第9話 ヴァルトという男 ※ヴァルト視点
ヴァルトの一日は、息をつく間もないほど多忙だ。
荒廃したこの地――フェルシェルは、いままさに復興の只中にある。
初めてここを訪れたのは、二年前の春の終わりだった。セレスティア王女の嘆願により、主であるアレクシスと数名の騎士と共に足を踏み入れた。
そのときの衝撃と怒りは、今も胸の奥で燻り続けている。おそらく、生涯忘れることはないだろう。
フェルシェルといえば、代々聡明な領主が治める肥沃な土地として知られていた。王都から遠く離れた辺境でありながら、美しい街並みと豊かな実りを誇り、領主フェルシェル侯爵家の名は尊敬と信頼に包まれていた。
いくつかの村もあり、そこでは人々が穏やかに、幸せに暮らしていたという。
――あの日までは。
ヴァルトは、ベルグシュタイン公爵家に代々仕える騎士の家に生まれた。七歳でアレクシス付きの小姓となり、騎士としての教育を受けながら成長した。
並外れた剣の才があったらしく、十五歳で従騎士として初陣を飾ると、敵軍から「鉄心卿」と渾名された。その名はいつしか味方にも広がり、英雄として扱われるようになったが、ヴァルトにとっては迷惑な話だった。
自分はただ運と才能に恵まれただけにすぎない――決して英雄などではないと、彼は固く信じている。
近衛騎士への推薦もあったが、断った。彼にとって主はアレクシスただ一人。誰に何を言われようと、その忠誠は揺るがなかった。
アレクシスは、生まれながらにして帝王の器を備えた男だった。もし彼が王子として生まれていたなら、この国にとってどれほどの光となっていたことか――そう思わずにはいられない。
幸いにして、この国にはセレスティア王女がいた。
初めてセレスティアを見たとき、その神がかった美しさと、抜きん出た聡明さに、ヴァルトは胸を打たれた。
アレクシスと並ぶ姿はまるで絵画のようであり、二人が手を取り合って国を導く未来が、自然と想像できた。
当然のように二人は恋に落ちた。
本来ならば、王女の夫は他国の王族であるべきだ。しかし、アレクシスならば例外も許される――そう思わせるだけの才が彼にはあった。
二人の手によって次代は素晴らしい国になるだろう。そうヴァルトは確信していた。
だが、その二人の目の前に広がったのは、地獄のような惨状だった。
きっかけは些細とも言える、しかし取り返しのつかないことだった。
フェルシェル侯爵の娘を、王が一目で気に入り、妾に望んだのだ。
娘にはすでに婚約者がおり、侯爵は丁重に辞退を重ねたが、王は聞き入れなかった。妾であれば、婚姻しているほうが都合は良い――などという暴言を吐きながら。
侯爵は再三にわたり拒否し続けたが、王の怒りは税を吊り上げ、ついには飢える者まで出るようになった。
挙句、「反乱の兆しあり」として、王は軍を差し向けると脅し、それを実行した。
セレスティア王女は、必死に止めようとした。将軍にも直談判したという。
「……セレスティア様、お気持ちはわかりますが、これは王命です。私にも、兵にも、守るべき家族がいます。お察しください」
将軍は苦渋の面持ちで、そう頭を下げたという。
「……なるべく、行軍は遅らせます。後のことは、お頼みします」
そう言い残し、将軍は兵を率いて出発した。兵士たちには、あくまで“内乱の鎮圧”と説明されていたそうだ。
それからセレスティアは三日三晩、寝食を忘れて父王に嘆願し続けた。
扉の前に立ち続け、文を送り、有力貴族にも助力を求めた。そのなかで最も早く動いたのが、アレクシスの父であるベルグシュタイン公爵だった。
そして四日目、セレスティアは倒れた。疲労と脱水が限界を超えたのだ。
その知らせを聞いて、ようやく王は派兵の中止を命じた。
だが、それは遅すぎた。
急ぎ馬を走らせたものの、すでにフェルシェルは陥落していた。
抵抗した男たちは皆殺しにされ、領主一家は惨殺された末に晒し者となっていた。
田畑は荒らされ、作物は踏み荒らされ、街は破壊され、泣き叫ぶ声がそこかしこに響いていた。
あの豊かなフェルシェルの姿は、どこにもなかった。
軍が撤退したのち、病み上がりの身体を押して、セレスティア王女はフェルシェルへと赴いた。
そこから復興が始まった。
セレスティア王女とアレクシスの主導で、わずかずつではあるが、フェルシェルは息を吹き返し始めた。
二年の歳月を経て、ようやくこの段階まで辿り着いたのだ。だが、かつての輝きを取り戻すには、さらなる歳月と労力が必要だろう。
それでも、ヴァルトは決して諦めない。
この地は、即位した新王アレクシスとセレスティア王女から託された地なのだから。
そしてかの“元王女”もセレスティアから託された。
正直、最初は期待していた。あのセレスティアの妹であれば、どれほど立派な姫君かと思った。
だが、現実は驚くほど違っていた。
まるで別人だった。傲慢で、我儘で、無知で――姉に似たところを探す方が難しい。
しかし、歳の近いシリウスに世話を任せたのは正解だった。
リヴィアは、ほんのわずかだが、確かに変わり始めている。
もし変わらなければ、この地の惨状を見続けさせるだけだ。
何も知らず、何もしない王女が、どれほど罪深いか。彼女には、それを知ってもらわねばならない。
夜の帳が降りる頃、ヴァルトは領主邸に戻った。
「おかえりなさいませ」
出迎えたのは、使用人のイザベラだ。
父親の後を継いでこの地の医者をやっていた息子を、戦の中で失った老女。領民のために治療を続けていた彼は、捕らえられ、殺された。
ひとり遺されたイザベラは、それでも「領主邸を守りたい」と志願した。
リヴィアを彼女のもとに置いたのは、決して嫌がらせではない。――自覚させたかったのだ。
本来、自分がすべきだったことを。
イザベラの背後に控えるリヴィアは、いつもと同じように黙りこくり、目を合わせようとしなかった。
傲慢さが鳴りを潜めたぶん、陰気さばかりが目立つ。
「……おかえりなさいませ」
細くかすかな声が聞こえた。それが、彼女の口から発せられたものだと気づくのに、時間がかかった。
視線は合わないままだったが、それでも――確かな変化だった。