65.灰色狼(3)
一人で部屋に残されたエリアスは肩に斜め掛けしたままの水袋から生ぬるくて皮臭い水を飲み、小袋の底に残ったドングリのビスケットの破片をもそもそと口にした。話をすぐに信じてもらえたのは意外だった――いやまだ安心するな、と心の傷が疼いて警告する。頭領らしき男は裏表のある人物には見えなかったが、それを言うならブルンドもソールヴもそうだった。最後の瞬間まで信用しきってはいけない。誰にでも思惑はある。それを知って利害が一致するまでは安心できない。そして、いつ利害が一致しなくなるかに注意しなければならない。
白夜のおかげで部屋の中は真っ暗にならずに済んでいた。渓谷の中を響く人の声や馬のいななきが聞こえる。足音が近づいてきて、どかんと扉を蹴り開けた。驚くエリアスの前に現れたのは頭領らしき巨漢で、両手にパンとチーズと燻製肉の塊を持ち、小脇に陶器瓶を抱えている。それらをどっさりテーブルに置いて、倒れかけた陶器瓶を掴んで直し、一言。「食え」
実のところかなり空腹だったエリアスにはありがたかった。「ありがとうございます」頭を下げると男は陽気に言った。「若けぇやつは食わねぇとだめだ。どんどん食え。俺くらいになったら食うのを止めろ」
エリアスはもう一度礼を言って陶器瓶からミードを杯に注ぎ、食べ物を口にした。男は火口から蝋燭に火を移してテーブルの隅に置き、自分も座ってミードを注いだ。
「まだ名乗っていなかったな。俺はオーロフ。この〈灰色狼〉の頭領で、かつては〈灰色狼〉ドーグラス王の従士だった。盗賊団とか言われているらしいが、エドヴァルドの野郎に付いた豪族連中の農場を何度か襲撃したことがあるだけで、〈灰色狼〉ってのも連中が勝手に名付けたんだ。俺たちがドーグラス王の御旗を使っていたからだろうけどな」オーロフはミードをぐびりとあおった。「外にいたドルイドの連中は心配するな。中に入れてやった。討伐軍とかいうやつらはまだ姿を見せてねぇ」
エリアスは口の中のものをミードで流し込んだ。「助かりました。正直、僕の話をすんなり信じてくれるとは思いませんでした」
礼には及ばんとオーロフは手を払う。「もうずっとこんな辺境にいるが、俺だって世の中の流れってやつは見えているつもりだ。いずれはそうくるんじゃねぇかと思っていたし、エドヴァルドの野郎が考えそうなことだなってピーンと来たわけよ」
「知り合いなのですか?」
「うん」オーロフは悲しげにうなずいた。「そうだな、もしドーグラス王が生きていたらお前とは気が合ったかもしれねぇ。全然違うタイプだが。我が王は新しいものが好きで、伝統とか慣習とかいうやつが嫌いだった。お父上の代からのお付き合いですから引き続きよろしく、なんて野郎は蹴っ飛ばしてた。いや実際に蹴ってはいねぇが……まぁ、そんなわけで過去の経緯は無視し、自分が良いと思った豪族を取り立てて身の回りに置いた。俺やエドヴァルドもその中の一人だった」
エリアスは食事を続けながら相槌を打つ。
「当然、昔からアルトレイムの玉座にくっ付いていた連中からは反感を買うよな。それを利用して根回ししてやがったのがエドヴァルドだ。やつの反乱はあっという間だった。敵ながら手際が良かったと言わざるを得ねぇ。やつの筋書きでは、挑戦権を行使すると宣言してからアルトレイムに向かったところ、ドーグラス王は一足先に逃げ出していたって事になってやがる。実際にはエドヴァルドの宣言より前に蜂起した裏切り者どもに奇襲されて逃げ出さざるを得なかったんだ。お妃のソーヴィ様は出産直後で赤子を抱えていたしな。それもやつの手の内だったんだろう。お二人とも……いや赤子の王子を入れれば三人ともか、森の中で殺された」
オーロフは憎々しげにパンを噛み千切り、ミードをがぶがぶ飲んだ。
「難を逃れた俺たちは密かに集まって裏切り者どもの農場を襲撃して略奪した。そしてここまで逃げ延びて住み着いたのが始まりだ……っとと、いや、そんな話をしに来たんじゃねぇや。爺になると自分の話をしたがっていけねぇな。さっきの話だが、受けるぜ。若けぇやつらを連れて行ってやってくれ。その代わり、そっちの爺は受け入れる。ま、ここもいつまで持つか知らんけどよ」
