騙されるアホの子
ユーリ、朝ですよ。
誰かが呼ぶ声。あ、もふもふがある……。ユーリはぎゅ、とそれを抱きしめた。すると、もふもふが別のものに変わる。あれ、もふもふは? ユーリはうとうとしながら目を開けた。なんか、くるしい。
「ん、!?」
鼻を摘まれてる。目前にいるのは人型のイグニスだ。彼はさらりと黒髪を揺らし、
「朝だと言ってるでしょう、さっさと脳細胞を働かせなさい」
ユーリはイグニスの手を退け、枕を抱きしめて後ずさった。
「な、なんで一緒に寝てるのよ!」
「寒かったので」
「毛皮あるのに!? 布団だってあげたじゃない」
「あなたはベッドなのに私がソファなのが解せません」
イグニスはしれっと言う。昨日はソファを気に入っていた様子なのに……わけわかんないな、この犬は。
「なら昨日言えばいいじゃない」
ユーリはため息をつきつつ、ベッドサイドの着替えに手を伸ばした。イグニスはじーっとこちらを見ている。
「ちょ、向こう向いてよ」
「なぜですか。私は気にしませんが」
「私は気にしますう! 乙女ですからあ!」
イグニスは舌打ちして浴室に向かった。犬の姿でいてくれたら気にならないのに。侍女服に着替えたユーリはエプロンをつけながら、
「もういいよ、イグニス」
イグニスは浴室のカーテンから顔を覗かせ、
「どこへ行くのです?」
「侍女の仕事だよ。昨日サボっちゃったし、一人抜けるとみんなが困っちゃうから」
「聖女なのに侍女の仕事を?」
そう言われても、聖女の実感などないし、侍女の格好の方が、ユーリにとって自然なのだ。
「あっ、もうこんな時間だ! イグニス、おとなしく待っててね!」
ユーリはそう告げ、慌てて部屋を出た。途端に、まがり角からぞろぞろ現れた人々に通路を塞がれる。こちらに冷めた目を向けているのは、修道女服を着たシスターたちだ。黒い集団にわらわらと囲まれ、後退したユーリは思わず戸に背をつける。
「な、なん、でしょうか」
「ユーリ、あなたには今日から聖女さまと同じ生活をしていただきます」
「えっ? わあ」
シスターたちに素早く拘束され、ユーリはもがく。
「そんなこと言われても困ります! 私、仕事に行かなきゃならないのに!」
「侍女の仕事はしなくていい。元々あなたの仕事などたかが知れているでしょう」
そう言われ、ユーリは地味に傷ついた。そんな言い方しなくてもいいじゃないか。そりゃあ、侍女はたくさんいるし、ユーリひとりがいなくなったところで、さほど困らないだろうけど。
「ユーリ?」
声をかけられ、ユーリは視線をあげた。ミーシャが驚いた表情でこちらを見ている。
「ミーシャ」
「さあ、行きますよ、ユーリ」
腕を掴まれたユーリは慌てて振り向きながら、
「ごめん、ミーシャ。先に行ってて」
「ユーリ!?」
ユーリは半ば連行されるように、シスターたちと歩いていった。
シスターたちは回廊を抜け、大聖堂へと入っていく。ひやりとした聖堂内は恐ろしく静かで、ユーリは足音を立てないように気をつけながら歩みを進めた。天井はモザイクタイルで覆われ、磨き抜かれた床は大理石で出来ている。
──すごいなあ。侍女になってしばらく経つけど、大聖堂には初めて入った。聖女さまのお世話は、身の回りのことに限られていたわけだし。
祭壇の前に、銀髪の女性がうずくまっていた。祈りをささげる後ろ姿すら美しい。彼女はすっくと立ち上がり、ユーリを振り返った。まるで宝石のような、憂いを帯びた、アメジストの瞳。
──クリスティーナさま、やっぱりきれい。こちらを見て一瞬冷たくなった瞳が、周りを意識してか、ふ、と緩んだ。
「あら、ユーリ。おはよう」
ユーリは慌てて頭をさげる。
