66.灰色狼(4)
ドーグは薄暗い白夜の空の下、一人で緑の斜面を下った。そこは森と森の切れ間で、南北から底へと緩やかに地形が下っている。土を調べると表面は乾いてぐずぐずだがその下は湿っていた。まるで干上がった川のような地形は東へと伸びて森の陰に隠れるが、西は木立の中の窪地で終わっている。実際、ここは川なのだろう。夏の間は干上がってしまうというだけで。
泥で汚れるのも構わずに顔を這わせて地面を調べていくと、馬の足跡が見つかった。エリアス王子が言ったとおりだ。まるで何でも知っているかのようで誇らしく思う。未来の我が王と信じた御方。
ドーグは緑に覆われた斜面に戻って草を千切り取り、ブーツの底の泥を拭った。ぐいと鼻を擦ると頬についた泥が伸びて線を引いたが本人は気付いていない。駆け上がって森の中に隠れている二人の味方のもとへ戻る。
「どうだった?」仲間の一人が先んじて問うた。
「エリアス王子の言ったとおりだった。馬の足跡がたくさんある」
「すげぇ。じゃあここは連中の通り道なんだな」
連中、というのは昼間に遭遇した騎馬の賊のことだ。ドルイドの痕跡を追っていた斥候が三人の賊と遭遇して戦闘になり、こちらは二人が軽傷、敵一人に重傷を与えて両者とも撤退した。その正体については不明だがエリアス王子いわく、エドヴァルド王に従っていない辺境の豪族だろうということだった。どうしてドルイドはその豪族を頼ったのか。なぜドルイドを匿うのか。この件について王子は〝我らが友人〟と呼ぶ捕虜のドルイドに尋問を行ったが新情報は得られなかったようだった。ようだった、というのは二人きりの尋問を終えても特に何も言わなかったからだ。
エリアス王子はより慎重な偵察を指示した一方で、ドーグたち三人にはこの場所を調べて見張るよう命じた。一度通り過ぎただけの場所なのによくも覚えていたものだとドーグは感心する。故郷から遠く離れたこのような辺境の地で周囲に気を配るのは当然だが、相手が馬を乗用に使っているかもしれないというだけでこの場所に至るとはどういう思考なのだろう。
「よし、じゃあ一人ずつ伏せるか」という提案にドーグを含む二人はうなずき、サイコロで役割と順番を決めた。ドーグは起きている役になって、仲間の一人は馬の道を見張るために離れ、もう一人は外套に包まって横になった。深夜の森でも白夜の時期はそれほど暗闇というわけではない。それに南のアード地方よりも明るい気がする。まさか自分がこんなに遠く北の地まで来るとは思っていなかったが、エリアス王子と出会えたのは僥倖と言わざるを得ない。もし王子があの時自分に声をかけてくれなければ、ここにいる二人とも仲間意識なんて持てなかったろう。
森の奥から染み出すように靄が出てきた。ホーホーと鳴く森フクロウの声が控えめになり、ホホゥホホゥという別の鳥の歌が始まる。深夜を過ぎて夜明けを待つ時間帯。見張り役が戻って来て、眠っていた仲間を起こして交代する。そしてドーグがその場を離れ、馬の道が見下ろせる茂みの陰に伏せった。朝露に濡れる草の香りは甘いが、服を湿らせるから気持ちのいいものではない。森が吐き出す新鮮な朝の空気は、故郷の森より苦みが強かった。靄が底へと流れ込んで滞留し、視界を悪くする。くそっ、とドーグが口の中で毒づいた時、霞む視界の中に、動物の鼻面がぬっと出てきて息を飲んだ。そいつは警戒するようにゆっくりと森から道に出てくる。なんとも立派な牡鹿だった。大きくてしなやかな体躯。艶やかな毛皮。朝露に光る角。トコトコと道に出てきて、時々地面を確かめている。思わず見惚れるほどの獲物だ。ドーグは弓をぎゅっと握ったが、自分の役目を思い出して手を緩めた。惜しい。もしあれほどの獲物を手に野営地へ戻れば名誉と賞賛を得られるだろうに。
