神待ちナイト
わんわん、わんわん。犬の鳴き声がする。
またこの夢だ。ユーリは犬たちに囲まれ、目の前には鏡がある。まとわりついてくる犬を撫でながら、ユーリはため息をついた。
「やっぱりこの夢かあ」
鏡、犬。どういう意味があるのだろう。ユーリはじっと鏡を見つめる。一匹の犬が、鏡にふんふん、と顔を寄せていた。犬がちょん、と鏡に触れたら、「GOD」という文字が犬の額に現れた。あれ? 逆じゃない?
「あ、そうか、鏡文字」
鏡に映った時に、正しい綴りになるのだ。
ためしに、ユーリも鏡に触れてみた。額に文字が浮きでる。
「IRUY」
「やっぱり逆なんだ」
ユーリははっとした。ミーシャの額に出ていた文字を思い出したのだ。ENVY。指先を噛んで血を出し、鏡に書く。逆から読むと……YVNE。
「意味がわかんない」
ユーリは指についた血をなめ取り、ばたりと倒れた。ぼんやり頭上を見上げていたら、何かが揺らぐ気配がした。
「ん?」
ぴく、と肩を揺らし、ユーリは起き上がった。鏡から、何かが出てくる。
慌てて手を伸ばし、それを掴んだ瞬間、視界が真っ白になった。
「っは!」
覚醒した瞬間、ごちっ、と痛そうな音がした。不機嫌そうな赤い目が、ぎろ、とこちらを見下ろしてくる。どうやら顎にぶち当たったらしい。
「なにをするんです」
「イグニス、なんか出た!」
「なんか?」
ユーリはほらっ、と言い、手のひらを差し出した。彼はす、と視線を下げ、目を見開く。手のひらには、百合の紋章をかたどった痣があった。
「これは……聖痕」
「聖痕?」
「神からのみしるしです。どうやら、神待ちに成功したようですね」
「ほんと? やった!」
ユーリは急いで立ち上がり、
「早く行こう、ミーシャが殺されちゃう」
「処刑は夜でしょう。そう急く必要も……」
言葉を発しかけたイグニスが、瞳を鋭くし、ユーリの腕を引いた。
「え、なに」
カツカツと靴音がして、視界の端に銀色の髪が揺れた。バイオレットの瞳を緩め、クリスティーナがにこりと笑う。
「おはよう、ユーリ」
「クリスティーナさま、おはようございま、うぐ」
「呑気に挨拶してる場合ですか
イグニスに口を塞がれ、ユーリは呻いた。クリスティーナは微笑んで、
「相変わらず仲がいいこと。うらやましいわ」
「あなたたちほどではない。ペットはどこですか」
「あら、ひどい言い草だこと」
「自我のない聖霊など、ペットと同じだ」
クリスティーナは眉をあげ、唇に指先をあてた。
「そうそう、そのことについて聞きたかったの。ルピナスは「影」がないせいで自我を喪失しているって、本当なのかしら」
ユーリはイグニスの手を引き剥がし、勢いこんで言う。
「本当です! 影に憑かれたせいで、ミーシャはあんなことを」
「お聞きになって? 司祭さま。この子、あろうことか私の聖霊を侮辱して、放火犯を庇おうとしていますのよ」
クリスティーナの脇から、司祭が顔を出す。
「なんて娘だ。おまえたち、ユーリを捕えろ」
「え」
本棚の影からぞろぞろ現れた兵士たちに、ユーリはギョッとした。
「えっ!?」
「まったく、そんなに燃やされたいのか」
舌打ちし、手のひらを翳そうとしたイグニスを、ユーリは慌ててとどめる。
「だめだよイグニス、図書館だし、火気厳禁だよ!」
「本と命とどちらが大事なのです」
「両方!」
「では、仕方ない」
イグニスは窓に向かって手をかざした。途端に、勢いよく発せられた火が窓を破る。
「歯を食いしばりなさい」
「え? ぎゃあ」
イグニスはユーリを抱きかかえ、耳元になにかを囁く。直後、窓の外へ放り出した。
「ぎゃー!」