「おはようございます」
「今日からあなたも聖女のお勤めを果たすそうね」
「は、はい」
聖女のお勤めってなんなんだろう。ユーリはクリスティーナの背後にいるルピナスに目をやった。端正な顔立ちをしているのだが、まるで人形のような覇気のない瞳をしている。その瞳がこちらに向いて、ユーリはびくりとした。なんか──この聖霊、こわい。
「私、あなたの指導をするように仰せつかったのよ」
「そ、そうなのですか。よろしくお願いします」
ユーリが頭を下げると、クリスティーナが微笑んだ。シスターたちに向かい、
「下がっていいわ。あとは私が」
シスターたちが去っていくと、クリスティーナがふう、と息を吐いた。髪をかきあげ、
「なんだか喉が乾いたわね」
「え?」
「飲み物を持ってきてくれるかしら」
「は、はい」
侍女の特性として命令に慣れているユーリは、反論もせずに大聖堂を出る。井戸で水を汲み、戻ると、クリスティーナはいなかった。
「あれ?」
どこに行ったのだろう。キョロキョロしていると、大聖堂に並べられている長椅子から、くすくす笑う声がした。
「だめよルピナス、ユーリが戻ってくるわ」
ルピナスの金髪が視界にうつり、同時にしどけない格好をした聖女が身を起こした。少し開いた唇や、乱れた髪が妙になまめかしい。ルピナスの右手は、クリスティーナの足の間に潜り込んでいるように見えた。ユーリはぽかんとしながら二人を見た。
──えっ?
クリスティーナは口元を緩め、
「飲み物、持ってきてくれたかしら」
「は、い」
ユーリは目を逸らしながら、水を差し出す。なんだか見てはいけないものを見てしまった気がする。クリスティーナは盃を手にし、
「これを聖水に変える方法を教えてあげる。聖女のお勤めのひとつよ」
「は、はい!」
クリスティーナはにっこり笑い、
「あなた、高いところは平気?」
「はい?」
★
教会の鐘が半刻を告げている。大聖堂から少し行ったところにある訓練場。リカルドは不機嫌な顔で剣を磨いていた。カイが軽い口調で話しかけてくる。
「坊ちゃん、なにむくれてんの?」
「坊ちゃんとよばないでください」
「貴族なんだから坊ちゃんだろ」
騎士たちの訓練を見ていたバルドーが、口を挟む。
「リカルド、もしかしてユーリが聖女のお勤めをすることが不満なのかな?」
「だって、おかしいではないですか。あの娘はただの侍女でしょう。それが聖女と立場を同じくするなんて、何か裏があるとしか思えない」
「それを言うなら私はクリスティーナが連れてこられた時も思ったがな、何か裏があるとしか思えないと」
「裏っつーか、確実に司教とヤッてはいますよね」
「な、なんということを!」
リカルドが真っ赤になると、カイが肩をすくめる。
「別に批判しちゃいない。聖女の力が本物なら、美人だろうが貧乳だろうがビッチだろうが俺は気にしないし」
その言葉に、リカルドがキレる。
「カイさん!」
「もー坊ちゃんはすぐ怒るんだから〜」
カイは激昂しやすいリカルドを怒らせて楽しんでいるふしがある。リカルドは他の騎士たちとは生まれが違う。馴染んでいるならそれにこしたことはない──という顔で部下たちの言い争いを放置していたバルドーが、ふ、と顔をあげた。
「ん?」
バルドーの視線につられて、リカルドも顔をあげる。小さな塔の合間をつなぐように塀があるのだが、そこを「何か」が通っていた。カイは額に手を当て、目を細めている。
「おりょ?」
「あれは……」
どうやら、ひとのようだ。塔と塔の間をつなぐ塀の、わずかな足場を、盃を手にしておっかなびっくり歩いている。よく見たら、侍女服を着ている。見覚えがある、薄茶色の髪──ユーリだ。リカルドは眉をしかめ、
