第42話 逆恨み
「王女殿下。倉庫をご覧になりますか? 本来は女子修道士用の浴場でしたが、今は物資置き場として使用しております。男子禁制のままではありますが……」
「構いません。わたくし一人で結構です。少し中を覗くだけですから」
視察の一環として案内されたその部屋は、石造りの丸天井に古びた煉瓦の床が残る、薄暗い空間だった。
陽の射さないその場所には、包帯や乾かした薬草束、木箱がいくつも積み重ねられている。
リヴィアは一歩足を踏み入れた。
足音が鈍く反響し、背後で扉が音もなく閉まる。
――カチャン。
静かに、だが確かに鍵がかかる音がした。
振り返ろうとした、そのときだった。
「……王女様」
ぞっとするような声。低く、掠れて、けれど確かに聞き覚えのある女の声だった。
闇に目が慣れるにつれ、ひとりの女の姿が浮かび上がる。
粗末な修道服のような布をまとい、髪はぼさぼさ。頬はこけ、瞳だけが異様に爛々と光っていた。
「ドロテア……?」
そこにいたのは、かつて離宮で厳格に君臨していた乳母の面影すらない、痩せこけた女だった。
「リヴィア王女殿下、お久しゅうございますわ。すっかりお変わりになって……でも、わたくしにはわかります。貴女様を、あの賤しい女に代わって育ててきたこのわたくしですもの」
その声音には、甘やかすような、歪んだ慈愛の調子があった。
だが次の瞬間、ドロテアは腰に隠していた小さな刃物――砥石で削ったナイフを、ゆっくりと取り出した。
「お前が……完璧な王女にならなかったから! このわたくしが……庶民などにまで落とされたのよ! 一族はカリクスト二世に与した罪で裁かれたわ! すべてはお前のせいよ!」
リヴィアは一歩後ずさった。だが背後には包帯の山。逃げ場はない。
「……ドロテア」
「母親が賤しいから……! お前に、どれほどわたくしが尽くしてきたと思っているの? なぜセレスティア王女のようにはなれないの? ねえ、どうして?」
「母上を侮辱しないで」
震えながらも、リヴィアの声にはかすかな芯があった。
「お黙りなさい! あんたの母親は、賤しい洗濯女。
亡きエレーナ王妃様に瞳が似ていたというだけで、王に妾にされただけの女よ。代用品の分際で王女を産むだなんて――! おかげで、わたくしは……お前のようなものの乳母よ!」
ドロテアは笑った。乾いて、ひび割れたような哀しみの音だった。
そして刃を持ったまま、ゆっくりとリヴィアへと迫ってくる。
距離は――あと三歩。いや、二歩。
目の前には包帯の山。そして棚の上には、瓶や壺がずらりと並んでいる。
(逃げられない……なら――!)
リヴィアは咄嗟に、傍らの棚に手を伸ばした。
掴んだのは、まだ封も開けられていない陶製の小瓶。
「っ……!」
目をぎゅっと閉じ、力いっぱい、それをドロテアに向かって投げつける。
――パリン!
