二十六話「婚約破棄のその後」
気まずい。非常に気まずい。重苦しい空気に圧倒されて、耐えきれなくなりそうだ。
話はほんの少し前まで遡る。突然現れ、助けてくれた王太子と、王太子に牙を剥き出しにしている兄をどこに連れて行くべきか。教会の礼拝堂か、魔法を放ってもなんとかなりそうな広場か、それとも私が村人から借りている家か。
迷っていたところ、怒り心頭といった様子を隠さないエリーゼと、眉間にしわを寄せたルシフェルに見つかってしまった。やらかしてしまった。
経費削減生活を送っているため、今借りている家には公爵家とは異なり羊皮紙といった高価なものはない。狼について村人に相談されたことを、打ち明けるタイミングを逃したまま忽然と姿を消したので、物凄い形相をしていた。裏手に住む奥方にでも、言付けを頼めばよかったと反省した。
そんな状況なのに、教会に寄ろうなどと言えるはずもなく、大人しく家に帰ることになった。
「王太子。お嬢様を助けていただき、ありがとうございました」
エリーゼのまったく心のこもっていない声が、今日はやけに怖かった。抑揚のなさから刺々しさを感じる。彼女がここまで不快感を表しているのは珍しい。隣にいるルシフェルも、目を伏せ不機嫌そうだ。
どんよりとした重い空気の中、王太子は口を開いた。
「……当然だ。僕は彼女の婚約者……だからな」
どうやら、王太子の中では、まだ私は『婚約者』ということになっていたらしい。さすがの私も呆れてしまった。寝言は寝て言ってくれないかな。
「……アルディオン様。婦人が、目の前で髪を切る意味をご存知ない……わけではないですよね?」
仮に、あの時は知らなかったとしても、大多数の目撃者がいるのだから誰かしら教えているはずだ。だから意図的に、大勢集まるあの場を選んだ。王太子が離縁されたという噂は、瞬く間に広まっただろう。上流階級で生き残るには、なによりも情報が重要だ。没落しそうだと噂が流れれば、付き合いや取引を控えめにするし、功績を立てたと知るや否や、我先にと祝いの品を送り交流を持とうとする。そういうものだ。
「──応じていない」
「……ん?」
「婚約破棄は、成立していない。王室からも、オッペンハイム家からも、なにも発表していない。それは義兄殿も、当然把握しているはずだ」
「……そうなの? 兄さん」
腕を組み、椅子の上で横柄な態度を取っていたオーガストは、王太子の指摘に動揺して転げ落ちた。
「……し、知らない」
「兄さん。私に黙っていたの?」
「い、いや、それは……その……お前のためを思って……」
珍しく歯切れの悪いオーガストの返答に、溜め息が出た。
決死の覚悟だったのに、真剣に取り合ってはもらえず、私の独りよがりとして処理されたのだろう。大勢の前で髪まで切ったというのに無駄だった。自尊心の塊である王妃が、王室を侮辱したと喚き散らすところまで想定していたのに、当てが外れてしまった。
それに、王太子の口から出た『呪い』という言葉にも引っかかっている。私は一体、誰に呪われているんだろうか。
「もういいです」
「エリスティア!」
「それより、アルディオン様。この村には、王太子が泊まれるような宿泊施設はないですけれど、どうされるおつもりですか?」
転移魔法は便利でも、消費魔力は桁違いだ。ここに来るまでの間にどれだけ消耗しているか把握していないので、安易に帰ることを勧めることは得策ではない。もしも、魔力が少ない状態で転移魔法を使ってしまった場合、どこに飛ばされるかは本人ですらわからないという。
「今晩は教会に世話になる」
しかしながら、教会とはいえ村に建てられたものなので、王都にあるような大聖堂とは雲泥の差がある。過去、村で暮らしたことのある私ならともかく、温室育ちの王太子に適した場所とは言えないだろう。薄汚れた毛布に藁を敷いただけの寝床なので体にもよくない。
「兄さん」
「ダメだ」
声をかけただけだというのに、なにかを察したオーガストに却下された。
「まだなにも言ってないのに」
「王太子を泊めてくれって言うんだろ?」
「うん」
「部屋がない」
「私の部屋は?」
「あ、あるが、あれはお前のためを思って──」
「黙っていたのは誰だったかな?」
首を傾げて圧をかけた。オーガストらが突貫で建てた石造りの住まいならば、教会よりも落ち着いて過ごせるはずだ。大きめでふかふかのベッドがある。まだ一度も使っていないが、使用人が定期的に掃除しているという。使わなければ勿体ない。
「兄さん?」
「……ハア。まったく。お前には敵わないな」
「ありがとう、兄さん」
渋々だったが、オーガストを説得できたので夕食にすることにした。
しかし、今いる家では狭く、王太子をもてなす豪華な料理は、事前に食材を仕入れなければ当然ながら提供できない。一流のシェフを連れてきているというので、教会の隣に建つオーガストらの住まいへと移動した。




