第19話:笑わぬ妃と翡翠の涙
(いつも通り、甘い香の部屋に、あの沈黙が広がっていた)
ユウは膝をつき、床の絨毯の縁を指でなぞりながら、目の前の妃を観察していた。
「……昨日も、召し上がっていませんね」
妃――ユカは返事をしない。ただ、たおやかに伏した睫毛の先で、虚空を見ていた。表情は美しいが、そこには感情の揺らぎがなく、あまりにも整っていて、生きている人間のものではないように見える。
(死人のような顔)
宮中で誰もが噂していた“笑わぬ妃”。皇帝が初めて迎えた正妃であるにもかかわらず、妃はその日からただ黙し、笑わず、誰の話にも心を開かない。
それでも毎朝、翡翠の髪飾りだけは欠かさずに髪に差すという。翡翠は泣かない石だ――と、ある宦官が言っていた。
「では、また茶を淹れてきますね」
ユウは妃の返事を待たず、静かに部屋を出た。
その背には、声なき声が追いかけてくるような気配があった。
中庭の薬草庫へ向かう道すがら、ユウは思考をめぐらせていた。
(あの部屋だけ、妙に温度が低い。香も……控えめ。笑わぬ妃の噂どおり、“人を遠ざけている”としか思えない)
他の妃たちは香で自分を飾り、女官たちの間ではどこの香が良い、誰の香が贈り物に選ばれたと騒ぐのが日常だった。
だが、ユカ妃の部屋はそれを拒んでいる。いや、違う――とユウは自分の思考を打ち消した。
(拒んでいるんじゃない。あれは、“誰にも近づいてほしくない空間”なんだ)
「ユウ様。例の、茶葉の件……」
薬庫の隅にいた細目の宦官が声をかけてきた。ユウが選んだ特製の安神茶を作るため、特別に保管していた“地安草”が消えているというのだ。
「……盗まれた?」
「はい。ただ、奇妙なことに“翡翠石の粉”も一緒に、です」
ユウの思考が静かに回転する。
翡翠の粉は、古来より不眠や夢魔を封じるために用いられてきた。だが、服用すれば幻覚と神経の鈍麻を引き起こす可能性もある――特に、過剰摂取すれば、感情を止める。
(まさか……あの妃、自ら“薬”を?)
夕暮れ。再び妃の部屋を訪れると、翡翠の髪飾りが卓上に置かれていた。
「……今日は、つけていらっしゃらないのですね」
その言葉に、ユカ妃の指先がかすかに震えた。初めての反応だった。
ユウはそっと卓に座り、用意してきた茶を差し出した。
「これは……ただの薄茶です。翡翠も何も入っていません。感情も、思考も、押し殺さなくていいお茶です」
妃は顔を上げないまま、唇だけを動かした。
「……あなたは、なぜ、ここへ?」
「私は医者です。心も、毒も、見えぬ病も診ます」
静寂のなか、微かに茶器の触れる音が響いた。
「……誰も信じないと思っていたの。私の……あの夜の記憶も、証も、全部夢だったのだと」
「妃が眠るために、翡翠を喫していたのは、夢の中で“声”が聞こえるからですね?」
ユカ妃の目が、初めてこちらを見た。
「“あれ”は夢じゃない。……私の、赤子の、声」
その瞬間、ユウの中で点が線になる。
三か月前の深夜、妃の侍女が突然姿を消した事件。その日を境に、妃は笑わなくなり、翡翠を身に着けるようになった。そして、宦官たちは噂していた――「あの妃は、子を授かっていたのだ」と。
(妊娠、出産、そして赤子の……死?)
ユウは目を閉じ、深く息を吐く。
「妃……“声”が聞こえるのは、妃のせいじゃありません。毒です。記憶と幻聴を混ぜる……“白鸞花の香煙”。あなたの部屋に仕込まれている。誰かが、あなたを――狂わせようとしている」
その言葉に、ユカ妃の翳った目に、涙がひとすじ、流れた。
翡翠の涙だった。




