63.灰色狼(1)
〈芽吹きの地〉を目指す行列から離脱したドルイドの一団は西へと向かった。右手には、天まで届かんばかりの〈世界の果て山脈〉が壁のように立っている。森歩きの達人であるはずの彼らがはっきりと移動の痕跡を残しているのは、追手を引き付けるためだろう。地面に残った足跡や隠そうともしていない休息の跡を見つめていると必ずファードルがやって来て、「まだ間に合う。引き返せ、エリアス王子」と繰り返すので、エリアスも努めて他人事のように同じ対応をした。
「討伐軍がこちらを追って来るからですか。全軍で来ればいいけど、たぶんそれはない。半数くらい割ければ上手くいったほうでしょう」
「そういう物言いはよせ」
「ドルイドは個人の意思を尊重する自由の民ですよね。だから僕の決断も受け入れるしかない。それはドルイドの場合のみで、僕はドルイドじゃないから適用されないとかいう理屈なら別ですが」
「そういう物言いはよせ」
「僕を引き返させたいなら一緒に戻って下さい」
「……それはできない」
そんなやり取りを何度か繰り返しながら、何事もないまま二日ほど西進を続けた。そして昼食のために停止した時、またもファードルがエリアスのもとへやって来た。しかし今度はいつもの文句ではなかった。
「〈動物共感〉で確認した。奴らの半数が我々を追って来ている」
わかっていた事とはいえ、全身に緊張が走る。ただでさえ飲み込みにくいドングリのクッキーが喉を通らない。
「エリアス王子、これが最後だ。行列に戻れ。今ならまだ――」
エリアスは口元に乾いた笑みを浮かべた。「僕一人で、危険を避けて、迷わずに合流できると思っているのですか?」
さすがのファードルもできるとは言えず、指の隙間から覗いていた石をぎゅっと握りしめた。エリアスに持たせようと作ってくれた魔獣除けの守り石だろう。
「皆さんはどうするつもりです?」エリアスは誰にともなく問うた。すると、近くにいた老人が答える。「……逃げ続けるだけです」
エリアスはその老人に向き直った。「昨日の午後から少しずつ南寄りに移動しているような気がします。人里を離れるなら北の〈世界の果て山脈〉へ近付いたほうがいいはずなのに、何か理由があるのですか?」
老人は観念したようにため息を吐いた。「〈灰色狼〉の縄張りを避けるためです」
その名をどこで読んだか聞いたか、それほど苦労せずに思い出せた。「確か……アードリグの前王のあだ名でしたね?」
「ええ、そうです」別の老人が答える。「前王への忠義を捨てず、エドヴァルド王に傅かなかった豪族や従士たちが密かに集って仇討ちを目論んでおったのです。前王のあだ名にちなんで〈灰色狼〉と呼ばれるようになりましたが、結局は果たせず、ただの野盗と変わりなくなってしまいました」
アルダー地方の中心をアルトレイムと見れば、このあたりが辺境なのは間違いない。エドヴァルド王の力がアルダー地方全域に及んでいないことは知っていたが、攻撃を仕掛けられるほど穴だらけでもない、ということだろう。そしてこれが、目の前に下りてきた細い細い命綱のようにエリアスには感じられた。このままでは明日の朝日が最後になってしまう。ならば賭けに出ない理由はない。
「ここからはなるべく痕跡を隠して、その〈灰色狼〉の根城に行きましょう」
老人たちが目を丸くする中、ファードルが声を荒げる。「何を馬鹿な! 話を聞いていなかったのか? 殺されてしまうぞ!」
「殺されませんよ」エリアスは自信ありげに言った。「ここまで来ておいて、討伐軍も追跡を諦めて引き返したりしないでしょうから時間も稼げる。あなた方の目的にも適うはずです。根城の場所は知っていますよね?」
「それは……」
「なぜ殺されないと言い切れる?」というファードルをエリアスは無視した。ドルイドに殺すほどの価値はないから殺されない可能性もある、などと正直には言えない。代わりに老人を問い詰める。「さっき縄張りを避けると言いましたよね。避けられるのは場所がわかっているからですよね?」
老人はためらいがちに小さくうなずいた。エリアスはパッと立ち上がって声を張る。「皆さん、出発です! ここからはなるべく痕跡を残さないよう行きます。そのほうが時間も稼げます。さあ、準備を!」
ファードルはぶつくさと文句を言ってきたが、結局ドルイドたちはエリアスに従って〈灰色狼〉の根城へと進路を北北西に変更した。元より彼らは死出の旅のつもりで、目的地もないのだから、積極的に反対する理由が無い。自信ありげに大きな声を上げれば付いて来るだろうというエリアスの予想どおりになった。
広葉樹と針葉樹が混在する森林を進む。そびえ立つ巨大な壁〈世界の果て山脈〉へ近づくにつれて地形は少しずつ険しくなっていった。崖や渓谷を越えて一日ほど歩くと、先頭の老人が立ち止まって震える指で先を示した。「あの沢の辺りから〈灰色狼〉の縄張りです。このまま進めばすぐに見つかってしまいます」
「下手にコソコソすると不審ですから、堂々と行きましょう」
ファードルはむっつりと沈黙したまま。老人たちは困惑して顔を見合わせる。「さあ、大丈夫ですから。行きましょう!」パンパンと手を打って歩き出すと、ドルイドたちものろのろ付いてきた。徒歩で渡りやすそうな浅瀬は誰かの通り道になっているようだったし、その先の森の中にも、切り株や刃物で落とされた枝の跡など人間が近くにいる痕跡はそこここにあった。エリアスはごくりと唾液を飲み込む。喉がひりひりした。突然矢が飛んできて自分の胸に突き刺さることだってあり得無くはない。実際のところ、これは賭けなのだった。
「ああ、山賊が来ます……」老人がわなわなと震えた声を出す。エリアスは立ち止まって大声で指示した。「皆さん集まって下さい。僕の後ろに!」
ドルイドの集団を背にしてエリアスは胸を張り、山賊を待ち構えた。できるだけ自信たっぷりにしていたかったが、脚の震えは抑えきれなかった。腰を掴んで立つオコナー少年にははっきりと分かってしまっただろう。やがてドカドカという人間のものではない足音とともに、木々の合間から無法者の姿が見え、エリアスは目を丸くした。なんと、馬に乗っている!