四王が結んだ十年の不可侵によって、北方の歴史の中では比較的平和な十年となるだろうが、戦いが無くなるわけではない。自国内の反乱分子を平定し、王位継承を確かなものとするための十年だ。いずれこの隠れ谷にも敵は来る。エドヴァルドだけの軍かもしれないし、四王の誰かが連合しているかもしれない。それはわからないが。
「うちの連中の頭は息子のトリスタンに張らせる。ほら、お前を連れて来たやつだ。黒髪の。これからあの頑固なガキを説得しなきゃならねぇんだが、そのために〈極北の地〉ってぇのがどんな場所か教えてもらえんかね」
「トリスタン殿は納得していないのですか?」
「ああ、逃げるのは恥だとかなんとか。あいつはエドヴァルドの反乱があった時、九歳かそこいらだった。それまで近所のお兄さんだと思っていた連中が殺しにかかって来る中を逃げてきたんだ。その裏切りがずっとここんとこで疼いてんだろう」オーロフは胸を親指で突いた。その傷はエリアスにもある。
「オーロフ殿はもう許されたと?」
「馬鹿言うない!」パンくずを腹の上に散らしてオーロフは雄牛のように鼻を鳴らした。「もし連中の誰かが〈大地の館〉にいやがったら速攻でぶっ殺す! あいや、もう死んでるから殺せねぇのか……? まあそれでも気の済むまでぶちのめす」ミードをごくごく飲み干してげっぷを吐いたオーロフは同時に怒りも吐き出したように落ち着いた。「ただなぁ、信じるとか裏切るとかはこっちの勝手な思い込みなんじゃねぇかと思うようにはなった」
「勝手な思い込み、ですか?」
「ああ。あいつらも自分の目的とかあって、ただそこに向かっていただけなのかもなぁ、てよ。たまたま同じ方向に歩いていたやつがずっと自分と一緒に歩いてくれると〝信じる〟。自分にとって都合の悪い方向に行っちまったら〝裏切られた〟。どっちも勝手な思い込みなのかもしれん、てことよ。ああ、俺も爺になっちまったな」
その言葉はとても印象深くエリアスの胸に響いた。自分を救う何かが含まれているような気もしたが、まだうまく飲み込めなかった。
「話が逸れちまった。〈極北の地〉の話を聞きに来たんだった」
エリアスはカティヤから聞いたことをそのまま伝えた。北方人にとって未知の土地。一年中凍り付いた大地。トナカイと遊牧民。オーロフは目を丸くした。「なんじゃそりゃあ。本気なのか……いや、本気なんだろうがよ。お前らが立ち向かう相手はエドヴァルドなんか目じゃねぇほどの強敵だ。逃げるどころか、戦いに行くんじゃねぇか」
「そんなふうに考えたことはありませんでしたけど……その方向性で説得できるんじゃありませんか」
髭をしごくオーロフが手を止める。「むお、そうだな。よし」とテーブルに手を付いて立ち上がった。腹の上のパンくずを払ってのしのしと歩き出す。
「オーロフ殿もぜひ一緒に」扉を開けたオーロフをエリアスは呼び止めたが、彼は肩をすくめた。
「やめとけ、やめとけ。俺なんか足手まといになるだけだ。それに俺ぁ、あのドルイドの爺どもの気持ちがわかるのよ。俺もこの土地にがっちり根を張っちまって、引っこ抜いたら死んじまう」
オーロフは出て行き、エリアスは再びテーブルの食べ物に手を付けた。久しぶりのまともな食事というのもあるだろうが、胸のつかえが取れたような気分でいつもよりたくさん食べた。
翌朝から自由に集落を歩けるようになった。この渓谷からの同行者は四〇人近くになるらしい。トリスタンが橋の上から陣頭指揮を執っている。「長旅になるが荷物は最小限に。できるだけ手持ちで済むようにしろ」
「トリスタン殿。おはようございます」エリアスが呼びかけると黒髪の戦士は振り向いた。
「エリアス」と手を差し出す。「これから長い戦いになる。よろしく頼む」
エリアスはその手を取った。力強い握手だ。「これ以上に厳しく、命がけの戦いはないでしょうね」
トリスタンはにやりと笑った。そうすると、彼の父親に似た陽気さが浮かび上がる。「ああ。いずれ父上に〈大地の館〉で語る日も来るだろう」
