第44話 どうか幸せに
横転した車から這い出して意識が途切れ、次に目を覚ました時はもう病院で寝ていました。
身体中のあちこちがズキズキと痛みましたが、同時にああ、生きているんだな。とも思えます。
意識がはっきりしてきたところで、僕はベッドわきにある椅子に腰掛けた千秋に、今一番気になっている事を問いかけます。
「千秋、琴美と話した時、どんな様子だった?」
「泣いてたよ。とんでもない事しちゃったって言ってた。治療費は琴姉ちゃんが払うって言ってたから一真は気にしなくていいよ」
僕が尋ねれば、千秋はいつもの気の抜けた笑顔で説明しました。
「……そう」
「心配しなくても、琴姉ちゃんが病院に運ばれた時にはすぐに家族が駆けつけて、最終的にしばらく自宅で療養する感じになったから、放っておいても変な気は起こさないんじゃないかな」
「そっか……」
なんだか自分の考えを見透かされているようで居たたまれないような気分になりましたが、とりあえず琴美が実家に帰ったと聞いて僕は安堵します。
「もし、一真に琴姉ちゃんを訴える気が無いなら、もう連絡はしない方がいいと思う」
「……そうだね。僕はこの事で琴美を訴えたりする気はないし、治療費を払ってくれるなら、それで十分だよ」
千秋の言葉に頷いて、僕は視線を窓の外へと向けました。
日差しがさんさんと降り注いで、たまに吹く暖かくて心地良いとても穏やかな日でした。
後日、病院を退院した僕の元へ、琴美の両親が揃ってお詫びにやってきました。
琴美からは、別れる事になって最後の思い出にと誘った日帰りの旅行で、別れるくらいなら一緒に死のうと思ってわざとハンドルを切った、とだけしか聞いていないようです。
随分と恐縮して謝られてしまいましたが、実際にあった事を考えると、琴美の両親はむしろ、大事な娘をそこまで追い詰めた僕に謝罪を要求すべきなのです。
しかし、せっかく助かった命を捨てる気にはなれなかったので、真実については黙っておきました。
現在の琴美の様子を尋ねてみると、仕事も辞めて部屋に篭って塞ぎ込んでいると聞いたので、僕には琴美を訴えたり責める意思は無い事と、彼女には生きて幸せになってもらいたいと思っている事を伝えてもらえるよう彼女の両親に頼みました。
琴美の両親は僕に何度も謝罪とお礼の言葉を言いましたが、元来僕は彼等にそこまで丁重に扱われるべき人間ではありません。
見舞金と書かれた分厚い封筒を渡されそうにもなり、流石にそれはもらえないと固辞しようともしました。
けれど、頑なに僕へ見舞金を渡そうとする彼等を見て、ここでお金を受け取らない方が、かえって相手にいつまでも罪悪感を抱かせる事になるのだろうと気づきました。
お金を払う事で、もうこれは済んだ事と割り切れるのなら、あちらもその方が良いのでしょう。
そうして僕は予期せぬ臨時収入を得る事になりましたが、なぜか気持ちは沈むばかりでした。
彼等の言葉の節々には、心から琴美の事を大切に思って心配している事が感じられて、やっぱり僕は彼女の事を羨ましく思ってしまいます。
しかし、今はもう琴美の事を憎らしく思うような事はありません。
所詮、彼女とは住む世界が違ったのです。
どんなに琴美を羨んで嫉妬した所で、僕の本当に欲しいものは、もう手に入るはずが無いのだと、この時やっと僕ははっきりと自覚しました。
もう僕が琴美に出来る事は何もありませんが、ただ、彼女には幸せになってもらいたいな、と思います。
僕の怪我は、咄嗟に頭を庇った事もあり、特に後遺症も無かったのが不幸中の幸いです。
「でも、骨にヒビが入るのって、結構きついんだな……」
どこか他人事のように僕は呟きました。
怪我の痛みももちろんですが、擦り傷のようにかさぶたができたらすぐ前のように動ける訳でもないのがとても不便です。
ひびが入るどころか、骨折なんてしていたら、もっと大変だったでしょう。
そう思いながら、僕はもう二度と顔を見る事もないであろう実の父の事を思い出します。
「きっと、あの後大変だったんだろうなあ……」
あちらは大腿骨ですし、しばらくは自分で歩く事も困難だったでしょう。
彼は僕を許さないだろうし、僕も彼を許す気はありません。
そうして、全部僕のせいにしてればいい。
琴美の両親も帰り、誰もいなくなった部屋で、僕は静かにそう思いました。