第三章幕府崩壊、義の行き先
病と衰え、家督の譲渡
慶応二年の春、浦賀の海はいつもより冷たく感じられた。三郎助は、奉行所の廊下を歩く途中でふいに足を止め、胸を押さえた。
「……ぐっ」
鋭い痛みが走り、思わず壁に手をつく。
そこへ同僚の石渡が駆け寄った。
「中島、大丈夫か」
「大したことはない。ただの疲れだ」
「その“ただの疲れ”が何度目だと思っている」
「……海を離れれば治るさ」
石渡は深いため息をついた。
「お前は海のことになると、途端に無茶をする。だがな、中島……時代は変わってきている。お前一人が背負う必要はない」
「背負わねばならぬ。私は幕府に育てられた人間だ」
その言葉に、石渡は何も言えなくなった。
その夜、家に戻ると、登喜が心配そうに迎えた。
「三郎助さん、顔色が悪いですよ」
「少し横になれば治る」
「治りません。医者を呼びます」
「医者など……」
「呼びます!」
登喜の強い声に、三郎助は観念した。
診察を終えた医師は、静かに言った。
「中島殿、無理が祟っています。しばらく休養が必要です」
「休養……」
「はい。このままでは、命に関わります」
三郎助は黙り込んだ。登喜がそっと夫の手を握る。
「三郎助さん……お願いです。生きていてください」
「……わかっている」
数日後、三郎助は恒太郎を呼んだ。
「恒太郎、そなたに話がある」
「はい、とと」
「与力の職を……そなたに譲る」
「え……?」
恒太郎は驚きに目を見開いた。
「とと、私はまだ若すぎます」
「若いからこそよい。そなたは海を知っている。武士としての覚悟もある」
「でも、ととは……」
「私は、もう長くは務められぬ」
恒太郎は唇を噛んだ。
「ととは、海を離れるのですか」
「離れるわけではない。ただ……前のようには働けぬ」
恒太郎はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「承知しました。ととの名に恥じぬよう、務めを果たします」
三郎助は息子の肩に手を置いた。
「恒太郎……そなたは強いな」
「ととが強いからです」
その言葉に、三郎助の胸が熱くなった。
その夜、登喜が静かに言った。
「三郎助さん……あなたは悔しいのでしょう」
「悔しい……そうだな。海を守るために生きてきた。だが、身体がついてこぬ」
「でも、あなたは十分に務めを果たしてきました」
「いや、まだだ。幕府は揺れている。海は荒れている。私は……まだ海を離れられぬ」
登喜は夫の横顔を見つめた。
「あなたは、幕府のために生きてきたのですか。それとも、海のために生きてきたのですか」 「……どちらもだ。幕府があったから、私は海を守れた。恩を受けた以上、見捨てることはできぬ」
登喜はそっと夫の手を包んだ。
「あなたの義は、誰よりも強い。でも……その義が、あなたを苦しめているように見えるのです」
三郎助は目を閉じた。
「義を捨てれば、私は私でなくなる」
その言葉は、静かだが揺るぎなかった。
幕府は衰え、異国の影は濃くなり、時代は大きく揺れていた。だが三郎助は、病に倒れながらも、なお幕府への義を捨てられなかった。
その義こそが、のちに彼を蝦夷地へと導く。そして、親子三人が同じ船に乗り込む運命の始まりでもあった。
再び海へ
慶応三年の秋。
浦賀の海は、どこか落ち着かない色をしていた。潮の流れが乱れ、風がざわつき、まるで時代の不穏を映しているかのようだった。
三郎助は、病からようやく起き上がれるようになったばかりだった。だが、身体の衰えとは裏腹に、胸の奥では何かが静かに燃え始めていた。
ある日、奉行所から使いが来た。
「中島殿、至急お越し願いたいとのことです」
登喜が驚いた顔を向ける。
「三郎助さん、まだ身体が……」
「行かねばならぬ。幕府が呼んでいる」
登喜は夫の腕を掴んだ。
「あなたは、もう与力ではないのですよ」
「だが、海は私を離さぬ」
その言葉に、登喜は何も言えなくなった。
奉行所に着くと、上役が深刻な顔で言った。
「中島、戻ってきてくれて助かった」
「何があったのです」
「幕府が揺れている。京では薩長が勢いを増し、江戸でも不穏な動きがある。海防を立て直すため、経験ある者が必要だ」
三郎助は静かに息を吸った。
「私に、何をさせたいのです」
「軍艦役として再出仕してほしい。お前ほど海を知る者はいない」
石渡が横から口を挟んだ。
「中島、本当にやるのか。身体はまだ……」
「身体は、海に出れば戻る」
「無茶を言うな」
「無茶ではない。海は、私の居場所だ」
上役が言った。
「中島、幕府は今、崩れかけている。だが、海を守る者がいなくなれば、日本は本当に沈む。頼む」
三郎助はゆっくりと頭を下げた。
「承知しました。再び海へ戻りましょう」
帰宅すると、登喜が待っていた。
「三郎助さん……行くのですね」
「行かねばならぬ。幕府は、もう長くは持たぬだろう。だが、最後まで義を尽くしたい」 「義……」
登喜は夫の顔を見つめた。
「あなたは、幕府に義を尽くすのですか。それとも、自分の生き方に義を尽くすのですか」 「……どちらもだ。私は幕府に育てられた。海を守る術を与えてくれたのも幕府だ。その恩を忘れるわけにはいかぬ」