その様を妄想していると、牡鹿はびくんと首を立てて耳をぴんと伸ばした。土を蹴って森の中へ駆け戻っていく。なんだ、と注目していると別の動物が現れた。長い鼻面に頭部から首筋を覆う毛。立派な胴体に長い脚。そして背には人間。ドーグの緊張感は一気に高まった。ぴくぴく痙攣する指を地面に押し付ける。鞍の上にいるのは軽装の男だった。身に着けているのは革鎧。毛皮をマントのようにして、鉄兜を被っている。片側に荷物、反対側に盾を吊るしていて弓袋も見えた。ドーグのほうに顔を向け、思わず目を閉じる。動くな、気付くな、動くな……と心の中で唱えてゆっくり目を開くと、馬上の男は左右を見回しながらゆっくり進み始めていた。そのまま通り過ぎていき、ほっとしたのもつかの間、後続が現れる。
先頭の馬には二人の男が乗っていた。いかにも戦士らしい立派な体躯の黒髪の男と、エリアス王子と同じ栗色の髪のほっそりした男。背に六尺棒など括りつけているので戦士ではない。ドルイドだろうか。続々と現れる騎馬の列。ほとんどは二人乗りで子供を加えた三人乗りまでいる。戦士の集団という感じではない。大きな荷物を積んだ馬もいるし、女が操る馬もある。合計三〇頭ほどの騎馬が、とっとっと、と軽快に道を進んで行った。踏み潰された道はすっかり乱され、ぬかるんで泥を飛ばしている。
ドーグは動けなかった。すぐにでも仲間に、エリアス王子に、知らせたかったが動くと見つかるような気がした。騎馬の行列というものを初めて見たせいもあったかもしれない。人間の駆け足程度の速さなので実際にはすぐに通り過ぎて行った。ドーグはずりずりと伏せたまま後退し、森に戻ると仲間のもとへ走った。
ドルイド討伐軍の野営地は北へ森を抜けた先の荒野に設営されている。礫の散らばる荒れ地の石はテーブルにも椅子にも荷物置きにもなった。幕を張った屋根の下に荷物と物資が置かれ、大小のテントが並び、もう空は十分に明るいが焚き火は残っている。料理当番がスープとパンを配っていても、のんびりした朝の風景とは言えない。戦士たちはそわそわして行き交い、少しの気配で周囲に目を向けている。見知らぬ土地と見知らぬ敵のためだ。
仲間二人と共に野営地へ戻ったドーグはエリアスを探した。たいてい人が集まっているのですぐに見つかる。男たちの間から覗く、組んだ短い脚と丸い腹、左右へ張った肘と栗色の髪。寝転がったままエリアスは戦士たちと話していた。
「どうすんです、大将。敵にはこっちの位置がバレてる。向こうの位置はだいたいわかった。そしたら後はやるこた一つでしょうよ」
「んあー、わかってるよー。いま考えてんだろうがよー」とエリアス。
「まったく、うちの大将は締まりがねぇ」
「お前、いま俺の腹の話をしたか?」
「腹も何も全部まるっと締まりがねぇって話です!」
周囲の戦士たちが笑った。緊張感がふっと緩む。ここにいるアードの戦士たちはエリアス王子をすっかり気に入っている。この連帯感がなければ、ここまで行軍してくることはできなかっただろう。エリアスがドーグに気付いて腹の向こうから目を覗かせた。
「エリアス王子……!」
目が合っただけで伝わったようだった。エリアスはごろりと起き上がる。「戦闘準備だ」あまりに唐突だったので戦に焦る戦士たちすら冗談かと反応が遅れる。「居残り組以外は戦闘準備。準備でき次第出発する」
慌てて動き出した戦士たちと入れ違いにドーグらはエリアスの前まで進み出た。丸々とした王子は報告に先んじる。「何騎だった?」
