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そこは明るい部屋だった。
窓は空いている。優しく吹きこむそよ風が、窓辺にかけられたレースのカーテンを揺らして儚い。
室内を白く照らす陽光の中、その勇者は……ベッドに身を横たえていた。
その姿を一目見た途端、真由の心臓が「きゅん」と音を立てる。彼女は口元を押さえ、膝から床へと崩れ落ちた。
「やばい……推したい……」
そこにいたのは筋骨隆々としたゴリラマッチョなどではなく、今にも消え入りそうなほどに線の細い美青年だった。
実は真由、まじめそうな執事よりも友情に篤いバディよりも、こうした病弱そうな男が性癖ドストライクである。そこにいる青年は、まさに真由が理想とする病弱キャラそのものだった。
まずは長く伸ばした銀髪、前髪が乱れて目元を隠しそうなほどにたれているのがすごく良い。
その銀髪の陰にある生気のない目も、病弱なのは生まれつきなんですよと言いたげな色素の薄いアイスブルーであり、真由のハートをずぎゅんと撃ち抜く。
真由は拳で床をドンと叩き、あふれる思いを封じ込めようともがき始めた。
「なにこれ、なにこの病弱美青年、推したい、推したい、推したい!」
しかもその青年、声もか細くて弱々しい。今にも消え入りそうな声で黒髪の美青年にこう言うのだ。
「やあ、セバスチャン、今日は具合がすごくいいんだ」
黒髪美青年――セバスチャンは、そんな主人のそばに寄って、肩口にそっと手を置いた。
「無理をなさらないでください」
「無理なんかしていないよ、本当に具合がいいんだ」
そういった後で、軽く咳き込む。見事な病弱っぷりだ。
銀髪病弱美青年ーーユーリウスは苦しみを堪えているのかやつれ切った顔で、それでもうっすらと笑いを浮かべて真由に顔を向けた。
「あなたが、異世界から召喚された回復術士ですね、はじめまして」
床を転げ回って悶えていた真由は、この笑顔で完全に落ちた。
「お、推し決定……」
ユーリウスは怪訝そうな顔だ。
「押し……?」
「あ、いえ、なんでもないです! 花咲真由、23歳です! よろしくお願いします!」
「ユーリウス=ユーリレオ、26歳です、よろしくお願いしますね、回復術士さま」
育ちが良いのだろう、話し方も上品で、偉ぶったところが一つもないのがさらに好印象。
「ううん、マジ推し……」
真由はうっとりとユーリウスを眺めているが、これでは話が進まない。
セバスチャンは主人の背中を支えたまま、真由に顔を向けた。
「回復術士さま、とりあえず起き上がっていただけますか」
「あ、はい」
「ご覧の通り、ユーリウス様は生まれつきお体が弱く、勇者としての旅に耐えられるとは思えません」
「じゃあ、勇者になんかならなきゃいいじゃない」
「そうはいきません。勇者は世襲制ですので」
「世襲制ったって、もっとこう……体の丈夫そうな兄弟とかいないの?」
「残念ながらユーリウス様は長子ですので、どうしてもユーリウス様が勇者を継がねばならないのです」
「なんか、めんどくさいのね」
「ええ、めんどくさいのでございます」
「ふうん」
真由はユーリウスをマジマジと見た。見れば見るほど儚げで虚弱で、しかも見目麗しいのだから一日のうちに咲いて散る短命な花のような凄まじい美しさがある。
つい先ほどまで新たな推しは作らないと心に決めていた真由ではあるが、この瞬間……彼女は『沼に落ちる音』を聞いた。
「推すわ」
キリッと顔を上げた真由の言葉に、セバスチャンが困惑する。
「押す……のでございますか?」
「あ、いえ、つまり……私、彼のために回復術士になるわ」
「それをあなたの世界では(押す』というのですか?」
「いやいやいや、もう、推すとか押すとかの話はおしまい。私、具体的になにをすればいいの?」