ユーリは叫びながら落下し、植木の中にぼすりと埋まる。
「う、うう……」
なんだか最近、落とされてばかりな気がする……植木から這い出したユーリは、頭上を見上げ、イグニス、とつぶやく。
──追いつきますから、先に行きなさい。捕まったら仕置きしますよ。
ユーリはぎゅ、と唇を噛み、立ち上がって走り出した。
★
「聞いたか? あのユーリとかいう女が脱走したらしいぞ」
「ユーリ? ああ、あの侍女か。どうしてまた」
「なんでも、聖女さまの聖霊にケチをつけて、大罪人を擁護したらしい。何様なんだかな」
騎士たちの間で囁かれる噂に、リカルドは眉をしかめる。脱走? なにをやってるんだ、あの娘は。処刑日は今日だぞ。カイがのんびりした口調で話しかけてきた。
「聞いたかリカルド、ユーリが逃げたって」
「あの娘がどうなろうが、俺には関係ありません」
カイは肩をすくめ、
「見つけたら聖女さまのとこ連れてけってさ」
クリスティーナのことを思い浮かべ、苦い気持ちになる。なんにせよ、ユーリにはイグニスがついているのだろう。ならやすやすと捕まるはずが──。その時、リカルドの視界に、ひょこひょこ動くなにかが映った。あれは……。
顔を引きつらせたリカルドに、カイが首を傾げる。
「リカルド?」
「用事を思い出した」
「え、警備の割り振り始まるぜ?」
「スグモドル」
早口で言ったリカルドは、足早に「それ」に近づいていく。茂みに隠れているつもりなのだろうが、丸わかりだ。
「おい」
「え、っ!」
びくりと震えたユーリが、こちらを見上げて目を泳がせた。
「り、リカルドさま」
「なにをしている。番犬はどうした」
そう尋ねたら、ユーリがしゅんとする。
「イグニスは、先に行けって」
なにを考えているんだ、あの犬は。こんなどんくさい小娘をひとりにしておいたら、一瞬で捕まるに決まっているのに。その時、バタバタと足音が聞こえてきた。リカルドははっとして、ユーリの頭を押さえつけた。
「ふぐ」
こちらにかけてきた兵士が、リカルドに尋ねる。
「こちらに娘が来ませんでしたか。黒髪で背が低い、聖女服を着た娘です」
「さあ、知らないが」
「そうですか……おい、あたりをくまなく探せ」
兵士たちが踵を返そうとしたその時、茂みの中からへくし、とくしゃみの音がした。
「っ!」
ばか! リカルドは思わずユーリをそう罵りそうになった。
「今のは?」
「さあ、虫では?」
「くしゃみをする虫などいないでしょう」
兵士たちが剣の柄に手をかけた。
「どいていただけますか、リカルドさま」
リカルドは歯噛みして、剣をちゃきりと鳴らす。ここで騒ぎを起こせば、ユーリの居場所が知れてしまう──。
「へくしっ」
背後からくしゃみが聞こえてきて、兵士たちが振り向く。カイが鼻をすすっていた。
「あー、今日めっちゃ花粉飛んでるわ」
彼はあ、そういえば、と指を立てる。
「さっき、回廊でユーリを見たって侍女が言ってたよ」
「さっき? それはいつのことですか」
「んー、よく覚えてないけど、キスしてる時」
兵士たちは咳払いし、回廊のほうへと走っていく。
「超素直だな」
カイは感心し、リカルドに近づいてくる。彼はにやにや笑いながら、
「関係ないんじゃなかった?」
「……何のことですか」
リカルドは仏頂面で答え、ちら、と背後を振り返った。ユーリがこちらを見上げてくる。カイがひょい、とリカルドの脇から顔をだし、
「ヤッホーユーリ。あれ、ひとり? 狂犬は?」
「かくかくしかじかで……」
「なるほどー」
なぜ今の説明でわかるのだ。リカルドは胡乱な目でカイを見た。ユーリは必死に訴える。
「イグニスと合流するために、赤の広場まで行きたいんです!」
