で呟きながら金城の方に振り向く。
「ねえ、あの筋肉マンみたいな人は誰?」
神崎が振り返ると、金城が携帯で誰かに連絡を取っていた。
「えっ、何? ホテルに入った? 別の愛人だって? うんうん!」
どうやら業務連絡らしい。
「俺の友人でね、探偵をやっているんだ」
「探偵?」
「そう、いつも浮気調査ばっかりやっているんだけどね」
神崎は金城の顔を見ながら相川に話し掛けた。
金城が電話を切ってこちらにやって来る。
「悪い、神崎、ちょっと仕事が入ったから行ってくるよ。一人で大丈夫か?」
「ああ、大丈夫さ」
「じゃあ、お任せするよ。本日の無料サービスは終了という事で、後はよろしく!」
金城は神崎の肩をポンと叩いて行ってしまった。
「相川さん、ここじゃ何だから、場所を変えよう」
神崎と相川は桜川神社まで歩くと、神社の小さな茶屋に入った。
二人が茶屋の窓側の席に座る。
神崎が窓の外を眺めると、神社の古木の間から夕日の木洩れ日が射していた。
「珈琲でいいかい?」
「お茶でいいわ」
神崎が店員を呼んで注文を出す。
店員はテーブルにコーヒーと日本茶を置くと、サービスで和菓子を添えた。
「ねえ、神崎さん、どうやって私を見つけたの?」
「ハンカチさ、居室の出入口で二人がぶつかった時に君はハンカチを落としたんだ」
「そういえば……あのハンカチ……私、あの時に落としたのね」
「ハンカチを手掛かりにして君を探したんだよ」
「そうか、私のミスね。絶対にバレないと思っていたんだけど、残念!」
「そう、バレたんだから諦めて話してくれるかい?」
「そうね……」
相川は日本茶を少し飲んで窓の外を眺めた。
「あのウエハは私の父が作った物なの」
「君のお父さん?」
「私の父は新和開発社の主幹研究員で先端技術開発研究部の部長だったの」
「新和開発社の部長?」
「そう、でも、父は研究所で起こった実験事故で昨年亡くなりました」
「そうなの、それはお気の毒だね」
「事故で亡くなる前日に父は会社の荷物を持って帰ってきたの」
「それはブラックウエハだね?」
「そう、ブラックウエハよ。父は化合物半導体の研究に夢中だったの。あの日も『真理、真理、凄いウエハが出来たんだよ!』って叫んでた。あの時の嬉しそうな父の顔は今でも忘れられないわ。でも、翌日、研究所で実験事故が起こって、父は死んでしまった」
相川が少し涙目で神崎に話し掛ける。
「父はブラックウエハの試作品を二スライス作ったの、神崎さんに評価してもらったのは予備のウエハよ。もうひとつのウエハは実験事故で燃えてしまったわ」
「…………」
「『ブラックウエハは偶然出来たんだ』と、父は言ってました」
「偶然?」
「父は化合物実験で材料レシピと全く関係の無い元素を偶然混ぜてしまったらしいの、だからその元素材料を見つけないと、ウエハの量産は出来ないと言ってました」
「ガドリニュウムの事だね」
「ええ、それみたいね。新和開発社はその元素材料を必死で探しているわ。でも、それはまだ見つかっていないみたい」
「そうか……」
「父は内緒で予備のウエハを持ち帰ったから、会社の人達はそれを知らないのよ。でも一人だけそれを知っている男がいる。父の元部下で金田と言う男。あなたの前では猟田と名乗った男よ」
「何だって! 猟田?」
神崎が顔をしかめて、相川の顔を見つめる。
「あの男もブラックウエハの秘密を狙っているの。今は会社を辞めて軍事関係の半導体技術アドバイザーをやっているわ。ブラックウエハの特許を独占しようとしているのよ」
「そうだったのか……」
「それでね、先月、あの男が私の家に訪ねて来たの。彼は私と母に予備のウエハを一千万円で売って欲しいと頼むのよ」
「一千万円? それは安過ぎるな、あれは最低でも一千億円の価値があるウエハだよ」
「私は断ったんだけど、母はその価値を知らないから、家の借金を返済する為に金田にウエハを売る約束をしてしまったの。なので、仕方が無いから私は金田にウエハを渡しました。でも、ひとつだけ条件を付けたわ」
