第五十三話:決断
あれから二時間。
試験ログとレイアウト解析の突き合わせから、ホワイトボードには、すでに整理された三つの修正方針が並んでいた。
配線レイアウト修正。
端列側の駆動補強(局所バッファ追加)。
タイミングマージン調整。
高村が資料を机に置く。
「では整理します。まず評価結果は出揃っています。チップの端列だけが条件依存で落ちる。原因も範囲も特定済みです」
斎藤が腕を組んだまま頷いた。
高村がホワイトボードを指す。
「まず最優先は配線レイアウトの修正です。ここが遅延の根本原因です」
誰も異論を挟まない。
ただし、それが一番重い変更であることも全員が理解していた。
斎藤が呟く。
「配線レイアウトの修正か……マスクの引き直しになるな。時間も金もかかるな‥‥」
空気が一段だけ重くなる。
“マスク”という言葉が、その意味を全員に思い出させていた。設計変更ではなく、製造工程そのもののやり直し。
高村が続けようとしたところで、若い技術者が口を挟む。
「配線を触らずに、バッファで逃がせないんですか?」
一瞬だけ空気が動く。
高村は首を振る。
「端列だけの遅延が条件依存で出ている。局所的な補正では吸収しきれない。余裕そのものが足りない」
別の技術者が続ける。
「タイミングマージン側で逃がす案は?」
「それは評価条件としては成立します」
高村は即答したあと、少しだけ間を置いた。
「ただし製品保証レベルでは足りません」
沈黙が落ちた。
議論はすぐに収束した。
斎藤が静かに言う。
「やはり、配線の修正は必要か」
高村は頷く。
「はい。そこを触らない限り、根本は残ります」
高村が続ける。
「その上で問題は端列です」
高村は図面をなぞる。
「信号の立ち上がりを待つ余裕が足りていません。配線だけでは吸収しきれない恐れがあります」
一拍置いて続ける。
「なので端列入口にだけ、局所的なバッファを追加し、信号を強くして立ち上がりを補います」
高村は最後の項目に視線を落とす。
「そしてタイミングマージンは評価条件側で詰めます。これは設計変更としては最小です」
しばらく沈黙が流れる。
誰もすぐには言葉を返さない。
斎藤が静かに言う。
「……最後に確認だが」
一拍置いて続ける。
「この三つを全部やらなければ、根本的な解決にはならないということだな?」
高村は頷く。
斎藤は一度だけ目を閉じ、短く息を吐いた。
「……わかった」
そしてゆっくりと立ち上がる。
「ならば全部やるぞ」
高村が静かに頷いた。
「設計方針確定。マスク修正と局所改修、評価条件調整を並行で進めます」
斎藤が短く言う。
「よし、進めろ」
その言葉と同時に、設計チームが一斉に動き出した。
図面が回収され、次の工程へと流れていく。
高村がこちらを向き、軽く頷いた。
「佐伯君、これでようやく先に進めるよ」
斎藤も短く頷く。
「ありがとう。ここからは私達に任せてくれ」
高村が一歩近づき、手を差し出した。
忠夫は少しだけ間を置き、その分厚い手を握る。
「本当に助かったよ」
「いえ、皆さんのデータがあったからです」
短く握手を交わし、高村はすぐに手を離した。
忠夫は、ふと思い出したように斎藤へ向いた。
「……そういえば、RISC CPUの件って、どうなりましたか?」
斎藤は一瞬きょとんとしたあと、苦笑した。
「一応、米国から論文は取り寄せたんだが……見ての通り忙しくてね。まだ解読途中だよ」
少し肩をすくめ、続けた。
「よかったら、コピーを持っていくかい?」
忠夫の目がわずかに細くなる。
「……ぜひ」
斎藤は小さく笑みを浮かべた。
「そうか。なら山下さんに預けておくよ」
そう言うと、軽く手を上げ、現場へ戻っていった。
廊下に出ると、少し遅れて山下が会議室から出てきた。
「お疲れさまでした」
山下は軽く息を吐きながらそう言った。
「かなり大きい判断になりましたね」
忠夫は小さく頷く。
「ええ、ですがここからは僕の役割ではありません」
山下はそれを聞いて、短く笑った。
「ええ。もう実装側の領分ですからね」
少し歩いたところで、山下は茶封筒を差し出した。
「斎藤常務からです。例の論文ですよ」
忠夫は一瞬だけ足を止め、封筒を受け取った。
中には英文のコピー資料が数十枚綴じられていた。
忠夫の口元がわずかに緩む。
「……ありがとうございます」
山下は肩をすくめた。
二人は並んで歩き出した。
夕闇が迫る開発センターの窓からは、今夜も消えることのない不夜城の明かりが漏れ始めていた。
開発は次の段階へ移った。




