第6話 荒廃した国土
馬車はがたんがたんと音を立てて揺れていた。
重たい鉄の車輪が、舗装もされていない石混じりの道を無慈悲に削っていく。
車内には藁が敷かれていたが、湿っていて臭い。鉄格子の小窓から吹き込む風も、生ぬるく埃っぽかった。
囚人護送用の荷車――それが今の自分に与えられた、「乗り物」だった。
リヴィアは片膝を抱え、静かに目を閉じていた。
粗末な麻布の服が肌に擦れて痛む。背には、棘のように乾いた汗が張りついている。髪も、もう何日もまともにとかしていない。
手のひらには、ハンカチがあった。
薄く軽いその布を、リヴィアはずっと握っていた。誰にも見せることなく、ただ胸の上で、そっと包み込むように。
(あれから……どれくらい経ったのかしら)
王都を出発してから、少なくともひと月は経っているだろう。
それもそのはずで、ヴァルトは道中の村々を巡りながら、物資を届けているのだった。
内容は主に、干した麦や乾燥肉、果物、野菜、豆類などの保存食。それに、この時期から冬にかけて収穫可能な作物の種や、粗布――麻の布も含まれていた。
「新国王アレクシス陛下からです。村の皆さんで分け合ってほしい、とのご伝言です」
物資を配るたびに、ヴァルトは必ずそう言葉を添えた。
初めのうちは、ただの人気取りかと思っていた。けれど、それはどうやら違うらしい――と、シリウスが教えてくれた。
「はぁ? 人気取り? ……本気で言ってるんすか?」
リヴィアが黙って頷くと、シリウスは呆れたように鼻を鳴らした。
「普通に、前王陛下――姫さんの父君のせいっすよ。このままじゃ冬を越せないって村が、いくつもあるんです。だから、こうして必要なものを配ってるんすよ」
「凶作か何か? でも、それはお父様のせいではないでしょう?」
シリウスは深くため息を吐いた。
「本当に、何も知らないっすね。姫さんは」
――何も知らないことが、貴女の罪。
そんなヴァルトの声が聞こえた気がした。
「いいっすか? 今から話すのは、この国じゃ幼子ですら知ってる常識っすから。決して、姫さんを傷つけようとして盛ってるわけじゃないっすよ」
そう前置きしてから、シリウスはリヴィアの様子を窺いつつ、語り始めた。
リヴィアの父、カリクスト・ヴァレンティウス・エルセリオ――カリクスト二世といえば、暴君として知られる国王である。
政務の場にはほとんど姿を見せず、女色に溺れ、諫める忠臣は次々と処刑した。
自らに擦り寄る奸臣を重用し、彼らが民に重税を課しても、まるで気に留める様子はなかった。
飢えで亡くなった民は、国全体の一割を超え、抗議した者たちの多くは、悲惨な最期を迎えた。
「特に酷いのは、姫さんがこれから暮らすフェルシェルっすよ。……あれは――俺の口からも言いたくないくらい、酷いっす」
初めて聞く話ばかりだった。
乳母は、なんと言ったか――偉大なる国王陛下は民からも愛され、諸侯からは慕われ、隣国からは恐れられる。そんな父君を持つ姫様は、お幸せなのですよ。たしか、そう言っていたはずだ。
「そんな……そんなの、嘘よ……」
かすれた声でリヴィアが呟くと、シリウスはわかりやすく肩をすくめた。
「信じたくなきゃ、信じなくていいっすよ」
淡々とした声だった。まるで、どうでもいいと言わんばかりに。
「でも、どっちにしても……姫さんはこれから嫌でも“現実”を見ることになりますから」
その瞳に宿るのは、同情でも憐れみでもなかった。ただ、冷ややかで、乾いた真実だけ。
「“新国王・アレクシス陛下からです。村の皆さんで分け合ってほしい”――ヴァルトが物資を配るときに、必ず言うっすよね?」
リヴィアは微かに頷いた。耳に残るあの声と、村人たちの表情。それが意味するものが、今はもう分からない。
「人気取りなんかじゃない。“分け合え”っていうのは、アレクシス陛下の意思であると同時に、“命令”なんすよ」
「命令……?」
「はい。物資を渡された村の中には、当然、欲深い奴もいます。飢えてる状況で人間の本性なんて簡単に出る。中には全部自分のものにしようとするやつもいるっす」
シリウスは、わざとゆっくりと話すように、言葉を一つずつ噛みしめて続けた。
「だから、わざわざ“陛下の伝言”を添える。――分け合え、と。つまり、“独り占めしたら、どうなるか分かってるな?”ってことっす」
はっとしたように、リヴィアは息を呑んだ。
それは――優しい顔をした、厳しい警告。
飢えた民に必要なものを与えると同時に、秩序を保ち、弱者がさらに搾取されないようにするための、目に見えない“剣”だった。
「でも、王都から遠く離れているわ。少しぐらい、抜け道があっても――」
そう呟いたリヴィアに、シリウスがあきれたように口を挟む。
「だからこその閣下じゃないっすか」
彼女がきょとんとすると、彼は軽く肩をすくめて言った。
「もしかして……それも知らないんすか?」
「何のこと?」
「“鉄心卿”っすよ」
その名は、どこかで聞いた覚えがあった。だが、それがヴァルトを指していたとは――リヴィアには、まったく結びつかなかった。
シリウスは息を吐き、目を細める。
「じゃあ、教えてあげますよ。覚悟しといてくださいね。姫さんのこと、これでもまだちょっとだけ庇いたい気持ちがあったけど……その顔見てたら、もうやめたくなってきた」
それは、からかうようでいて、どこか本気の声音だった。
「“鉄心卿”――それ、ヴァルト様の異名っす。敵国ですら名指しを避けるほどの恐れられ方でね。戦場に姿を見せただけで兵が逃げ出す。子どもを泣かせる時に“鉄心卿が来るぞ”って言う国すらある」
リヴィアは黙って聞いていた。
まるで、自分の知らない誰かの話をされているような気分だった。
「もちろん、うちの国では話が違いますよ。“鉄心卿”は男子全員の憧れの英雄っす。――知りたいっすか? 知りたいっすよね? あれは、ベルデン峠で――」
意気揚々と語り始めたシリウスに、リヴィアは内心げんなりしていた。
男の子特有の、戦の細かい話など聞いていても少しも面白くない。
とにかく、ヴァルトは敵には恐れられ、味方からは崇敬される“鉄心卿”らしい。
その名は国中に知れ渡っており、そんな彼が新王の伝言を自ら届けてまわることで、
――“不正を見逃せば、必ずヴァルトが来る”
という、目に見えぬ警告がそこにあるのだ。
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