「条件? どんな条件なの?」
「『ウエハの解析は新光技術工業社の神崎という男にさせて欲しい』っていう条件よ。そして、その条件を金田は律儀に守ってくれた」
「えっ、なぜ、うちの会社で俺なんだ?」
神崎が口を開いて唖然とする。
相川は日本茶を少し飲んでテーブルの上に置くと、神崎の瞳を見つめた。
「私の父の名前は真一なの」
「真一……相川真一……」
神崎が小さな声で呟く。
聞き覚えのある名前だった。
「えっ、相川真一!? もしかして、君のお父さんは大学教授だったの?」
「そう、六年前までね。思い出してくれた?」
相川が神崎の瞳を見つめて微笑む。
相川教授は神崎の大学時代の恩師だった。
「じゃあ、君は相川教授のお嬢さんなのか……」
「私は神崎さんの事を覚えているわよ、子供の頃、あなたによく遊んでもらったもの、あなたは私の事を覚えてる?」
相川が首を傾げて神崎の顔を覗き込むと、神崎は大学時代の事を思い出した。
相川教授はとても気前のいい人で、貧乏学生の神崎は彼の自宅でよく食事を御馳走になっていた。
「えっ、じゃあ、あの真理ちゃんなのか! あの頃はまだ小学生だったよね!」
「そうよ、小学六年生だった」
「えっ、嘘! 本当?」
「本当だってば、本人がそう言っているんだから!」
「あはは、そうりゃそうだな!」
神崎は小学生の頃の相川を思い出して笑った。
「でも、まだ分からないな? もう一回聞くけど、なぜ、うちの会社で俺なんだ?」
神崎が両手を広げて、相川にその理由を再度尋ねる。
「父は神崎さんの事を家でよく話していたわ。大学を首席で卒業しながら半導体評価設備の三流メーカーに就職した変わり者だってね。でも、父はあなたの事をとても気に入っていたの。反骨精神旺盛だけれど彼は強い信念を持っているって、そして、十年に一度出るか出ないかの天才だとも言っていたわ」
「それは、褒め過ぎだな……」
相川の話を聞くと、神崎は照れて頭を掻いた。
「ブラックウエハの構造分析は新光の神崎なら絶対に出来るはずだと父は言ってました。私は生前の父の願いを叶えてあげたいと思ったの。そして、神崎さんは実際にウエハを見事に分析してしまった」
「いや、ウエハの分析が出来たのは偶然さ、実力じゃないよ」
「私、謝ります! あなたと、あなたの会社を利用してしまった事を!」
神崎が右手を小さく左右に振って相川に答えると、突然、相川は頭を深々と下げて神崎に謝った。
「真理ちゃん、頭を上げなよ、許してあげるからさ」
「ほんと、許してくれる?」
「ああ、ほんとさ!」
「うふ、神崎さんは優しいわね、昔とちっとも変わらない」
相川が少しだけ顔を上げて悪戯な視線で神崎の顔を見上げると、神崎は胸がドキドキして思わず窓の外を眺めた。すると、夕日が山に沈みかけている風景が見えた。
神崎がカップのコーヒーを一気に飲み干す。
「ねえ、真理ちゃん、一つだけお願いしてもいいかい?」
「えっ、何ですか?」
「メガネを外してくれない?」
「メガネですか? いいですけど……」
相川は両手でメガネの縁を持って、黒縁メガネをゆっくりと外した。
彼女の素顔は気品のある優美な顔立ちで、微笑むと頬に笑窪が出来てとても愛らしかった。
「これ、だてメガネなんですよね。バレちゃった?」
「いや、バレてないんだけどね、ちょっと確認しただけさ」
「確認? 何の?」
「いや、ちょっとね……」
相川が首を傾げて神崎に尋ねると、神崎は彼女の返事に困ってしまった。
ほんとは相川の素顔が見たかっただけだからだ。
「綺麗だね」
「えっ?」
「夕日がさ」
「……?」
「帰ろうか、真理ちゃん」
神崎がもう一度窓の外を眺めると、夕日は既に山の向こう側に沈んでいた。
「夕日がねえ……」
相川は神崎の横顔を流し目で見つめて微笑んだ。
――帰り道。
神崎と相川は桜川の駅前まで一緒に歩いた。
