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五十六歳の研究者、中学生から人生をやり直す  作者: 正宗


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第三十八話:弁理士

忠夫は父と二人、神田のビジネス街にある古びた雑居ビルの前に立っていた。

重い鉄扉を開けると、そこは微かなタバコの香りと、山積みにされた特許公報のインクの匂いが淀んでいた。


「あの……今川先生のご紹介で参りました。佐伯と申します」


「……今川くんからお聞きしています。どうぞこちらへ」

デスクの奥から立ち上がったのは、白髪混じりの整った髪に、鋭い眼光を宿した老紳士だった。


「初めまして山下です……そちらが、今川くんの言っていた佐伯忠夫君ですか」

山下は、和雄と名刺を交換しながらも、その視線は既にその後ろに立つ少年に注がれていた。


忠夫はカバンから佳子の実印が押された委任状、そして自作の基板とノートを静かに机へ置いた。 


「佐伯技術研究所、佐伯忠夫です。……第1項、『プロセッサのサイクルに非同期な……』。この定義で、権利を確定させたいんです」


山下は無言でノートを手に取った。眼鏡の奥の目が、緻密に書き込まれた回路図と、論理構成を追っていく。

数分後。山下の手が、わずかに震えた。


「……これは……ただの擬似SRAMじゃないな。リフレッシュ(記憶の保持動作)のタイミングを隠蔽するだけでなく、バスの占有権(アクセス権)の優先順位を、ハードウェアレベルで完全に掌握している……」

山下は深く椅子に背を預け、天井を仰いだ。


彼が驚愕したのは、技術そのもの以上に、その技術を「法的な檻」として定義する際の、異常なまでの抜け目のなさだった。設計者が将来どう「回避」しようとするかをすべて先回りし、どの道を通っても特許の網に掛かるように、論理が編み上げられている。 


「……今川くんが『怪物』と評した理由が、ようやく分かった。この書き方は、メーカーの設計思想がどう進化するかを、あらかじめ見越しているかのようだ」


「失礼ですが……山下さんは、なぜ大手メーカーの看板を捨てて、一人で事務所を?」

忠夫の問いに、山下は苦笑を漏らした。


「……組織というのは、時に技術の価値を『政治の道具』にしてしまうからですよ。私が心血注いだ回路が、海外の大手との提携交渉の材料として、紙切れ同然に扱われた。……私は、自分の技術が安売りされるのが我慢ならなかった。それだけです」


山下は、忠夫のノートを確かめるように撫でた。

「だが、君のこの『檻』は違う。これは組織の論理ではない。一人の技術者がメーカーを相手に『対等』に立ち回るための武器だ。……戦慄するほどに完璧な武器ですよ」


忠夫は、表情を変えずに応じた。

「……メーカーを敵に回すつもりはありません。ただ、彼らには『正当な対価』を支払ってもらいたいだけです。組織が個人の知性を搾取するのではなく、技術が正しく報われる仕組みを作りたい」


中学生の静かな、しかし確信に満ちた言葉に、老弁理士は深く頷いた。

「いいでしょう。この仕事、引き受けましょう。」


その言葉の後、山下は一度言葉を切り、机の上の委任状に目を落とした。


「……ただし、先に申し上げておきます。特許出願には費用がかかります」


和雄の表情がわずかに強張る。


「出願費用に、明細書作成費用。ざっと……そうですね、二十万から三十万は見ていただきたい」


一瞬の沈黙。


だが忠夫は、表情を変えなかった。


「構いません」


即答だった。


山下の眉が、わずかに動く。


「……ほう。ずいぶんと迷いがない」


「これは投資です。ここで権利を押さえなければ、後から何倍もの代償を払うことになる」


静かだが断定的なその言葉に、山下は小さく息を吐いた。

「……では、もう一つ。これは提案なんですが、メーカーへのライセンス交渉から契約締結まで、私にその実務をすべて一任していただけませんか?」


「一任……と言いますと?」


「私は元メーカーの人間です。連中がどうやって個人の発明を買い叩き、握りつぶそうとするか、その手口を知り尽くしています。中学生が一人で交渉のテーブルに着けば、彼らは必ず法の隙間を突いてくるでしょう。だが、私が代理人として立ち、この『檻』を盾に交渉すれば、話は別です」


山下は、机の上のノートを力強く指で叩いた。

「出願費用は実費としていただきます。だが、その後のメーカーとの交渉に関しては、成功報酬で構いません。将来、この特許から生まれるライセンス料の1.5パーセントを、私の取り分とする。 ……どうです、佐伯君。私を、君の専属の交渉代理人として雇う気はありませんか?」


和雄は、その契約の規模の大きさに一瞬たじろいだ。1.5パーセント。もし忠夫の言う通りこの特許が巨大なものになれば、それは数億という単位になりかねない。


しかし、忠夫は微塵も揺らがなかった。


「……いいですよ、お願いします。技術を理解し、かつメーカーの論理を熟知している山下さんに交渉を任せられるなら、それは安いものです」


忠夫は、山下の目を真っ向から見据えた。

「僕が欲しいのは、小銭ではありません。この技術が、誰にも搾取されずに世界中に広まり、正当な対価がここに還ってくるシステムそのものです。山下さん、その『システム』の構築を、手伝っていただけますか?」


老弁理士は、しばらくの間、無言で忠夫を見つめていた。

やがて、彼は深々と椅子に座り直し、今日一番の、そしてどこか晴れやかな笑みを浮かべた。


「……はは、参りましたな。今川くんの言っていた通りだ。」


山下は、和雄に向かって丁寧に一礼した。

「お父上。素晴らしい、いや、恐ろしい息子をお持ちだ。分かりました。この仕事、私のエンジニアとしての誇りと、弁理士としての意地にかけて……一文字の妥協も許さない、最高の明細書を書き上げるとしましょう」

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