「あなたにはユーリウス様の回復役として共に魔王討伐の旅に向かっていただきます」
「回復って、戦闘中の怪我とか治せばいいの?」
「いえいえ、ユーリウス様が戦闘如きで怪我を負うなどあり得ません。あなたに回復していただきたいのは……」
その時、二人の会話を遮るように咳き込む声が。もちろん咳き込んでいるのはユーリウスだ。
「ごほっごほっ、がはっ、くはっ!」
痰が喉に詰まったのか、ユーリウスは白目をむいてベッドに倒れ込む。
これを見た真由とセバスチャンは大パニック状態だ。
「え、し、死んじゃった? まさか、私が推したから?」
「いいえ、あなたは手すら触れていないのだから、押していないでしょう、発作ですし、死んでいません! まだ……」
「ど、ど、ど、どうすればいい、ねえ、どうすればいい?」
「とりあえず、一番簡単な回復呪文を教えます。あなたの今の魔力なら、初等魔法ですら高等魔法並みの効果があるはずですから」
「え、あ、うん、回復ね、回復!」
二人がおろおろしている間にも、ユーリウスは胸を掻き毟ってゼイゼイと喘ぐ。その顔は真っ青で、今にも呼吸は止まりそう……。
「くはっ!」
一際大きく体を震わせて、ついにユーリウスの呼吸が止まった。
「ああっ、推しが! また推しが死んじゃう!」
悲鳴をあげる真由。
セバスチャンの方は、冷や汗に濡れた額を撫であげて、自分の髪を少しかき乱した。
「くっ、魔法原理の解説からしていては間に合わない! 少し荒っぽいが、耐えてくれ!」
慇懃だった執事がうっかり素に戻って乱暴な口をきく、それもまたいい……と思っている間もなく、セバスチャンの手が真由の額に当てられた。
「強制教育!」
真由の脳内に、魔法の知識が直接流れ込む。それはとても不思議な感覚だった。
(死ぬ時に見る走馬燈ってこんな感じかしら)
回復魔法に対する情報が断片的、かつ象徴的な映像となって脳裏に浮かんでは消える。驚くべきことにその映像が切り替わるたびに、まるでその映像のシーンを体験したかのように知識が蓄積されてゆくのだ。
おそらくは幼いころのセバスチャンの主観と思われる魔法学の授業……友人たちと肩を並べての実践訓練……さらには実地で魔法を使用した経験まで……大量の知識が一気に真由の脳内に流し込まれる。
その知識は激しい頭痛となって真由の頭を締め付けた。
「い、痛い!」
「耐えろ! 俺が長い時間かけて蓄積した経験の全てが注がれているんだ、苦しいのは当たり前だ!」
「で、でも、痛い!」
「あと少しで済む!」
そのあといくつかの『経験』を流し込んで、セバスチャンはやっと真由の額から手を離した。
「手荒な真似をして申し訳ございませんでした。しかしこれであなたは回復魔法を習得できたはずです」
言葉遣いも元通り、セバスチャンは乱れた髪を手櫛で整える。
「さあ、ユーリウス様に回復魔法を、お願いいたします」
真由は少し頭痛が残るこめかみを指で強く押しながら答えた。
「うん、まかせて」
ユーリウスは白目をむいて口の端から泡を吹いている。しかし真由は、いま、自分がどうするべきかをしっかりと理解していた。
彼女は片手を軽く差し出し、そして唱える。
「ヒール」
差し出した真由の手の中に青白い生命力の光が灯る。それをそのままユーリウスの額に押し付ければ回復魔法が発動する。
回復の魔法を流し込まれたユーリウスがうっすらと目を開けて微笑んだ。
「五年前に死んだおばあちゃんに会う夢を見ていたよ」
それは多分、夢じゃなくて臨死体験では……。
真由はこの時、はっきりと覚悟を決めた。
(ユーリウス……この彼を最推しにしよう)
なにしろ今の真由は彼を回復させる力を持っている。ならば推しが死ぬことはない。
「.私、回復術士としてあなたの旅に同行します。あなたのことは絶対に……死なせない!」
そう宣言する真由の言葉には、迷いも、戸惑いもなかった。