「何をやってるんだ、あの娘」
「さあ。一発芸の練習?」
カイはそんなことを言いつつ、スカートの下を覗こうとしている。リカルドは先輩騎士に冷たい目を向け、
「お勤めもせずに遊んでいるとは……ちょっと注意してきます」
「いや遊んでるわけじゃなくね?」
カイの言葉を無視し、リカルドはそちらへと歩き出した。
ユーリは下を見ないように気をつけつつ、盃を掲げながらあるく。足場がせまいため、水がこぼれないよう気をつけながら進むのが困難だった。
──聖水の作り方を教えてあげるわ。訓練所の近くに、塔と塔をつなぐ塀があるでしょう? 盃を手に、あの上を渡るの。ただしこぼしたり落としたりしたら駄目よ。クリスティーナの言葉を思い出す。それを鵜呑みにしたユーリは、現在実行中なわけである。
「う、うう、怖いよ〜」
高いところから落とされたのがトラウマになってるため、余計に恐怖心がわき起こる。引きかえしたいが、半分くらいまできたし、もう向こうへ渡ってしまったほうが早い気がした。足元を見ないように、ソーッとソーッと……。
「おい!」
下から聞こえてきた声に視線を向けたら、リカルドがこちらを見上げていた。案の定怒っている。
「り、リカルドさま」
「何をしているんだ、お勤めはどうした!」
「いま聖水を作ってるんです〜」
「ふざけたことをいうな、そこは遊び場じゃない、早く降りろ!」
遊んでるわけじゃないのに。
「お、降りろって、どうやって」
「受け止めてやるから飛び降りろ、そう大した高さじゃない」
いや、大した高さですよ! なにせ、小塔の間をつなぐ塀なのだ。少なくとも、落ちたらタダでは済まないのは確かである。その時、突風が吹いた。
「うわっ!」
手から盃がすべり落ちる。ユーリはそれを取ろうと手を伸ばし、足場からずるりと落下しかけた。
「!」
リカルドが慌てた様子で腕を伸ばす。ユーリはぎゅっと目を閉じ、
──イグニス!
思わず心のなかで聖霊の名前を呼ぶ。
もふっ。
落下し、背中から激突──するかと思いきや、ユーリの背中は何かもふもふしたもので守られた。真下にいたのは、黒い犬。ユーリは慌てて起き上がる。
「い、イグニスぅ!」
「呼びましたか、聖女さま」
「呼んだ! 怖かったよ〜」
ユーリがしがみつくと、イグニスが尻尾を振る。
「感謝し跪きなさい」
尻尾をふりつつ偉そうな口調の獣に、ユーリはプライド無く跪く。
「はいっ、ありがとうございます、イグニスさま!」
「素直でよろしい、特別に撫でてもいいですよ」
「よーしよしよし」
ユーリがイグニスを撫でまわしていたら、リカルドが口を挟んだ。
「おい」
びくりとして顔をあげると、リカルドは眉をしかめていた。
「おまえいま、どうやってそいつを呼んだんだ……?」
ユーリはおどおどと、
「え、心の中で……」
「心の、なか? 聖句を唱えずに、聖霊を呼べるものなのか……?」
リカルドは何やらぶつぶつ呟いている。
「あのー」
ユーリが声をかけると、彼はハッとして咳払いし、
「とにかく、おまえが勤めを果たさずに遊んでいたことは司祭にご報告する!」
「えっ、そんな!」
歩き出したリカルドに、必死に追いすがる。
「待ってください、リカルドさま! 私はクリスティーナさまに言われた通りにしただけです、ああすれば聖水ができるって……」
「クリスティーナさまのせいにするな、あの方がそんなこと、おっしゃるはずがないだろう」
「ちょ、リカルドさまー!」
リカルドは滅法足が速く、ユーリは置いてけぼりにされてしまった。
「ううっ……」
「人の話を聞かないオロカモノですね」
イグニスはそう言い、ちら、とユーリを見あげた。