登喜は静かに頷いた。
「わかりました。あなたの道を止めることはできません。でも……」
「でも?」
「どうか、生きて帰ってきてください。あなたがいなければ、この家は……この子たちは……」
三郎助は妻の手を握った。
「必ず帰る。海に誓って」
その夜、恒太郎と英次郎を呼び寄せた。
「とと、また海へ行くのですか」
恒太郎が問う。
「ああ。幕府が揺れている。海を守る者が必要だ」
英次郎が不安そうに言った。
「とと、身体はもう大丈夫なのですか」
「大丈夫だ。海に出れば、身体は目を覚ます」
恒太郎は真剣な目で父を見つめた。
「とと……私も行きます」
「何を言う」
「私はもう与力です。ととと共に海を守りたい」
英次郎も続いた。
「兄上だけずるいです。私も行きます」
三郎助はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……二人とも、覚悟はあるか」
「あります」
「あります!」
三郎助は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ならば来い。親子三人、海の道を歩もう」
その翌月、三郎助は軍艦役として再出仕し、旧幕府艦隊とともに品川沖を脱走する。行き先は蝦夷地。幕府の残された力を集め、新たな道を切り開くための旅だった。
だがその旅は、三郎助にとって“義の行き先”を探す旅でもあった。そして、親子三人が同じ最期へ向かう、静かで長い航路の始まりでもあった。
親子三人の船出
慶応四年正月。
江戸の空はどこか重く、海には冬の風が荒々しく吹きつけていた。
旧幕府艦隊が品川沖に集結し、榎本武揚のもと、蝦夷地へ向かう準備が進んでいた。
三郎助は、軍艦「開陽丸」の甲板に立ち、冷たい風を受けながら海を見つめていた。その背中に、恒太郎が声をかける。
「とと……本当に行くのですね」
「行かねばならぬ。幕府は崩れたが、海はまだ残っている」
「海……」
「海を守る者がいなくなれば、日本は沈む。たとえ幕府がなくとも、海は我らを必要としている」
恒太郎は父の横顔を見つめた。
「ととは、幕府のために戦うのですか。それとも……海のために?」
三郎助は少しだけ笑った。
「どちらもだ。だが今は……海のためだろうな」
そこへ英次郎が駆け寄ってきた。
「とと!兄上!榎本様がお呼びです!」
「何と言われた」
「『中島殿には、蝦夷地で砲兵を任せたい』と……」
三郎助は静かに頷いた。
「そうか。いよいよだな」
榎本武揚の前に立つと、彼は三郎助を見て言った。
「中島殿。あなたほど海を知る者は、もはや幕府にも残っておらぬ。蝦夷地での戦い、力を貸してほしい」
「微力ながら、お役に立ちましょう」
「息子たちも連れてきたのか」
「はい。二人とも、海を守る覚悟はできております」
榎本は目を細めた。
「親子三人で海へ出るか……。時代が変わっても、義は残るものだな」
恒太郎と英次郎は緊張した面持ちで頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
榎本は笑った。
「若い力は頼もしい。だが、無理はするなよ。戦は、命を捨てるためにあるのではない」
三郎助は静かに言った。
「しかし、守るべきもののためなら、命を惜しむわけには参りません」
榎本はその言葉に、しばし沈黙した。
「……中島殿。あなたの義は、時代を越えている」
その夜、船室で親子三人が向かい合った。英次郎が言った。
「とと……蝦夷地は寒いのでしょうか」
「寒いだろうな。だが、海はどこへ行っても同じだ。荒れれば怒り、静まれば眠る」
「ととは、海が好きなのですね」
「好きというより……海に生かされてきたのだ」
恒太郎が静かに言った。
「とと。私は、あなたのように生きたいと思っています」
「恒太郎……」
「義を貫き、海を守り、家族を守る。そんな武士になりたい」
英次郎も続いた。
「兄上だけじゃありません。私も、ととのようになりたいです」
三郎助はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと二人の肩に手を置いた。
「……そなたたちが、そう思ってくれるなら、私はもう何も言うまい。だが、覚えておけ」 「はい」
「義とは、死ぬためにあるのではない。生きて守るためにあるのだ」
「生きて……」
「そうだ。死ぬ覚悟は簡単だ。だが、生きて義を貫くのは難しい」
恒太郎と英次郎は深く頷いた。
翌朝、開陽丸はゆっくりと帆を上げ、北へ向けて動き出した。江戸の町が遠ざかり、海だけが広がっていく。
英次郎が甲板で叫んだ。
「とと!見てください!海が……広い!」
三郎助は笑った。
「海は広い。だが、義の道はもっと広いぞ」
恒太郎が言った。
「とと、蝦夷地では何が待っているのでしょう」
「わからぬ。だが、どんな海でも、我らは進むだけだ」
親子三人は、同じ風を受け、同じ海を見つめていた。その背中には、時代の荒波に抗う者の静かな覚悟が宿っていた。
こうして、中島三郎助・恒太郎・英次郎の“親子三人の船出”は始まった。それは、義を貫く者たちが辿る、長く、そして哀しい航路の第一歩だった。