甲高い破裂音とともに、瓶が砕け散る。
強烈な薬品の香りが空気を満たした。
「きゃっ……!? っ……目が……ッ!!」
ドロテアが悲鳴を上げ、顔を押さえながらよろめく。
ナイフが床にカランと落ちた。
リヴィアの手は震えていた――が、すぐに次の瓶へと手を伸ばす。
「まだ……来るというのなら、もう一本、投げます」
かすれた声には、確かな意志が宿っていた。
「お止めなさい、ドロテア。これは命令です。わたくしに刃を向けた時点で、あなたは――王女に対する反逆者です」
ドロテアはうずくまり、かすれ声で笑った。
「……おやまぁ。王女様になったつもりなのねぇ……」
その場に座り込み、顔を押さえながら、かすかに身を震わせる。
だが――また立ち上がろうとする気配に、リヴィアは身構えた。
――そのとき。
外から扉を叩く激しい音と、怒気を含んだ声が響いた。
「リヴィア! そこにいるのか!?」
「こ、ここです……!」
震える声で叫んだ瞬間――
ドン! ガンッ! と金属が歪む音が響いた。
取っ手が砕け、重い扉がバンッと大きく開かれる。
入り口に現れたのは、剣を腰に下げた男。
煙るような薬品の空気の中に、ヴァルトの屈強な体躯が立っていた。
「ヴァルト!」
リヴィアは叫んだ。安堵と恐怖が入り混じった声で。
その声に反応するように、ドロテアが最後の力で振り返る。
その目は、涙と薬でにじんでいたが、それでも怨嗟だけは消えていなかった。
「貴様――リヴィアに何をした?」
ヴァルトの声は怒気を含んでいた。低く、鋭く、床を這うような冷たさがあった。
「うるさい! うるさい! うるさい!」
ドロテアは怯むどころか、悲鳴のように叫びながら、床に落ちたナイフを拾い上げると、狂気のままにヴァルトへと飛びかかった。
刃が閃く。
「やめてっ!」
リヴィアの叫びも届かぬまま、ドロテアの腕が振り下ろされ――
しかし次の瞬間、ヴァルトの動きは一閃だった。
重厚なマントが翻り、右腕が鋭く振るわれる。
彼はナイフを持つドロテアの手首を狙って、寸分の狂いもなく打ち払った。
「ぐっ……!?」
乾いた音が響き、ナイフが宙を舞って飛んでいく。
手首を押さえたドロテアはその場に膝をついた。
ヴァルトは容赦なく踏み込み、背後に回り込むと、組み伏せるようにして両腕を拘束する。
「落ち着け。これ以上動けば、容赦はしない」
低い声。静かな怒りが、彼の全身から滲んでいた。
「……ああ、いや……わたくしは、ただ……完璧な王女を育てたかったのに……どうして、こんな……」
ドロテアの呟きはすでに言葉になっていなかった。
かつてリヴィアの「乳母」として仕えていた女の姿はもうそこになく、ただ自分の妄執に囚われた哀れな人間が一人、縛られているだけだった。
リヴィアは、その光景をただ呆然と見つめていた。
ドロテアの腕を縛ったあとも、ヴァルトはしばし動かなかった。
押し寄せる怒りと、震えるような安堵の波を、ただ静かに押し殺している。
「……ヴァルト……」
リヴィアがようやく声を出す。
その瞳は揺れていた。恐怖と、困惑と、心細さ。
震える指先が、床を頼りなく探っていた。
ヴァルトはゆっくりと立ち上がり、ドロテアから目を離さぬままリヴィアへと歩み寄る。
「……ケガはないか?」
その声は、驚くほど優しかった。
リヴィアはかすかに首を振った。
だがその表情は、限界のようだった。
「怖かった……わたくし、殺されると……思って……っ」
そこまで言うと、リヴィアの膝が崩れる。
ヴァルトはその細い肩をすぐに支えた。
そして――強く、抱きしめた。
「……もう大丈夫だ。俺がいる。絶対に、もう誰にも君に触れさせない」
リヴィアは驚いて目を見開いた。
ヴァルトの腕の中は、熱くて、たくましくて、震えながらも安心できる場所だった。
「……離しては、くださいませんの?」
喉から漏れたその声に、ヴァルトはゆっくりと顔を寄せた。
「……できない」
それは、戦士ではなく、ひとりの男の声音だった。
「もう君を離したくない。失いたくないんだ……俺は、君を……」
一瞬、言葉が詰まる。けれどその瞳には、濁りのない真実が宿っていた。
「リヴィア。俺は君を――愛している」
「私も――私も貴方をずっと――愛しています」
リヴィアの目から、一筋の涙がこぼれた。
それは恐怖からではない。
長い間、諦めていた想いにようやく光が差した、その証だった。