ドーグは自分が見た光景をなるべく正確に伝えようと努力したが、上手く説明できたかどうか分からなかった。エリアスはうなずき、肩に手を置いて労う。「わかった。偵察組は休んどけ」そして自分のテントへ歩き出す。
「あの……エリアス王子!」
呼び止められて王子は振り向いた。「ん?」
「俺も一緒に行っていいでしょうか……!」
エリアスの言葉は提案や気遣いでなく命令だとドーグにもわかっていた。そこに疑問を差しはさむことは従士たる者あってはならない。ドーグは直接ではないもののヨルゲン王に忠誠を誓った身だが、心はもうエリアス王子の従士だった。だから、そんなことを口走った自分を恥じた。
「あの、すみません、俺……」
「いいぜ。少し待ってろ」
「え?」
エリアスは目でうなずいて、今度こそ自分のテントに向かった。
ドルイド討伐軍は二〇人の戦士と非戦闘要員を野営地に残して四一人で出発した。右は険しい岩山、左は針葉樹の森に挟まれた小石だらけの悪路を歩く。前方に見えてきた針葉樹と広葉樹の混合林は偵察隊が騎馬の敵と遭遇した場所だった。盾を持ち上げて周囲を警戒しつつ林を抜けると、再び礫の散らばる荒れ地に出る。遥か前方に土と石を蹴散らして走る馬の尻と騎手の背中が見えた。敵の斥候だ。反射的に弓を構えた数人にエリアスが「やめやめ!」と命じる。怪訝な顔で見返す男たち。
「いいか。やつらがドルイドを匿っている可能性は高いが、地元の豪族ならエドヴァルド王の従士かもしれねぇ。いきなり襲いかかったりするな。まずは俺が話す。だが連中の一挙手一投足も見逃すなよ。矢の向き、マントの下の手、隠れてこそこそ動くやつに目を光らせろ。俺が合図したら、一斉攻撃だ。それまでは待て」
さらに行軍を続けるうちに太陽がやっとこの荒れ地を照らすようになった。石の隙間でキラキラと光る帯は川だ。「あの川の上流……右手のほうだ。よく見ろ」エリアスの指が示すほうを見ると、川を塞ぐように突き立った立石と崖の隙間から盾を構えた男が一人また一人と溢れ出てくるところだった。ドルイド討伐軍が前進を止めて盾の壁を準備した頃には、相手方も川を背にして同じようにしていた。エリアスの隣でドーグは盾の隙間から敵を観察する。兜に覆われた顔の下から垂れる髭は白髪交じりで、そんなのが何人も混じっていた。鎧で隠されているが老人ではないのか。
敵の中からのっそりと一人の巨漢が現れた。肩幅もあって胸は分厚いが腹はでっぷりと大きく、はち切れんばかりで、膝まで覆うはずの鎖帷子はベルトまでしか届いていない。板金の胸当てと腕当てに狼を模した鉄兜。アルダー地方では熊の意匠が一般的なので狼は珍しい。円形盾と斧で武装している。巨漢は最前列に留まらず、堂々と、さらに数歩前に出てきた。
「俺はこの集落の頭領でオーロフだ! お前さんらは何者だ!」
身体の大きさに見合った声量が岩山に反響した。相手を見た途端にエリアスはニヤリとして味方を押しのけ、同じように前へ出る。これは一騎打ちの可能性もある流れだが、自分より頭二つぶんも背が高く、身体も二回りは大きい相手に笑みを浮かべる余裕があるなんてドーグには信じられなかった。エリアス王子が戦うところは見ていないが、もしかしてものすごく強いのだろうか。身長は低いが体重は十分過ぎるほどあるし……。
「俺はアードリグの主にしてアード地方の王、四王が一人ヨルゲンの息子エリアスだ。このドルイド討伐軍を率いている!」
