第四十七話:全社合意
1983年、3月下旬。
あれから3ヶ月がたち、春休みの気配が漂い始めた午後、忠夫は自宅の居間で、しんと静まり返った空気の中にいた。
テレビからは、間もなく始まる選抜高校野球のニュースが流れている。そんな日常の風景を切り裂くように、黒電話のベルがけたたましく鳴り響いた。
受話器を取り、耳に当てる。
「……もしもし、佐伯です」
「佐伯君、私です。山下です!」
受話器の向こうから飛び込んできたのは、普段の冷静さをかなぐり捨てた、山下弁理士の弾んだ声だった。
「……佐伯君、やりましたよ!今、最後の一社が折れました。これで一社を除いた主要メーカー全社とのライセンス契約、すべて完了です!」
受話器の向こうで、山下が大きく息を吐く音が聞こえた。知財のプロとして百戦錬磨の彼にとっても、この三ヶ月は薄氷を踏むような交渉の連続だったに違いない。
「本当ですか、山下さん……! ありがとうございます……!」
忠夫の声が、震えていた。
これまで、現代の知識という「カンニングペーパー」を手に、冷徹に盤面を動かしてきた。だが、受話器から伝わる山下の興奮、そして「全社合意」という重たい事実は、知識としての予測を遥かに超え、生々しい質量を持って忠夫の胸を直撃した。
「……よしてください。礼を言うのはこちらの方ですよ、佐伯君。私はね、今、人生で一番面白い仕事をしていると確信しています」
山下の誇らしげな笑い声が、受話器のノイズに混じって響く。
「それと、国際特許の出願も無事完了しました。PCTに基づき主要市場への優先権をしっかり確保しています。これで、世界へ打って出るための“道筋”は整いました」
山下のその一言に、忠夫は一瞬息を呑んだ。
「……そうですか。これで、外堀も埋まりましたね」
「ええ、これで、どのメーカーが異議を唱えようとも揺るぎません。主要各社の合意がそろった以上、技術の正統性はかなり強固になりました。佐伯君の方式を“後出し”と言う者がいたとしても……この契約書の束が、何よりの証明です」
山下の言葉には、知財のプロとしての確かな勝利の響きがあった。
「……そうですね。山下さん、これからもよろしくお願いします」
忠夫は受話器を握りしめ、深く、噛みしめるように言った。
「ええ。こちらこそよろしくお願いします……ではまた」
その力強い言葉を最後に、電話は切れた。
「ガチャン」と受話器を置く重厚な音が、静かな居間に響く。
窓の外では、今にも咲きそうな桜の蕾が春の訪れを告げていた。