「それで? 何があったんですか?」
「馬鹿にしない?」
「話によりますが」
ユーリは聖女に教えられた聖水の作り方について話した。イグニスは半目になって聞いていたが、
「あなたは馬鹿か」
「やっぱり馬鹿にしたあ!」
「いや、馬鹿だろうと思ってはいたが、ここまでとは。愚かとはあなたのためにある言葉ですね。いっそ愚蒙という名前に改名したらどうですか」
ユーリはうう、と呻き、イグニスの毛並みをなでた。
「口が悪いよ、私聖女なんでしょ?」
「嫌なら考える力をつけなさい」
「どうやったらつくの、それ」
「まずは、常に相手を疑い、言葉を鵜呑みにしないこと。やられたら百万倍にして返すこと。馬鹿にしてくる相手は完膚なきまでにねじ伏せること」
イグニスは長い指を折りながら、ユーリに流し目をくれた。
「あなたにはもはや、その力があるのですよ。見る目のない連中を見返す力があるのです。馬鹿にされて黙っている必要はない」
「そんなの、嫌だよ」
ユーリは呟いた。
「疲れるし、楽しくないよ」
「楽しめる性質なら良かったですね、あの偽聖女のように」
クリスティーナはユーリを痛めつけて楽しんでいるのだろうか。
「そんなこと、ないよ」
ユーリは首を振り、
「人をひどい目に合わせて、楽しいわけない」
イグニスがかぷ、と手を噛んできた。
「いたっ」
「聖女ぶった発言はやめなさい。人間が他者をいたぶることで快感を得る動物だというのは、歴史が証明している」
「歴史?」
「騎士はなんのために生まれたか。異教徒を迫害するためです。自分たちが優位に立つため、他者を蹴落とす。人間はそういう生き物だ」
「そんなことないもん。イグニスのひねくれわんこ」
ユーリが膨れると、手を噛む力が強くなった。
「うあ、痛い痛い痛い!」
「イラつきますね、あなたは。すでに見捨てたくなってきました」
「見捨てないで、お願い」
ユーリはぎゅ、とイグニスを抱きしめた。
「私、イグニスしか味方いないもん」
「……ふん」
イグニスは尻尾を振って、
「仕方がない。今回は許容しますが、また馬鹿をやったら噛みちぎりますよ」
「なにを!?」
ユーリは鼻や耳をばっ、と抑えた。
「ここを」
「!」
イグニスがいきなり人型に変わり、赤い瞳をこちらに向けた。長い指先が、唇に触れた。ゆっくりなぞられ、ユーリはびくりとすると、す、と目が細くなった。
「噛みちぎって、二度と話せないようにする」
「む、無体すぎるよ……」
「嫌なら考えなさい、どうすべきか」
ユーリは考えたすえ、イグニスに視線を向ける。
「とりあえず」
「ええ」
「お腹減った、むぐ」
イグニスは無言でユーリの頰を押しつぶした。
★
イグニスとユーリが戯れているのを、ルピナスは小塔の上からじっと見下ろしていた。
「あの子、落ちた?」
クリスティーナが尋ねると、首を振る。クリスティーナはそう、とつぶやき、小塔の壁にもたれた。聖女服の端をめくりあげ、来なさい、と囁く。ルピナスは二人から視線を外し、クリスティーナの身体を抱き寄せた。
「……ん」
クリスティーナはルピナスの首筋を撫でながら、
「いい子ね、ルピナス。従順で素敵だわ……」
あの獣──イグニスは確かに美しいが、言うことを聞かなさそうだ。下手をしたら殺される。
「けど、ユーリにやるには、惜しいわね……」
あの美しい容姿、長い手足。気性の荒さ。従えることができたら、どんなに愉しいだろうか。
クリスティーナは胸に埋まったルピナスの頭を撫でながら、快感に吐息を漏らした。
前回イグニスをエリアスと書いてしまいました。すいません。どっちも自キャラなんだけど、名前似てるから……(言い訳)