南のファランティア王国では、馬は乗用としても使われるが、北方では荷運びや農耕に使われるのが普通だ。まともな道はほとんど無いし、森の中は乗馬に適しているとは言えない。しかし彼らは馬でやってきた。器用に障害物を避けつつエリアスたちの周囲をぐるぐると回る。エリアスはただ黙って立ち続けた。まるで巨人に囲まれているかのような威圧感に動けなくなってしまっていた。馬上の男たちは野盗というよりはまともな恰好をしていたが、見下ろす冷徹な視線は無法者のそれだった。いきなり踏み潰されなかったことに希望を見出しつつエリアスは声を出そうと努力して、何度目かに成功した。
「我々はドルイドです! 〈灰色狼〉の皆さんに警告の報せを持ってきました!」
ドルイドだと。見ればわかる。警告だって。などと口元を歪めながら馬上の男たちはゆっくり周回していたが、一頭がエリアスの前で止まった。馬上にいるのはほとんど黒に近い髪色の男で、二〇代後半から三〇代前半という年頃。戦士らしい筋肉質な身体つきと堂々とした雰囲気からこの部隊の長だとわかる。背中に背負った大剣は、まさか馬上で振るうのではあるまい。エリアスでは両手で持ってもふらついてしまいそうな代物に見える。
「話してみろ」いかにも北方の男らしい単刀直入な物言いだった。
「四王について聞いたことは?」
男は首を左右に振った。
「アードリグのヨルゲン、スケイトルムのエイリーク、スパイク谷のアスガル、そしてアルトレイムのエドヴァルドがそれぞれの地方の王としてお互いを承認しあったのです。一〇年間の同盟も込みで」
エドヴァルドという名に男は歯ぎしりした。周囲を巡る男たちも、そんなことが、嘘だろ、と囁き合う。
「もっと詳しく聞こうか」
「もちろんそのつもりで来ました」エリアスは自分の胸に手を当てる。「僕はほとんど全ての事情を説明できます。しかし、ここでは話せません。我々をあなた方の本拠地に入れてくれませんか」
馬上にいる別の男が問うた。「お前らがエドヴァルドの差し金でないという証拠でもあるのか?」
「たとえ忠誠を誓った相手の命令だとしても、ドルイドに変装して敵の本拠地に忍び込めと言われて従う北方の男がいますか。本物らしく見せるために老人を集め、怪我をした子供まで連れて。井戸に毒でも入れますか」
相手の威圧感に負けまいとして、少し挑戦的な物言いになってしまった。男は目を剥き、武器に手を伸ばす。エリアスは杖のように立てている六尺棒をぎゅっと握った。黒髪の男が「よせ」と部下を制する。
「お前たちが本当にドルイドだと言うのなら森の全てを知っているはず。当然、我々の本拠地も知っていなければおかしい。夕方までに入口まで来い。我々は先に戻って待つ」
男が手を振って合図すると、〈灰色狼〉たちは馬首を巡らせ、土を跳ね飛ばしながら去って行った。馬の尻が木々の向こうへ消えて行くのを見送っているとファードルが背後から話しかけてくる。「どういうつもりだ、エリアス王子」
エリアスは振り向けなかった。今更ながら全身に震えが来て、顎が定まらない。足元にオコナー少年がいなかったら、へたり込んでいただろう。「ここは……僕に任せて下さい……」
なぜ、アウラと二人で敵に囲まれた時のように落ち着いていられないのか。あの時と何が違うのか。それは考えるまでもない。あの時、背中に感じていた彼女の全てを、自分の命よりも大切に想った。自分の命の使い道をたった一つに定められた。その彼女を自ら手放してしまうなんて、なんと愚かな選択をしてしまったのだろう。しかし、それでも、それでも、と、エリアスは口を真一文字に結んだまま心の中で繰り返した。