駅前商店街の前まで来ると、相川が一軒の店を指差した。
「ねえ、神崎さん、ここ私の家なの寄って帰らない?」
相川が神崎を誘う。
そこは小さな化粧品屋だった。
「えっ、ここは化粧品屋じゃないか」
「ええ、私の母がこの店を経営しているの、ちょっと寄ってよ」
相川が神崎の腕を掴んで軽く引っ張る。
店の中に入ると、香水のとてもいい香りがした。
「お母さん、ただいま!」
「お帰り、真理」
店の奥から女性の声が聞こえる。
「お母さん、珍しいお客さんを連れて来たわよ!」
「あら、誰かしら?」
相川の母は振り向いて神崎の顔を眺めた。
「もしかして、神崎さんじゃないの?」
「ご無沙汰しています」
神崎が頭を掻いて照れくさそうに挨拶をする。
「お久し振りね! 何年振りかしら?」
「大学を卒業してから六年になります」
「まあ、そんなに経つかしら? あなた立派になったわね。スーツを着ていると見違えるわ。昔は長髪でいつもTシャツとジーパンだったのにね。結婚は?」
「いえ、まだ独身です」
「あら、そう、こんなにいい男なのにね」
神崎が下を向いてまた頭を掻く。
「引越しされたのですね」
「ここは私の実家なのよ。昨年、主人が亡くなってから引越したの。あっ、神崎さんは知らなかったわよね、うちの主人が亡くなった事」
「先程、真理さんから話を聞いたところです。相川教授には随分とお世話になりました。ほんとに残念です」
神崎は胸に畏敬の念を抱いて、相川の母に深く頭を下げた。
「神崎さん、今日は時間あるんでしょう」
「まあ、ありますけどね」
「うちで晩御飯を食べて行きなさいよ」
「えっ?」
「ね、そうしましょうよ」
「賛成!」
相川が嬉しそうに手を上げる。
その日、神崎は相川の家族と一緒に食事をした。
神崎は学生時代に相川家でよく食事を御馳走になっていた。相川の母は神崎の好物を覚えていて、神崎の好みの料理を出してくれた。相川の母は昔から料理がとても上手だ。食卓では神崎と相川教授の思い出話に花が咲いた。
――午後九時。
「今日は御馳走様でした」
神崎は腹を摩りながら相川の母に礼を言うと、腕時計で時間を確認して相川の家を出た。
その時、道の反対側に止めてあった黒色のベンツが目に入った。
運転席にはサングラスの男が座っている。サングラスの男は後部座席に向かって何か話している様だ。後部座席の窓はスモークブラウン色で中は見えなかった。
神崎が車の運転席に視線を合わせると、ベンツはゆっくりと発進して去って行った。
(この商店街には似合わない高級車だな……)
神崎はそう思ったが、さほど気にもせず、駅に向かって歩き始めた。
「神崎さん!」
後ろから相川の声が聞こえて、神崎が振り返る。
「駅まで送ってあげる」
「いいよ、直ぐそこじゃないか」
「いいの、いいの、神崎さん、今日はありがとう。久し振りに母の笑顔を見たわ、すごく楽しそうだった」
「そうだね」
「本当はね、いつもあんなに明るくないのよ、今日は特別ね」
「そうなの?」
「そうよ、父が死んでから、ずっと元気が無かったもの」
「そうか……」
「だから、また家に遊びに来てね。お願い!」
「ああ、また来るよ、相川家には恩があるからね」
「ほんと、ほんと! 約束よ!」
相川が神崎の腕に手を回して小指を立てると、神崎は相川の小指に自分の小指を重ねた。
「約束ね!」
相川は嬉しそうに微笑んで神崎を駅まで見送った。
相川が腕を絡めて無邪気に胸を押し付けてくるので、神崎はドキドキして心臓の鼓動が早くなった。
香水の甘くいい香りがして、神崎が思わず「いい香り」と呟く。
「うふふ、そうでしょう、さっき母のお気に入りの香水をちょっと拝借したの」
相川が神崎の顔を悪戯な視線で覗き込むと、神崎の心臓の鼓動が更に早くなった。
駅に着くと、相川は胸の前で小さく手を振って神崎を見送った。
「また来てね! 神崎さん、約束よ!」
「ああ、約束だ!」
神崎は笑顔で相川に手を振リ返した。