「ふむ。でもさあ、教会の外に出るのは無理っぽいよ。門のとこに兵士が張り付いてた」
「え」
リカルドは口元に手を当て、
「……それは、なんとかなるかもしれない」
カイとユーリがこちらを向く。リカルドはこちらへ、と言って顎をしゃくった。
カイとリカルドは、ガラガラと台車を転がし、教会の門へと向かう。そこに立っていた兵士が二人を止めた。
「待ってください。それは?」
「ああ、これ? 処刑人を磔にするための板。材料が足りないから持ってきてくれって言われたんだ」
カイがのんびり言うと、兵士たちが顔を見合わせた。
「中身を改めさせてもらいます」
カイはちら、とリカルドを見て、
「どうぞ?」
バサリと音がして、台車にかけられていた布が取り払われた。台車の上には、木材が積まれているだけだ。
「失礼いたしました。どうぞ」
促され、リカルドとカイはまた台車を転がし始める。その後ろを、背の低い小姓がちょこちょこついていった。しばらく台車を転がして行き、教会が遠くなると、カイが小姓に囁いた。
「バレなかったね」
「はい、よかったです」
小姓が帽子の影から顔を覗かせる。
「ユーリかどうかというより、性別自体を全然疑われてなかったよな」
「色気がまるでないせいでしょう」
「リカルド、ひでえ」
そう言いながら笑うカイのほうがひどい。ユーリは胸元に手を当てて落ち込んでいる。
「まあ、いいじゃん、そのうち大きくなるって」
なんなら俺が大きくしようか、と言うカイを、リカルドは半目で見た。この先輩騎士はいつもふざけているが、お尋ね者をかくまっていてものんきとは恐れ入る。
「あ、リカルドは巨乳派だから」
「そ、そうなんですか」
「そんなことより」
ひそひそ話すカイとユーリに口を挟む。
「赤の広場で何をする気なんだ。下手したら捕らえられて殺されるぞ」
ユーリは手のひらを見せた。覗き込んだカイとリカルドが目を見開く。
「これは……なんだ」
「イグニスは聖痕だって」
「スティグマ?」
リカルドは聖伝の一節を思い出していた。
「百合の花の聖痕を持つ乙女、炎から罪を救う」
自分で口にするよりも早く、カイがそうつぶやく。ユーリはキョトンとしていた。
「それ、なんですか?」
「おまえは聖伝の内容も覚えてないのか」
「まあ、騎士は腐る程唱えるからね」
カイはそう言って、
「罪ってのがよくわかんないけど」
ユーリはじっと聖痕を見つめている。
「私、ミーシャを助けたいんです」
「そんなことしたらヤバイんじゃね?」
「なんにしても、私教会にはやっかい者扱いされてますから」
赤の広場についたユーリは、騎士たちに頭を下げた。
「ありがとうございました。イグニスが来るまで人混みに紛れてます」
「行きましょう」
リカルドが踵を返すと、
「リカルドさま」
ユーリが声をかけてくる。
「イグニスのこと、嫌いにならないであげて下さい。本当はいい子なの」
「……おまえの前でだけだろう」
さっさと歩き出したリカルドに、カイが声をかけてきた。
「なあ、賭けようか」
「なにをですか」
「ユーリが「奇跡」を起こせるかどうか」
にや、と笑ったカイを、リカルドは無言で見た。
「俺は起こせる方に賭けよーっと」
「賭けるとはいってないんですが」
「じゃあ、負けたらユーリを後ろから抱きしめて「好きだ」って囁くってのは?」
「絶対に嫌です」
聖痕を見ても、リカルドはまだ半信半疑だった。クリスティーナは聖女ではない。しかしユーリが聖女であるとはやはり信じがたい。奇跡が本当に起こったら、納得できるだろうか。あの小さな少女が、自分が守るべき相手なのだろうか。