準備には丸一日かかりそうだ、というトリスタンと別れて、エリアスはドルイドたちのもとへ向かった。ドルイドたちは渓谷に入ってすぐの岸辺に寄り集まっている。橋を渡って坂を下り、川岸を歩いていくとドルイドたちも気付いた。
「皆さん。昨晩、首領のオーロフ殿と話しました。希望する方はここに受け入れてもらえるそうです。おそらく森の中はますます厳しい状況になっていくと思います。それでも北方に残りたい、という人を止めようとは思いませんが……」がっちり根を張っちまって、と言ったオーロフの背中が思い浮かぶ。「ただ最後にもう一度だけ訊かせて下さい。僕と一緒に戻ってくれる方はいませんか?」
ドルイドたちは黙って首を横に振った。まだ幼いオコナーでさえ決意は固いようだった。無念の想いで目を伏せたエリアスは名を呼ばれて顔を上げる。ファードルだ。
「エリアス王子。やはり生まれ育った北方に残りたいという想いは強い。だが、死にたかったわけではないのだ。無駄死にするよりはせめて、ほんの少しでも意味のある死になれば、という絶望の中での選択だった。しかし王子は新しい選択肢を与えてくれた。ドルイドとしての暮らしを続けるにせよ、捨てるにせよ、ここならひとまず落ち着いて新しい生活を始められる。ここが彼らにとっての〈芽吹きの地〉なのだと私は思う。だから……心より感謝する。ありがとう」
ファードルが頭を下げて、ほとんどのドルイドがそれに倣った。エリアスは首を左右に振る。喜んでも良かったはずなのになぜか悲しかった。「いえ、僕は……お礼ならオーロフさんに言ってください」そこでエリアスは違和感に気付く。「いま、彼ら、と言いましたか?」
ファードルはうなずいた。「ああ、私は君と一緒に行く。君が導く先にどんな希望が芽吹くのか、見届けてみたくなった」差し出された手をエリアスは握りしめた。
「ありがとうございます。ファードルさん。それと、僕のことはもう王子とは呼ばないで下さい」
「そうだな、確かに」エリアスは初めてファードルが笑みを浮かべるのを見た。
そこへ、突然の馬のいななきと共に戦士が水しぶきを上げて駆け込んで来た。何事かと振り返ると、三つの騎馬が水を蹴って走って行くのが見えた。一人は鞍の上に伏せっている。
「ちょっと様子を見てきます。皆さんはここに」エリアスは走って追いかけた。一人は馬を下りて動けない仲間を担ごうとし、もう一人はそのまま渓谷の奥へと駆けていく。
「エリアス!」呼ばれて見上げると橋の上にトリスタンがいて手招きしていた。不案内なエリアスは左右を見回して経路を確認し、坂を上る。トリスタンを追って谷の奥へと走っていき、昨日一晩過ごした最奥の小屋に二人して駆け込むと、騎手の一人が椅子に座って水を飲みながらオーロフと話しているところだった。
「討伐軍ですか!?」というエリアスに「たぶんな。連中の野営地を見つけて一悶着あったらしい」とオーロフは答えた。
「行きがけに一戦交えるか」トリスタンが息巻く。それも止む無しとうなずいたエリアスだったが、オーロフは違った。「いや。おめぇらは急いで出発だ」
「しかし父上」
「ガキに心配されるほど老いぼれちゃいねぇ。連中の野営地は山沿いを西に五マイル行った辺りだ。なら、緑の道が使えるだろう」
「しかし……」
「しかしも案山子もねぇ。そんな雑魚相手に命張ってどうすんだ。お前らの戦場はここじゃあねぇだろうが。トリスタン、お前が率いる連中には戦えねぇやつもいるんだぞ。嫁さんと娘っ子を抱えたまま剣を振るつもりか?」
トリスタンは苦虫を噛み潰したような顔をしてうめいた。「まったく、父上の口の巧さときたら……腹が立つ」くるりと踵を返して開け放たれたままの扉へ向かう。
「おい、わかってんだろうな」という父に「出発の準備を急がせます」と返して息子は出ていった。
「本当にいいのですか?」
「本当にいいのですよ」オーロフは冗談めかしてニヤリと笑い、それから真剣な目つきになって続ける。「エリアスよ、戦いのことはトリスタンに聞け。それ以外は自分で考えろ。あいつに遠慮するな」
「……ありがとうございます」エリアスは深々と頭を下げた。
「うん」とオーロフはうなずいて最後に言った。「頑張れよ」