「エリアスだぁ? うはははははっ!」オーロフと名乗った巨漢は腹を揺らして大声で笑った。「偽物にしても出来が悪すぎらぁ! 本物のエリアスはおめぇみてぇな子豚ちゃんじゃなかったぜ!」
「あんたこそ腹ばかりデカくなって頭のほうはてんで駄目らしいな。そいつのほうが偽物で、俺のほうが本物なんだよ。あんたは騙されたんだ」
「なんだとぉ、このデブ、人のこと言えねぇだろがぁ!」
「うるせぇ、酒樽じじい! その腹にたっぷり詰まった酒は何年ものだぁ? ここからでもぷんぷん臭ってくらぁ!」エリアスは自分の腹を抱えてよろよろと右に左に行ったり来たり。滑稽な動きにドルイド討伐軍から一斉に笑い声があがる。「動くとたっぷんたっぷん揺れんだろ? いやみなまで言うな、俺には分かる! ちなみに俺のは一七年物だ。味で一騎打ちと行こうじゃねぇか。さぁ、こい!」間抜けのようにあんぐりと口を開け、股間を前に突き出すと勢いはどっと増した。地面を踏みしめ盾を叩いて大いに笑う。そのどよめきが場を支配する。
「くそっ、なんて野郎だ。こうまで捨て身でくるとは、プライドがねぇのか……わかった。それでドルイド討伐軍のエリアスが何の用だ」
まだ響く笑い声に負けぬようエリアスは大声を張った。「ドルイドを匿っているなら出せ! 出さねぇならお前らごとまとめて皆殺しにする! 女子供も容赦しねぇ」その声に戦士たちの笑みは消えていき、代わりに殺気が高まっていった。オーロフとエリアスはじっと睨み合う。出遅れてなるものか、とドーグはエリアスの合図を待ったが、その前にオーロフが沈黙を破った。
「……エリアスと一緒に出て行った。ここにドルイドはいねぇ。本当だ」
「そうか、わかった」
えっ、と近くで誰かが漏らした。戦いに向けて昂った気運が肩透かしを食らったのはドーグだけではあるまい。エリアスは腕を組んだ。
「偽物が何て言ったか知らねぇが、俺たちは四王の命で動いている。アルダー地方の王たるエドヴァルドに代って物資を要求する権利を俺は有している。従うなら、偽物に協力したことはいったん不問にしてやろう」
「わかった。可能な限り、要求に従う」オーロフの声には明らかな悔しさがにじんだ。それは疑うに十分なほどだったが、エリアスは追及しなかった。「こちらの野営地はわかっているはずだ。今日中に持ってこい」
「ああ、わかったよ」というオーロフの答えを聞き終える前に、エリアスは踵を返して味方のほうへ戻った。
「えっ、信じるんですかい?」戦士の一人が誰しも思っている疑問を王子へぶつける。エリアスはとぼけた顔で答えた。「夜明け前に馬で出て行った一団をドーグたちが見ている。それがドルイドだったんだろ。あんまり疑ったら爺どもが可哀そうじゃねぇか」
爺って、と改めて敵を見やる戦士もいれば納得できない様子の戦士もいる。ドーグはただエリアス王子を信じているが、不安になって戦士たちの顔色を窺った。エリアスは珍しく真面目な顔になって睨みつけるように一同を見渡し、両拳を腰に当て、腹を突き出す。「おめぇらの言いたいことはわかってる。だが、ここはアルダー地方で、おそらくやつらは無法者だ。アルトレイムの玉座でふんぞり返って兵の一人も出してねぇエドヴァルドのために命を賭けて働きてぇか? 爺を殺してノウスの勇者になれんのかよ? 俺はおめぇらにつまらん戦いで馬鹿みてぇに死んでほしくない。いつか必ず、名誉ある戦場に連れて行ってやる。俺を信じてついてこい。納得できねぇなら、後で挑戦でも何でも受けてやる」
誰も何も言わず、歩き始めたエリアスに戦士たちは一人また一人と付いて行った。そうしてエリアス率いるドルイド討伐軍はいくらかの物資を得て西へ戻った。




